わたくしは底なし沼に足を踏み入れてしまったのね。
「リーヴァイ」
名前を呼び、膝を叩けばリーヴァイがソファーに横になり、わたくしの膝に頭を乗せる。
何も言わずとも動きだけで分かるのが面白い。
婚約者になったからといって、わたくし達の関係は相変わらず主人と奴隷のままであった。
……まだ何が起こるか分からないもの。
もしかしたら十七歳の誕生日にクローデットに聖印が現れるかもしれないし、魔族と人間の戦争が起こるかもしれない。
魔王という手綱はまだ手放せなかった。
それに、隷属の首輪がある間は確実にリーヴァイはわたくしのものである。
ふわふわの癖毛な銀髪を優しく手で撫でる。
黄金色の瞳が気持ち良さそうに細められた。
婚約して、恋人なのだろうけれど、以前ほど大きな変化はなく、わたくしもリーヴァイも日々を過ごしている。
……いえ、そうでもないかしら?
抱き締めたり、口付けたり、そういうことは増えた。
だから恋人同士ではあるし、婚約者でもある。
でもリーヴァイは基本的にわたくしに対して使用人として接しているし、仕事もする。
他人から見れば確かに奇妙な関係に見えるだろう。
しかし、リーヴァイに触れられるのはわたくしだけの特権だ。お母様やお兄様ですら気軽に触れることはない。
それはとても特別なことだ。
「機嫌が良さそうだな」
リーヴァイの手がわたくしの頬に触れる。
こうしてリーヴァイが誰かに触れることも滅多にない。
「あら、わたくしは大体機嫌がいいわよ?」
「確かに、不機嫌なところは見たことがない」
「自分のご機嫌くらい自分で取らないと。いつまでも子供のままでは周りに迷惑をかけてしまうもの」
頭を撫でられることに満足したのか、リーヴァイが起き上がる。
横に座ったリーヴァイに当たり前のように口付けられる。
本当は婚姻前にあまりベタベタするのは良くないのだが、どうせわたしは『奴隷狂い』なので、そこに更に噂が加わったところで痛くも痒くもない。
……愛する人と触れ合えないほうがつらいわ。
「我としてはわがままでも構わないが」
「そう? 最大のわがままは聞いてもらっているでしょう? あなたに首輪をつけようなんて、殺されても文句は言えないわ」
リーヴァイの首に手を伸ばし、隷属の首輪に触れる。
チャリ、と金属の小さな音が鳴った。
そこから頬に手を添えて優しく撫でる。
「そういえば、たった一年で随分成長したわね?」
十六歳の誕生日、出て行く時にはまだリーヴァイは青少年といった風体だったのに、今はどう見ても青年である。
背も伸びたし、体もがっしりして、顔付きも男性的になった。
「生まれ変わる前に封じられた我の体を取り込んだからな。本来のあるべき姿に戻っただけだ」
「腕の痣も消えているし」
「あれは我の力を封じる刻印だった。ヴィヴィアンに買い取られて以降は少しずつ封印を解いてきたが、前の体を取り込み、力が強まったことで封印は全て解けた」
……そういえば、原作でもクローデットとディミアンが再会した時には腕の痣がなくなっていたわね。
何でだろうと疑問に思っていたけれど、そういう理由があったのだ。
「ヴィヴィアンが『気に入らぬ人間達を皆殺しにしてくれ』と願えば、叶えることも出来る」
「残念だけど、今のところ嫌いな人間はいないわ。わたくし、気に入らない者は視界に入れないようにしているもの」
それに、リーヴァイが魔王としての記憶を取り戻してからしばらく後、バーンズ伯爵家が財政難で没落したという話を小耳に挟んだ。
……絶対、お母様かお兄様が何かしたわね。
魔王に対し酷い扱いをした者を二人が許すはずがない。
公爵家の力を使えば、伯爵家を没落に追い込むことなど簡単だし、そうでなくてもリーヴァイはバーンズ伯爵夫人を殺しただろう。
原作ではその辺りは触れられていないが、きっと、原作でもバーンズ伯爵家は没落していたと思う。
「わがままを聞いてもらえるのも嬉しいけれど……」
リーヴァイに寄り添い、背伸びをして口付ける。
「今日は甘やかしてあげたい気分なの」
顔を離せばリーヴァイが微笑んだ。
面白いことを聞いたというような顔だった。
「魔王を甘やかすと?」
「違うわ。リーヴァイを甘やかすのよ」
「なるほど、ではお言葉に甘えて」
ヒョイとリーヴァイに抱き上げられる。
そのまま、リーヴァイはソファーから立つとベッドへ向かう。そこへ下ろされると横にリーヴァイが寝転んだ。
抱き寄せられて、二人でベッドに横になっている。
「そなたは柔らかいな」
「それは太っているということかしら?」
一応、これでも容姿には気を遣っているつもりなのだが。
「体の感触だけの話ではない。そなたの魂や魔力の性質のことだ。柔らかく、温かく、触れていると心地が好い」
「魂?」
「我ほどの者ならば、対峙している相手の魂の性質を感じることが出来る。そなたの魂は美しいが、少し歪さもあり、だからこそ興味深い」
……それは褒め言葉なのかしら?
