……旅を楽しむ暇もありませんわね。
リーヴァイとお兄様が使者に選ばれてから一ヶ月。
手紙のやり取りが行われた結果──実際はリーヴァイが手紙を確認して返事を書いたそうだが──、シャトリエ王国から魔族領に使節団を送ることが決定した。
しかし、あまり大勢で行くと侵攻と疑われかねないため、少数精鋭で、リーヴァイとお兄様、他二名、そしてわたくしがまずは赴く。
警備は公爵家のほうから出すらしい。
国の兵士を使えばいいのではと思ったが、リーヴァイとお兄様には何か考えがあるようだ。
「ああ、後の二名は『魅了』で完全に服従している者達だから心配しなくていいよ」
と、お兄様が言っていた。
……この王国、大丈夫なのかしら?
お兄様とお母様の存在もそうだけれど、もしかしたらわたくしが考えているよりずっと、この国は魔族に蝕まれているのではないだろうか。
それはわたくしが心配することではないが。
侍女達が慌ただしく旅の準備を行っている。
わたくしは特にやることもなく、のんびりと紅茶を飲んでいた。
横にはリーヴァイが同じように座って寛いでいる。
「あなたは旅支度をしなくていいの?」
そう訊ねれば、リーヴァイは小さく笑った。
「そのようなものは不要だ」
「そう……あなたが困らないならいいのだけれど」
この部屋の主人は本当はリーヴァイなのではと思ってしまいそうなほど気を抜いた様子に、仕方がないな、と苦笑が漏れる。
他の使用人達は見て見ぬふりだ。
リーヴァイは使用人と言っても、わたくしの婚約者であるため、他の使用人に比べると待遇はかなり良いだろう。
今後、わたくしと結婚すれば使用人ではなくなる。
それもあってか、皆、リーヴァイに特別な対応をしている。
「以前、リーヴァイは魔族領に帰ったわよね? ここから魔族領まではどれくらいかかるのかしら?」
「人間が徒歩で向かうなら一月といったところか」
「あら、そんなにかかるのね」
馬車なのでもう少し短いと仮定しても、往復で一月半くらいはかかりそうである。
それほどの長い旅をするのは初めてだ。
時折、公爵家の領地に帰ることはあるけれど、国内なので、旅と言っても精々数日程度だった。
だから侍女達はあれこれと準備をしているのだろう。
旅に侍女は一人連れて行くが、途中で足りないものがあったとしても手に入るかどうか分からない。
着替えなどのドレスだけでも結構な量になりそうだ。
「王都から数ヶ月も離れるなんて、寂しくなるわね」
アンジュやクローデット達と会えないのも少し残念だが、同時に、初めて向かう場所への期待もあった。
シャトリエ王国は魔族領から離れており、これまでは魔族と人間の関係もあまり良くなかったので、魔族領に入る機会を得られるとは思ってもいなかった。
「そういえば、魔族領に行くという話だけれど、具体的な目的地は決まっているの?」
「ああ」
リーヴァイが耳元に顔を寄せて来る。
「魔王城に向かう」
「まあ……!」
魔族領の中でもどこか適当な場所に行くのかと思っていたが、そうではないらしい。
……でも、それもそうよね。
そもそもリーヴァイは魔王で、帰る場所と言えば、魔王城になるのも当然だ。
原作の乙女ゲームではクローデット達が目指した場所であった。
「楽しみだわ」
ふ、とリーヴァイが笑う。
「人間の城とは異なるが、きっとヴィヴィアンならば気に入るだろう。最も良い部屋を用意させている」
「それはもっと楽しみになるわね」
「会談の最中、そなたは好きにすれば良い」
それにわたくしは首を振り、リーヴァイに寄りかかる。
「わたくしも会談には同席するわ。特に口を挟む必要はないでしょうけれど、何も知らないままは嫌だもの」
「そうか」
わたくしの言葉にリーヴァイが微笑んだ。
* * * * *
そうして三日後、魔族領へ旅立つ日となった。
午前中のうちから出立することが決まっていたため、朝食後、少し休んでいる間に馬車の準備も整い、時間が来る。
正面玄関に行けば、使用人達が見送りに出てくれていた。
「行ってらっしゃいませ」
と使用人達が声を揃えて頭を下げる。
馬車のそばにはお父様とお母様もいた。
「ルシアン、ヴィヴィアン、無理はするな」
「二人とも気を付けてね」
二人の言葉に、お兄様と共に頷き返す。
「父上、母上、行ってまいります」
「ルシアン、ヴィヴィアンをよろしくね」
「はい」
お母様がお兄様にそう声をかけ、わたくしを見た。
伸ばされたお母様の手がわたくしの頬に触れる。
