何も心配することはない。
* * * * *
スゥ、スゥ、と規則正しい寝息が静かに繰り返される。
暗闇の中、カーテンの隙間から差し込む月明かりが淡く室内を照らしている。
天蓋付きのベッド、そのシーツに金色が広がっていた。
ベッドの縁に腰掛けたリーヴァイはそれを見下ろした。
白いシーツの上に惜しげもなく金髪を散らし、気持ち良さそうに、無防備にヴィヴィアンが眠る。
昼間、プリシラ・バスチエが公爵家を訪れた。
聖印が現れた聖女だというのに、その体から感じる浄化の力はあまりに弱く、魔族の脅威になりそうもない。
それどころか頭もあまり良くなさそうだった。
ルシアンは魔族の中でも非常に強い存在であるが、本来、聖女は魔族の力に対して抵抗力が高いはずなのだ。
だが、ルシアンの話によれば『魅了』をかけた際に抵抗は一切なかったという。
プリシラ・バスチエがルシアンに好意を抱き、何の警戒もしていなかったとしても脆弱すぎる。
簡単に『魅了』がかかったプリシラ・バスチエ。
聖印を持つに相応しい人間とは思えなかった。
……紛い物は本物にはなれないということか。
もしもクローデット・バスチエに聖印が現れていたなら、浄化の力を持つ、強い聖女となっただろう。
聖印が現れなかったからか今のクローデット・バスチエに浄化の力はなく、ヴィヴィアンの『魅了』がかかっているが、それでも他の人間よりも輝きの強い魂も持っている。
逆に、プリシラ・バスチエの魂は輝きが弱く、常にゆらゆらと形が定まっていなかった。
魂の輝きはその者の意志の強さに比例する。
魂の揺れが大きいほど意志が弱く、精神力も弱い。
だからプリシラ・バスチエは『魅了』から逃れられなかった。
ヴィヴィアンはこの世界が自身の記憶の通りに進むことを何よりも恐れ、そうならないように動いていた。
それはどれほど精神的に負担がかかるか。
気丈に振る舞っていても、内心では常に不安だっただろう。
自分の行動が正しいのか、これで流れが変わるのか、何をするにも疑念を抱いていたはずだ。
だが、今日、その不安は全て消え去ったも同然である。
クローデット・バスチエはヴィヴィアンの手中に。
プリシラ・バスチエはルシアンの手中に。
「我もそなたの手中か」
バーンズ伯爵夫人から、ヴィヴィアンはリーヴァイを買い取った。
そしてリーヴァイが記憶を取り戻すまでの三日間、ヴィヴィアンはリーヴァイを甘やかし、優しく接し、温もりを与えた。
どこまでが心からの行動で、どこまでが計算か。
ヴィヴィアンはリーヴァイに「愛している」と言う。
それが事実なのは確かだ。
ヴィヴィアンが世界の流れを変えたいと願ったのも、リーヴァイを生かし、助けたいという気持ちが軸にある。
それ故にリーヴァイはヴィヴィアンのそばにいる。
本能的に『自身を裏切らない存在』だと感じている。
「まさか、十四歳の娘に落とされるとはな」
リーヴァイは生まれ変わっているとは言え、魔王としての記憶を取り戻し、以前の肉体も取り込んでいるため、精神年齢はヴィヴィアンよりもずっと上だ。
けれども、心惹かれてしまった。
一度与えられた温もりと安心感、充足感を手放すのは難しい。
寝相が悪いようで、ヴィヴィアンが小さく唸りながら毛布を跳ね除ける。
魔人なので人間よりも多少頑丈ではあるものの、病にはかかるので、リーヴァイは毛布をかけ直してやった。
ついでに乱れた金髪も整える。
目元にかかった前髪を除けていると、不意にヴィヴィアンが目を開けた。
寝惚けているらしく、ぼんやりとした紅い瞳が見つめてくる。
「……リ、ヴァイ……?」
よほど眠いのか紅い瞳はすぐに閉じられてしまう。
それを残念に思う。
ヴィヴィアンの鮮やかな紅い瞳を見るのも、見つめられるのもリーヴァイは気に入っていた。
「眠れ」
そっと頭に触れて弱く魔法をかける。
眠気を誘発させるそれでヴィヴィアンは眠りに落ちた。
ヴィヴィアンはあまり長く眠るほうではない。体質的なものというよりも、恐らく心因的なものだったのだろう。
侍従として控えの間にいても、夜にヴィヴィアンの部屋から気配を感じることが多かった。
寝つきも悪く、夜中に何度も起きているふうだった。
人間よりも体が頑丈なせいで睡眠不足でも問題なく動け、人前では決してそのような様子を見せない。
気丈なのか、意固地なのか。
人に弱みを見せたくなかったのは確かだろう。
