だって見たことがないもの。
その後、何度か会談が行われた。
人間側と魔族側とで少しずつ譲歩し合っているという体で進み、とりあえず『シャトリエ王国の使者が魔族に受け入れられた』という実績は出来た。
今までの人間と魔族の関係を思えば驚くべきことだ。
そうこうしている間に、魔王城へ来てから一ヶ月が経った。
「インビジブル」
声をかければ、誰もいない空間から「はい」と中年くらいだろう女性の声が返事をする。
この一ヶ月、姿は見ていないけれど、この女性のインビジブルはずっとわたくしの世話をしてくれている。
侍女も最初は驚いていたが、何かと気が利く上に普段は全く姿や気配を感じないため、優秀な使用人であった。
「散歩に行きたいわ」
「お散歩でしたら、本日は東の庭園がおすすめです。魔王様が先日注文していらしたバラが届き、昨日、その植え替えが終わったと庭師から報告が上がっております」
「まあ、それは見に行かないといけませんわね」
初めて魔王城の中をリーヴァイが案内してくれた時、どこもかしこも真っ黒で、庭の草花もなんだか人間の国のものとは違うため、言ったのだ。
『魔王城が黒いから、赤いバラが似合いそうね』
リーヴァイはすぐにバラを取り寄せるように命じた。
ソファーから立ち上がれば、侍女がわたくしの肩にケープをかけ、前合わせを留めてくれる。
準備が整うと柔らかな明かりの魔法が近くで光った。
「案内、お願いね」
「かしこまりました」
ふわふわと拳大の柔らかな光の球が浮かび、動き出す。
部屋を出て、廊下を進み、階下へ向かう。
この魔王城の使用人は半分くらいがインビジブルだそうで、そのせいか城内を歩いても使用人の姿を見かけない。
他の魔族を見かけることはあるけれど、お互いに近寄らないようにしている。
魔人のわたくしを認められなかったとしても、魔王の言葉には従っているという者も多いだろう。
わざわざ、わたくしから話しかけて相手を不快にさせる必要もなく、お互いにあえて距離を置くことも大事である。
庭に出ると光の球は東へ動く。
風に乗ってほのかに花の香りが漂ってきた。
そうして、到着した東の庭園には真っ赤なバラで埋め尽くされていた。
黒い魔王城に赤いバラが想像よりもよく似合っている。
パッと光の球が輝き、空気に溶けるように消える。
足音も気配も分からないけれど、インビジブルは近くに控えているのだろう。
わたくしが楽しめるよう、いつも、目的地に到着するとインビジブルは気配を消すから。
ゆっくり庭園を見て回る。
バラはきちんと手入れがされており、瑞々しく咲いた大輪の花から、芳醇な香りが広がってわたくしを包み込んでいる。
……とてもいい香りね。
道の端に座り、咲いているバラに顔を寄せる。
「ヴィヴィアン」
聞き慣れた声に名前を呼ばれて顔を上げる。
「あら、リーヴァイ、会談は終わったのかしら?」
「ああ、先ほどな」
立ち上がれば、近づいて来たリーヴァイに抱き寄せられる。
「会談は今回で最後だ。もうすぐシャトリエ王国に戻る」
「そうね、ここに来て一ヶ月も経ったもの。わたくしの十八歳の誕生日も過ぎてしまったわ」
「そういえばそうだったな。遅くなったが、十八歳の誕生日おめでとう。盛大な夜会でも開こうか?」
「いいえ、あなたが『おめでとう』と言ってくれたから、それで十分よ」
……二人でバラを眺めながら過ごす時間もいいものね。
リーヴァイもそう思っているのか、動く気配がない。
「そうだわ、バラを植えてくれてありがとう。想像以上にお城に似合っていて、素敵だわ。魔王城を彩る赤いバラってなんだか詩的ね」
この光景を切り取って持って帰りたいほどだ。
美しい景色に見惚れていれば、リーヴァイが小さく笑う。
「そなたが喜んでくれて良かった。確か、公爵家にも赤いバラが植えてあったり、屋敷の中に飾ってあったりしたな?」
「お母様が好きなの。お父様が求婚の際に『君の瞳は大輪のバラのように美しい』って言って贈ったそうよ」
「なるほど、紅い瞳はバラとそっくりだ」
ああ見えてお父様もなかなか情熱的である。
そんなお父様だからこそ、お母様は選んだのだろう。
最初は『魅了』をかけて始まった恋だったとしても、お父様は本当にお母様に恋をしていたのかもしれないし、だからこそ『魅了』がよく効いたのかもしれない。
ふとリーヴァイが言う。
「ヴィヴィアン、我の本性が見たいか?」