大切なものに触れるように、慈しむように、頬を撫でた手がわたくしをしっかりと抱き締めた。
「ヴィヴィアン、一人で出歩いてはダメよ? ルシアンの言うことをよく聞いて、良い子でいてちょうだい」
お母様は、わたくしが魔族領へ行くと言った時、あまり良い顔はしなかった。
人間の国で魔族や魔人が嫌われているように、魔族領では人間や魔人は嫌われているのだろう。
魔族は相手の種族を本能的に察するそうなので、ほとんどの者はわたくしが魔人だと気付く。
人間でも、魔族でもない、半端者。
それでもお母様はわたくしを愛してくれている。
「……はい、分かりました、お母様」
心配そうなお母様に笑顔を見せる。
そっと、お父様がお母様に寄り添った。
「行ってまいります、お母様、お父様」
お兄様とリーヴァイと馬車に乗り込む。
扉が閉められ、寄り添い合うお父様とお母様が、どこか心配そうな表情を浮かべたまま、こちらを見つめている。
リーヴァイが御者のいるほうの壁を叩けば、ゆっくりと馬車が動き出す。
お父様とお母様へ手を振った。
馬車がどんどん公爵邸から離れていく。
わたくしは車窓を眺めた。
「機嫌が良さそうだな」
リーヴァイの問いに頷いた。
「ええ、久しぶりの旅行ですもの。最後に王都を出たのはリーヴァイを買う前だったし」
「魔族領へ行くことに不安は感じないのか?」
「全くないと言えば嘘になるけれど、不安ばかり考え続けるのは疲れるでしょう? 人生は楽しんだ者勝ちなのよ」
わたくし自身、それはとても感じたことだった。
ここが乙女ゲームの世界だと気付いて、自分が悪役令嬢だと分かって、とにかく原作通りにならないようにわたくしの出来る範囲でだけれど動き続けた。
不安であまり眠れない日も多かったけれど、それでも、わたくしは自分のやったことに納得している。
そして、不安と同時に楽しくもあった。
この世界は乙女ゲームに似ているが、その通りに動く決められた運命はなく、努力すれば人生は変えられる。
そのことがとても嬉しかった。
「楽しんだ者勝ち、か。面白い言葉だ」
リーヴァイが愉快そうに笑った。
お兄様も微笑んでいる。
「心配せずとも、魔族達にはヴィヴィアンに関して説明してあるよ。もちろん、全員が賛成しているわけではないけれど、魔王様がそうすると決めた以上、君は魔王様の妻となる」
「気にしておりませんわ。人間の世界だって、全ての人々から祝福されて結婚出来ることのほうが少ないですもの。全員の顔色を窺っていたら生きていけないでしょう?」
「そう、ヴィヴィアンが大丈夫ならいいけど……」
「何か言われても『文句は魔王様におっしゃって』と返しますわ」
「はは、それで魔王様に意見出来る者は少ないだろうね」
リーヴァイとわたくしの婚約も、結婚も、片方が強引に推し進めているわけではない。
本当にリーヴァイが嫌がれば、この婚約は破棄される。
たとえわたくしが泣いて叫んで嫌だと言っても、リーヴァイが反対したら、お母様もお兄様もそれに従うだろう。
「ところで、旅程について聞いてもよろしいでしょうか?」
お兄様へ問うと、頷き返される。
「ああ、それだけどね、旅程は特に決めてないよ」
「え? どういうことですの?」
「僕達は次の村には行かない。森の中で街道から少し外れたら、魔王様の転移魔法で魔王城の前まで移動していただくことになっているからね」
お兄様の言葉を理解するのに数秒かかってしまった。
……つまり、旅はあってないようなものということ?
「……もしかして、人数を最小限にした本当の理由は……」
「うむ、転移魔法で移動する時の魔力消費を抑えたくてな。どちらにせよ、魔族領に人間の国から大勢の人間が来れば、皆、警戒する。民の心の安寧を維持するのも王の務めだ」
リーヴァイの説明に脱力してしまった。
「王都を出て、二時間ほど走らせたところで転移魔法で移動予定だから、昼すぎくらいには魔王城に到着するよ」
お兄様が嬉しそうな笑みを浮かべて言う。
魔王城に行くのが楽しみらしい。
「……旅を楽しむ暇もありませんわね」
冗談ではなく、本当に旅を楽しむ時間がない。
これではちょっとしたお出掛けである。
「公爵家の騎士や使用人達とは言え、転移魔法を知られて大丈夫なのですか?」
「今回同行している者達は皆、魔族だよ。人間なのはヴィヴィアンの侍女と使者二人くらいかな」
「そうですか……」
……本当にこの国、大丈夫かしら?