だが、リーヴァイの表情からして褒めているのだろう。
「……クローデットの魂はどうだった?」
わたくしの問いにリーヴァイが答える。
「美しかったが、それ故につまらない魂だな」
「綺麗なほうが良いのではなくって?」
どんなものだって美しいほうが好まれる。
わたくしの魂が美しいけれど歪だと言うのであれば、クローデットの魂のほうがいいのではないか。
……ダメね、すぐに弱気になってしまうわ。
原作のディミアンはクローデットに心惹かれた。
だからこそ、リーヴァイもいつかクローデットに心惹かれてしまうかもしれないという不安が拭えないのだ。
「美しいだけならば他にもいる。けれども、そなたの魂は独特だ。そのような魂は他に見たことがない。美しい宝石に傷があるのに、その傷も輝き、見る者を引き寄せる」
「あなたの魂はどんなものなの?」
「我の魂など醜悪なだけだ。喩えるならば、悪臭が漂う底なしの泥沼のような、誰も近づきたがらない。……そんなものだ」
リーヴァイは自分の魂には関心がないらしい。
「わたくしは底なし沼に足を踏み入れてしまったのね」
前世の記憶の中で『沼にはまる』という表現があったことを思い出し、少しおかしくて笑ってしまった。
「逃げたいか?」
「いいえ、ずっと沈んだままでいいわ。だって沈んでいる間はあなたと一緒にいられるのでしょう?」
もし、沈みすぎて死んでしまったとしても構わない。
「わたくしはあなたに全てを捧げるつもりよ。公爵令嬢という身分も、この体も、この命も、あなたが望むなら魂も。それであなたの全てが手に入れられるなら最高の取引だわ」
わたくしの言葉にリーヴァイが笑う。
「ああ、ヴィヴィアン……やはりそなたは面白い」
そう言ったリーヴァイは満足そうだった。
* * * * *
最近、義妹の機嫌がいいとクローデットは感じていた。
そのこと自体は別段おかしなことではないのだが、今までランドロー公爵家に行こうとする度に「お姉様、私も連れて行って」と言われ続けてきたのだが、それもなくなった。
ついに諦めたのかもしれないが、ずっと言い続けてきたことがピタリと止むと、それはそれで何だか不気味な気がする。
プリシラはもうすぐ十六歳の誕生日を迎える。
これまでは多少礼儀作法が出来なくても「まだ子供だから」と許してもらえていたけれど、成人を迎えたらそうはいかない。
だが、プリシラは相変わらず毎日わがままを言っている。
お父様達はプリシラが可愛いようで、あれこれ言いながらも、そのわがままを受け入れていた。
……早く公爵家の養子になりたい。
王太子の婚約者となり、伯爵家での扱いはより良くなったものの、今度は皆がわたしに媚びてくる。
お父様も伯爵夫人もわたしの機嫌を取ろうとするし、使用人達はわたしの顔色を窺っているし、そういう点ではいつも通りなプリシラを見るとどこか安心する自分もいた。
それでもこの家にいると窮屈さや息苦しさを感じる。
むしろ王城で過ごしているほうが楽しい。
エドワード様が説得してくださったおかげで王妃様とお茶をするようになって、優しく穏やかな王妃様が義理のお母様になってくれたらどんなにいいかと思う。
陛下も、まだ完全にわたしを許したわけではないのだろうけれど、わたしのことを知ろうとしてくださるし、両陛下もエドワード様もわたしを『クローデット』という一人の人間として接してくれる。
王太子妃教育は難しいものの、王妃様も教育係の教師達も教え方が丁寧で、努力をすればきちんと褒めてもらえる。
エドワード様と人目を避けて会う必要もなく、公の場でも共に並んで立てることが嬉しかった。
それにアンジュとヴィヴィアン様と過ごす時間も幸せだ。
プリシラに付きまとわれていた間にほとんどの友達は離れてしまったが、アンジュとヴィヴィアン様とお友達になり、王太子妃教育を始めてからは新しい交友関係が広がった。
プリシラはまだ社交が出来ないので、社交場に出られず、付きまとわれることもない。
家では相変わらず、わたしの行動を知りたがるけれど。
……いくら家族でも居心地が悪い。
どこかに行こうとする度について来て、断るとどこに行くのか、何をしに行くのかと質問責めにされるのは疲れる。
心配なのはプリシラが十六歳を迎え、デビュタントを済ませた後のことだ。
また、社交の場でつきまとわれたらと思うと少し気が重い。
「お姉様!」