ルシアンとの関係が改善したのであれば、兄なり母親なりに頼れば良かったのに、それもしなかった。
どちらも、ヴィヴィアンから助けを求められたなら喜んで応じたはずだ。
そこまで考えてリーヴァイは気付いた。
……そうか、我は頼られたかったのか。
いつだってヴィヴィアンは前を向き、目標を見据えていた。
そんな姿を好ましく思うのと同時に歯痒くもあった。
どうして頼ってくれないのか。
どうして誰にも助けを求めないのか。
ヴィヴィアンは自分で何とかしようとする。
その努力や他者に迷惑をかけないように心がけるのは素晴らしいが、周囲の者からすると、何故頼ってくれないのかと感じることもある。
だが、それはこちらも同じようなものだろう。
魔族に関することはほとんどヴィヴィアンに伝えていない。
ルシアンも「妹に心配をかけたくないので」と言い、兄妹揃って似た者同士だった。
互いに大事だからこそ、心配させまいと、不安を感じさせないようにと気遣いすぎてしまっている。
「……そなたはわがままで良い」
ルシアンの話では、ヴィヴィアンは突然わがままを言うのをやめたそうだ。
ヴィヴィアンが前世の記憶とやらを思い出した辺りの話だろう。確かにそれ以降、ヴィヴィアンは周囲にわがままを言うのをやめ、世界の流れを変えようとし始めた。
もし、わがままなヴィヴィアンのままであったなら、リーヴァイとは出会うこともなかった。
ヴィヴィアンを起こしてしまわないよう、静かに立ち上がる。
それから、リーヴァイは転移魔法で移動した。
「魔王様、お疲れ様です」
ルシアンの部屋に移動すると、机に向かっていたルシアンが即座に気づいて振り返る。
立ちあがろうとしたルシアンを手で制し、リーヴァイはソファーへ腰掛けた。
「王都内の魔族の動きはどうだ?」
「問題はございません。警備隊による治安の向上に努めたことで、ヴィヴィアンの記憶のようなことは起こらないでしょう」
ヴィヴィアンの記憶の中でリーヴァイ……いや、あの記憶ではディミアンは、魔族が公開処刑される場面を見てしまう。
何もしていないと、助けてくれと命乞いをする魔族に、人間達は石を投げ、罵倒し、暴力を振るい、処刑した。
放っておけば恐らくはそうなっただろう。
だが、それをヴィヴィアンもリーヴァイも望まなかった。
だからリーヴァイはランドロー公爵家の権力を使った。
ランドロー公爵家が『王都の治安維持に努めるべきだ』と声を上げれば誰も無視は出来ない。
それが至極真っ当なことであればなおさらだ。
数年かけて王都の治安を改善させたことで、結果的には人間の暮らしを向上させることとなったが、ヴィヴィアンの記憶の中にあったようなことは起こらなかった。
リーヴァイも人間への怒りや憎しみを深めることなく、こうしてヴィヴィアンの侍従として過ごしている。
だが、少し公爵家は事を急ぎすぎた。
治安維持のために動いたことで恨みを買い、ヴィヴィアンが誘拐される事態が起こった。
あれ以降、公爵家は過剰なくらい警備を厚くした。
「ヴィヴィアンの様子はどうでしたか?」
ルシアンの問いに頷き返す。
「不安がなくなったからか、今日はよく眠っている」
「そうですか……」
ルシアンも妹が色々と抱え込んでいたと分かっている。
そこを相手に訊かないところから互いへの遠慮を感じるが、兄妹の関係に口を挟むのは余計な世話だろう。
「それにしても、プリシラ・バスチエは衝撃的な存在でしたね」
ルシアンが溜め息を吐く。
「公爵家の分家のいくつかに、プリシラ・バスチエと婚約、婚姻についてどうかと声をかけてみたけれど、頷く家があるかどうか……」
「教会と繋がりを欲しがる家は多いのではないか?」
「それはそうですが、貴族ならば大抵、婚約前に相手について調査をします。わがまま放題なプリシラ・バスチエは面倒極まりない存在です」
「そうだな、ルシアンのように嫌がるかもしれない」
リーヴァイのからかいを含んだ言葉にルシアンが眉尻を下げる。
「僕の婚約者が最善なのは理解出来ますが、うっかり苛立ちのあまり殺してしまいかねません」
「お前は存外、気が短いところがあるからな」
ルシアンが困り顔で黙る。
「まあ、良い。お前の『魅了』で掌握しておけば問題ない」
プリシラ・バスチエという人間についてはともかく、聖女を手に入れられたことは魔族にとって大きな利点である。