その言葉に顔を上げれば、リーヴァイと目が合った。
「本性?」
「ああ、魔王である我の本性はドラゴンだ。この体の出生は吸血鬼と人間の半人半魔だが、もはや、本体を吸収した我はほぼドラゴンに戻っている」
「腕の模様が消えたのも関係している?」
「鋭いな。腕の模様は封印だった。だが、転生し、元の体を吸収し、封印を解いた。だからあの紋様も消えた」
リーヴァイが袖を捲ってわたくしに腕を見せる。
模様のない、褐色の肌をそっと撫でた。
「くすぐったい」
リーヴァイは笑ってまたわたくしを抱き締める。
「もし、そなたがドラゴンを恐ろしいと思うならば本性は見せない。そなたに嫌われたいわけではないからな」
どうする、と問われてわたくしは答えた。
「見てみたい」
「ドラゴンだぞ? 恐ろしくはないのか?」
「さあ、分からないわ。だって見たことがないもの」
わたくしを抱きしめたまま、リーヴァイが弾けるように笑った。
「はははは! そうだな、見たことがないものを怖いと思うかは分からない! 見てみなければ判断は出来ないだろう!」
「そういうことよ」
でも、わたくしはリーヴァイがドラゴンだと知っている。
ゲームの中で、リーヴァイがドラゴンとしてヒロインの前に姿を現す場面があった。
ただ、その時はドラゴンの姿は出て来なかった。
だから怖いかどうかは分からない。
「リーヴァイ、わたくしにあなたの本当の姿を見せなさい」
そう返せば、リーヴァイがわたくしの額に口付ける。
「ああ、我が主人の仰せのままに」
するりとリーヴァイの腕が外れ、離れた場所に立つ。
リーヴァイが目を閉じると、その体が黒い膜のようなものに包まれ、それが一瞬でぶわりと大きく膨らんだ。
そうして黒い膜が弾けると風が吹き抜けた。
思わず目を閉じてしまう。
【ヴィヴィアン】
不思議な声で名前を呼ばれた。
リーヴァイの声には違いないが、少し、いつもよりこもっているような、低いような、それでいて何かの生き物の唸り声のような、初めて聞く声だった。
そっと目を開ければ、そこには一匹のドラゴンがいた。
四つ足の、肩から蝙蝠のような翼が生えた漆黒のドラゴンは鎧と見紛うほどの硬質な鱗に全身が覆われ、その大きさは平民の家一軒分くらいはありそうだ。
翼を器用にたたみ、ドラゴンがスイと顔を寄せてくる。
顔が近づくと見慣れた黄金色の瞳と目が合った。
ドキドキと胸が高鳴っている。
自分よりも大きい生き物。凶悪そうな外見は確かに気後れしてしまいそうだが、怖いとは思わない。
その黄金色の瞳からは知性を感じる。
それに、わたくしを怖がらせないように静かに、出来る限り動かないようにしながら反応を待ってくれているのが分かった。
……原作では見られなかったけれど……。
ゆっくりと手を伸ばし、ドラゴン──……リーヴァイの鼻先にそっと触れる。見た目通りの硬い感触だが、ティーカップなどのような冷たい硬質さではなく、その下に肉体の微かな弾力もあった。
撫でると、リーヴァイが小さく喉の奥で笑った。
【そこは少しむず痒い。撫でるなら、頬にしてくれ】
「ふふ、そうね、ここは鼻先だものね」
手を離せば、リーヴァイが首を動かし、顔を少し横へ向ける。
今度はリーヴァイの頬に触れた。
前世のファンタジー小説やゲームで見たドラゴンの姿とよく似て、実物を目にした感動のほうが大きかった。
「本当の姿のあなたは『孤高』という言葉が似合いそうね」
黄金色の瞳がゆっくりと瞬く。
【恐ろしいか?】
「いいえ。雄々しくて、どこか神々しくて、でも邪悪そうな雰囲気もあって、魔王に相応しい姿だと思うわ。想像していたよりもずっと素敵よ」
【そうか】
リーヴァイに近づき、頬に口付ける。
漆黒だけれど、鱗は艶があり、黒にほんのり金色が混じっているらしく、鱗の表面は金色の光沢を持っていた。
……原作のクローデットは凄いわね。
この姿のリーヴァイと戦ったのだから。
でも、リーヴァイのドラゴンの姿を見てわたくしが感じたのは、この美しく愛しい存在を傷付けたくない、というものだった。
わたくしに嫌われたくないから怖いなら本性は見せない、なんて、とても可愛らしいし、ドラゴンの自分が好き勝手に動くと危ないから、こうして静かにジッとしているのだろうところも健気である。
「人の姿のあなたもかっこいいけれど、ドラゴンのあなたもかっこいいわ。わたくしの心を二度も奪うなんて悪い人ね」