そんなことを思っていたからか、プリシラが廊下の向こうからわたしを呼びながら駆け寄って来る。
「プリシラ、淑女は大きな声を上げたり走ったりしてはいけません」
「もう、お姉様ってば細かいんだから。お父様もお母様も『ちょっと元気なほうが可愛い』って言ってくれるのに」
わたしの注意を聞かないのはいつものことだ。
お父様も伯爵夫人も、ヴィヴィアン様に注意されたことを忘れてしまったのだろうか。
一度目は軽い注意で済んだけれど、プリシラが社交界に出て、格上の家の子息令嬢に失礼なことをしてしまった時に大変な思いをするのは伯爵家なのに。
しかし、それをどこか他人事のように感じる。
……元より、この家にわたしの居場所なんてないもの。
公爵令嬢の友人、王太子の婚約者。そういったものがなければお父様はわたしに見向きもしないし、使用人達はわたしに冷ややかな態度を取る。
そのことを知ってしまった今、もうこの家の誰かを信じることなど出来なかった。
「お姉様はお出かけ? どこに行くの?」
「王城よ。王太子妃教育があるから」
週の半分は王城に出かけているのに、毎回、どこに行くか訊かれるのは面倒だった。
「お姉様は王太子の婚約者になったのよね?」
珍しくプリシラが他の話を振ってきたので驚いた。
わたし自身について訊かれたことはほぼなかったから。
「王太子殿下とお呼びしなさい。……ええ、そうよ」
「しかもランドロー公爵令嬢とも仲が良い。もしかして、ランドロー公爵家のルシアン様と会ったことってある?」
話題がヴィヴィアン様のお兄様に飛んだことに疑問を感じながらも頷いた。
「直接言葉を交わしたことはないけれど、何度か遠目にお顔を見かけたことはあるわ」
「いいなあ、私もルシアン様に会いたい! みんなが『見目麗しい方』って話してるのに、私はまだ一度も見たことがないし」
本当に羨ましそうにしている。
「ランドロー公爵家について来たがったのは、まさか、ルシアン様を見るためだったの?」
「そうよ。お姉様は公爵令嬢と友達だから、言えば連れて言ってもらえると思ったのに、全然融通が利かないし、公爵令嬢を誰も紹介してくれないし」
その言葉に呆れてしまった。
同時に、公爵家に連れて行かなくて良かったとも思う。
遠目に見ただけでもヴィヴィアン様のお兄様は美しい人だったので、もしプリシラが会っていたら、一目で恋に落ちただろう。
しかし、ランドロー公爵令息は恋愛に興味がないらしい。
特別親しい女性もいなく、次期公爵として真面目に執務を行っている。
ただ、見た限りでは妹のヴィヴィアン様のことをとても可愛がっていて、家族仲も良いようだ。
「ヴィヴィアン様を利用するつもりだったのね?」
わたしが少し怒気を滲ませた声で返せば、プリシラは不思議そうな顔をした。
「お姉様、何で怒っているの?」
プリシラがこんな様子だから、誰もヴィヴィアン様へ紹介をしたがらなかったのだろう。
それに、プリシラとヴィヴィアン様はお茶会の件もある。
プリシラは「謝りたい」と言っていたけれど、恐らくそれもヴィヴィアン様のお兄様に会いたいがために言っているだけだ。
「もし公爵令息をお見かけすることがあっても、いきなり話しかけてはダメよ。いい? 誰かに紹介していただかない限り、勝手に話しかけるのは失礼に当たるから」
「それならお姉様が紹介してよ」
「……それは出来ないわ」
そんなことをすればヴィヴィアン様や公爵令息に不快な思いをさせてしまう。
「何よ、王太子の婚約者になったっていうのに使えないわね! もうお姉様には頼まないからいいわ!」
プリシラがそんなことを言い捨てて去って行く。
使えない、という言葉に衝撃を受けた。
いくら何でも、そんな言い方はないだろう。
……姉と呼んでいても結局、わたしも道具に過ぎないのね。
プリシラはお父様やお母様を『自分のわがままを聞いてくれる都合の良い存在』と思っているところがあるようだったが、こうして面と向かって「使えない」と言われるとは思ってもみなかった。
廊下に立ち尽くしていると使用人が呼びに来る。
王城からの迎えの馬車が到着したと聞いて、我に返り、慌てて馬車へと向かう。
……なんだか嫌な予感がする。
けれど、この予感を誰に話せばいいのか分からない。
走り出した馬車の中で、不安を感じながら揺られることしか出来なかった。
* * * * *