ルシアンに後を任せ、もう一度転移魔法を使用し、ヴィヴィアンの部屋へと戻る。
ぐっすり眠っているヴィヴィアンを見て、リーヴァイの口元には自然と笑みが浮かんだ。
「何も心配することはない」
ヴィヴィアンの不安材料は全てなくなった。
* * * * *
プリシラが我が家に来てから二週間が経った。
あれから、プリシラはランドロー公爵家の分家筋である伯爵家の次男と婚約を結ぶことが決定した。
他の貴族達から反対意見は出たものの、プリシラが婚約の打診を受け入れたため、貴族達もそれ以上は何も言えなかったようだ。
教会側は分家とは言え、聖女に公爵家の後見がつくと歓迎しているらしい。
しかも公爵家で厳しい注意を受けたということになっているプリシラは──実際はお兄様の『魅了』による命令で矯正されただけだが──、その後、真面目に聖女の慈善活動や礼儀作法の勉強に取り組んでいると聞いた。
ただ、浄化の力は訓練してももう上がらないそうだ。
「僕が『魅了』で封じたからね」
浄化の力が強くならないようお兄様がプリシラに暗示をかけた。
それにより、プリシラが浄化の力を使おうとしても無意識に抑制してしまうため、周囲からは『今代の聖女は浄化の力が弱い』ように見える。
教会も浄化の力が弱い聖女への関心は薄くなるだろう。
人間側も強力な一手がない以上、魔族と戦争を起こそうなどとは思わないはずだ。
伯爵家の次男である魔族はお兄様の側近となることも決まっており、定期的にプリシラはお兄様と顔を合わせて『魅了』で管理される。
差し出されたフォークからケーキを食べた。
「プリシラは自分の状況を不満に感じないかしら?」
お兄様が好きだと言ったプリシラが、他の男と添い遂げさせられることになるのを我慢出来るのだろうか。
わたくしの問いにリーヴァイが笑った。
「プリシラ・バスチエは夫を愛するだろう」
「何故?」
「そうあるべきとルシアンが命じた。既にあの者の精神は完全にルシアンの支配下にあり、その心の在り方すら、ルシアンの思いのままだ」
「お兄様がプリシラに『夫を愛せ』と命令すれば、プリシラは心から夫を愛するようになるということ?」
返事の代わりに、また、一口分のケーキが差し出される。
沈黙とはすなわち肯定である。
「案ずることはない。プリシラ・バスチエはルシアンから命令されることに至上の喜びを感じているだろう。今のあの聖女が愛しているのは婚約者だ」
「では、もうお兄様を愛してはいないの?」
「『愛』はあるだろうが、それはもはや崇拝に近い。憧れや親愛ではなく、今のプリシラ・バスチエにとってルシアンは『神』であり、本人は敬虔な信徒であり、奴隷でもある」
リーヴァイの言いたいことは分かった。
フォークからケーキを食べながら、ふと思う。
「お兄様がそれほど強い『魅了』を使えるのだとしたら、より強い魔族であるあなたも同様かそれ以上の効果のある『魅了』を使えるわよね?」
お兄様が使えて、リーヴァイが使えないなどということはないだろう。
「使えるが『威圧』と同様に『魅了』も効きすぎてしまう」
「強く効いたほうが良いのではなくって?」
「我がかけると完全に自我を失う。命令は聞くが、命令しなければ何も出来ない人形となる。イザベルやルシアンほど繊細な調整は難しい」
「意外ね」
ケーキを一口分、フォークで掬ったリーヴァイがわたくしのほうへ差し出してくる。
「我の魔力は強く濃い酒のようなものだ。少量でも人間には効きすぎてしまう。人間に与える適量が一口分なのに対し、与えるためには樽を傾けなければいけないとしたら、どうなると思う?」
「あふれてこぼれるわね」
「そういうことだ」
なるほど、と思いながらケーキを食べる。
「それはともかく、何かいいことでもあったの?」
先ほどから、リーヴァイはわたくしにケーキを食べさせている。
唐突に始まった『あーん』はわたくしにとっては嬉しいものだけれど、なんだかリーヴァイも機嫌が良さそうである。
「最初の頃、ヴィヴィアンがしてくれただろう? ずっとやってみたいと思っていた」
……そういえば最初は食べさせてあげていたわね。
「やってみた感想は?」
「思いの外、面白い」
リーヴァイが言って、またケーキを差し出す。
穏やかな日差しに照らされた午後のひとときを、今は楽しんでおくとしよう。
差し出されたケーキは今までで一番甘い味がした。