【そなたの心を奪った責任は取る】
「……これまでは人の姿のあなたしか知らなかったけれど」
リーヴァイに寄り添い、微笑む。
「これからは、ドラゴンの姿のあなたも、わたくしのものでしてよ」
確かめるようにリーヴァイの頬を撫でれば、リーヴァイが気持ち良さそうに目を細めた。
【そなたは意外と強欲だな】
「まあ、今更気付いたの? わたくしは昔からわがままなのよ」
もう一度リーヴァイの頬に口付けてから体を離す。
「でも、やっぱり人の姿のほうがいいわ。ドラゴンもとても素敵だけれど、これでは手を繋ぐことも、抱き締めることも、口付けも出来ないもの。それに鱗はあなたの体温を隠してしまうから、少し寂しいわ」
【ああ、そうだな】
そう言ったリーヴァイの全身が黒い膜に包まれ、一瞬で圧縮されたように小さくなり、空気に溶けるように膜が消える。
伸ばされた腕がわたくしの頬に触れた。
「我もこちらのほうが良い。……そなたの温もりを感じられる」
大きな手が頬を覆い、引き寄せられる。
目を閉じれば唇に柔らかな感触が触れた。
「だが、どちらの姿になってもそなたは小さいな」
目を開ければ、やや窮屈そうに背中を丸めているリーヴァイがいて、つい笑ってしまった。
「わたくしが小さいのではなくて、あなたが大きいのよ」
ギュッと抱き着けば、服越しにリーヴァイの温もりが伝わってくる。わたくしよりも高い体温が心地好い。
こうしてお互いに触れ合えるのが一番好きだ。
リーヴァイの同じ気持ちなのか、しばらくわたくし達は抱き合ったまま、バラを眺めて過ごしたのだった。
* * * * *
ドラゴンの姿を見せたものの、ヴィヴィアンから緊張や不安、恐怖といった負の感情は全く感じなかった。
リーヴァイのドラゴンの姿は、人間からは恐怖の対象に、魔族からは崇拝の対象になっているが、ヴィヴィアンはそのどちらでもないらしい。
ドラゴンの姿でも、人の姿でも、関係なくヴィヴィアンはリーヴァイに口付けて、寄り添う。
それにどれほど喜び、衝撃を受けたことか。
……ドラゴンを恐れない者がいるとはな。
「本当に手放せなくなりそうだ」
ベッドの上で眠るヴィヴィアンは気持ち良さそうだ。
この城で最上級の部屋は、魔王であるリーヴァイの居室であり、来た時からずっとこの部屋はヴィヴィアンも使っている。
他の誰かが部屋を使うのは不愉快だが、ヴィヴィアンならば、むしろ好きなだけ居座ってくれれば良いと思う。
魔王城に来てからは毎日、同じベッドで眠っていた。
だが、ヴィヴィアンがあまりに安心した様子ですぐに眠ってしまうので、嬉しいような、不満なような、この何とも表現しがたいくすぐったい感情にも慣れた。案外悪くはない。
ヴィヴィアンの安らかな寝顔を見ると不満も消えてしまう。
普段はドレスを着ているが、夜着だと薄いので、抱き締めるといつもより柔らかさを感じて心地が好い。
起こさないようにそっと左手を取り、見れば、ヴィヴィアンの十六歳の誕生日につけた噛み跡がまだ薬指に残っている。
それを指でなぞれば「……ん……」とヴィヴィアンが微かに反応し、目を開けた。
「……リ、ヴァイ……?」
ぼんやりとした紅い瞳がこちらを見て、そして、普段よりも柔らかい笑みを浮かべた。
「まだ、起きてるなんて、悪い子ね……」
細い腕に抱き寄せられる。
「おやすみ、なさい……」
よほど眠かったのか、リーヴァイの頭を胸元に抱き寄せたまま、ヴィヴィアンは眠ってしまった。
柔らかな感触と香油のほのかに甘い匂に包まれる。
「……我も男なのだが」
リーヴァイは苦笑しつつもヴィヴィアンの背中に腕を回し、抱き締め返す。
しかし、少しだけ悪戯心が湧き、夜着のはだけている胸元にそっと口付けた。
ややあって唇を離し、満足して、リーヴァイも目を閉じる。
翌朝、着替えを済ませたヴィヴィアンが不思議そうな顔でこう言った。
「魔王城にも人を刺す虫がいるのね」
その後ろでヴィヴィアン付きの侍女が物言いたげな顔でリーヴァイを見て、インビジブルのメイドが微かに笑う気配がした。
「ああ、気を付けたほうがいいだろう」
おかしくて笑ったリーヴァイに、ヴィヴィアンはやはり不思議そうに小首を傾げていた。
……その虫は目の前にいるが、気付かないならそれでいい。
そう遠くないうちに真相を知ることになるのだから。
* * * * *