そんな心配を他所に、馬車が王都を出て、二時間ほど森を進んだところで街道から外れた細い道に逸れた。
街道が見えなくなったところで馬車が停まる。
リーヴァイとお兄様が立ち上がった。
「では、転移の準備を行うとしよう」
「ヴィヴィアンはここにいてね」
お兄様の言葉に頷く。
二人が馬車の外に出て、騎士達と話しているのを窓越しに眺めた。
……ある意味、今の公爵家って理想よね。
魔族がほとんど支配しているけれど、人間と魔族と魔人が皆、同じ場所に住み、働き、生きている。
魔人の最も生きやすい場所は公爵家なのかもしれない。
リーヴァイが騎士達と会話する。
ほとんどが魔族だからか、騎士達は傍目からでも分かるくらい、リーヴァイに対して丁寧な対応をしているようだった。
……むしろ、あれが彼らにとっては普通なのね。
リーヴァイが使用人という立場を楽しんでいるから、それに従うだけで、本来は魔王という魔族の頂点に立つリーヴァイには最上級の敬意を持って接するのだろう。
その横に大した力もない魔人が、然も当たり前のようにその横に居座っていたら、面白くないはずだ。
……でも婚約を取りやめるつもりはないわ。
コンコン、と窓が叩かれ、いつの間にかリーヴァイが馬車のそばへ戻って来ていた。
頷けばリーヴァイが扉を開ける。
「そろそろ転移魔法を使用する」
「わたくしはこのまま、ここにいればいいのかしら?」
「ああ。……もしかしたら、魔力酔いを起こすかもしれない」
「魔力酔い?」
初めて聞く言葉に訊き返せば、リーヴァイは教えてくれた。
魔力酔いとは、魔族や魔人、魔力を持つ人間などの魔力を持つ者が、大量の魔力や濃度の高い魔力に触れた時に起こるものらしい。
体内の魔力と魔法の魔力が触れることで反応し、体内の魔力が不安定に揺れてしまうのが原因なのだとか。
症状は吐き気や気分の悪さ、酷いと動けなくなることもあるそうだ。
だが、魔族は元より魔力持ちばかりなので魔力の扱いや魔法に慣れており、魔力酔いを起こすのは魔族の中でも幼子くらいのもの。
「つまり、魔力はあるけれど、魔法に慣れていないわたくしは魔力酔いをしやすいかもしれないのね」
「理解が早くて助かる。具合が悪くなったらすぐに声をかけてくれ。魔力酔いは不安定な魔力を整えれば治る。我なら、ヴィヴィアンの魔力を安定させられる」
「その時はお願いするわ」
リーヴァイが頷き、安全のために扉を閉める。
そうして馬車から離れていった。
ややあって、ふっと何かに薄い膜のようなものに包まれる感覚があり、ふわりと僅かな浮遊感を経て、景色が一瞬で移り変わる。
「……うっ……」
そしてリーヴァイが懸念した通り、気分が悪くなった。
魔力酔いは馬車酔いに似ていて、同時に貧血の時の、血が下がっていくことで起こる寒気のようなものも感じた。
口元に手を当てていればリーヴァイが戻って来る。
扉を開けてわたくしを見ると、やはり、という顔をした。
リーヴァイが馬車の床に膝をつき、少し乗り込むと、わたくしに手を差し出した。
そこに手を乗せれば、リーヴァイの大きな手に包まれる。
「心を落ち着かせて、深く、ゆっくりと呼吸をしろ」
言われた通りに深呼吸をする。
リーヴァイの手から温かなものが全身に広がり、冷えていたわたくしの体を包んだ。
呼吸をする度に吐き気と寒さが弱まっていく。
五回ほど深呼吸をした時にはもう、体調は普段通りに戻っていた。
「もう問題なさそうだな?」
「……ええ、大丈夫そう。ありがとう、リーヴァイ」
「気にするな。さあ、魔王城に到着した」
繋いだ手が優しく引かれ、馬車から降りる。
そこには、漆黒の大きな城が佇んでいた。
城の前には多くの者達が並んでいるけれど、人間とは全く外見が異なる魔族もいて、多種多様だった。
「ヴィヴィアン、我が城へようこそ」
その多様な種族の最も先頭にリーヴァイが立つ。
魔族達が一斉に頭を下げる様子は圧巻だった。
「城を見た感想はどうだ?」
「魔王城って本当に黒いのね。空を飛ぶ者が、夜に飛んでいてぶつかってしまわないのかしら?」
わたくしの疑問に、ははは、とリーヴァイが笑った。
「魔族は夜目が利く者が多い。だが、確かに夜は城が分かりにくいな」
そう答えたリーヴァイは機嫌が良さそうだった。




