お帰りなさい。
「ヴィヴィアン、願いは言葉にするべきだ」
ふわりと後ろから誰かに抱き締められた。
大男が驚いたのか手を離す。
驚きのあまり、言葉が出なかった。
それでも、わたくしを抱き締めているのが誰なのか、考えるよりも先に理解した。
……そんな、どうして……魔族領にいるはずなのに……。
大きな手がわたくしの顎に触れて、顔を上げさせられる。
そこにには思った通り、リーヴァイがいた。
相変わらず自信に満ちた微笑を浮かべていた。
「リー、ヴァイ……?」
その姿を見た瞬間、心の底から安心した。
リーヴァイが帰って来た。
瞬きをすれば、涙が頬を伝う。
その涙の跡をリーヴァイの指がなぞった。
「何者だ!! どこから入った!?」
大男が警戒した様子で怒鳴る。
その怒声にビクリとわたくしの体が震えれば、リーヴァイの顔から笑みが消えた。
そのまま、黄金色の瞳が大男を見た。
「黙れ」
瞬間、大男が口をパクパクと開閉し、驚いた様子で自身の喉を押さえた。声が出ないらしい。
黄金色の瞳がこちらへ戻ると柔らかく細められる。
「ああ、ヴィヴィアン、恐ろしかっただろう」
わたくしの体が震えている。
喜びか、恐怖か、それとも別の何かなのか分からない。
顔を寄せたリーヴァイが甘く囁く。
「さあ、望みを言うがいい。我に命令出来るのはそなたのみ。その望みを、命令を、我が叶えよう」
その声に促されてわたくしの口が勝手に動く。
「……たすけ、て……」
それは命令というより懇願だった。
けれども、リーヴァイは満足そうに頷いた。
「望みのままに、我が主人よ」
ギュッとリーヴァイに抱き寄せられる。
そして、リーヴァイを中心に風が巻き起こる。
でも不思議とわたくし達の周りは何ともなくて、巻き起こる風の向こうから男達の悲鳴がいくつも聞こえて来た。
「心配せずとも加減はしている」
リーヴァイが言い、そして、風がふっと止んだ。
建物の中は荒れてしまい、男達が倒れている。
大男ですら傷だらけで動けない様子だった。
「では、公爵家に帰るとしよう」
周囲が光ったかと思うと、ふわりと浮遊感に襲われる。
それについ目を瞑ってしまった。
けれども、すぐにお父様の声がした。
「ヴィヴィアン……!?」
ハッと顔を上げれば、そこはお父様の書斎だった。
バラリと縄が解けて両腕が自由になる。
「お父様……!」
思わず駆け出し、同様に駆け寄って来たお父様に抱き着けば、しっかりと受け止められる。
「ヴィヴィアン、大丈夫か? こんなに汚れてしまって……怪我はないか? ああ、よく顔を見せなさい」
お父様がわたくしの両頬に触れて顔を覗き込んでくる。
いつもは厳しい表情のお父様も、今は心配と安堵とで眉を下げていて、こんなお父様を見たのは初めてだった。
「襲われた際に馬車が横転して、少し頭や体が痛いですが、でもこの通り無事ですわ」
「いや、外見では分からないこともある。すぐに教会から神官を派遣させて……いや、それでは噂が広まってしまうか……」
「そこまでなさらずとも大丈夫ですわ」
微笑めば、お父様が心配そうにしている。
それまで黙っていたリーヴァイが近づいて来る。
「それならば我が治療しよう」
そばに立ったリーヴァイがわたくしへ手を翳し、体がふわりと光に包まれると、痛かった頭や体が治っただけではなく、汚れていた髪やドレスまで綺麗になった。
「これで良いだろう」
リーヴァイが満足そうに頷く。
お父様がリーヴァイに頭を下げる。
「娘を助けてくださり、ありがとうございます、魔王様」
「良い。ヴィヴィアンは我が主人、奴隷が主人を守るのは当然のことである。それよりも今後はよりヴィヴィアンの警備を強固にするべきだ」
「はい、その通りでございます」
そして、お父様がわたくしを見下ろした。
「すぐにイザベルとルシアンに伝えなければ。お前が行方不明になったと知って、二人とも、王都を焼き滅ぼしそうな勢いだ」
「まあ、笑えない冗談ですわね」
「冗談ではない。二人は本気でこの王都を焼き尽くし、ヴィヴィアンを攫った者を殺すと意気込んでいてな……」
……魔族のお母様とお兄様ならやりかねないわね。
「では、イザベルとルシアンを呼ぼう」
言って、リーヴァイが片手を耳に当てた。
ややあって廊下が騒がしくなり、書斎の扉が派手に開く。
お母様と目が合えば、凄い勢いで抱き着かれた。
「ヴィヴィアン……!!」
ギュッと強く抱き締められる。
「ああ、良かった、無事だったのね……!」
お父様の時と同じく、お母様もわたくしの顔を両手で包み、確かめるようにわたくしを見る。
安堵したのか美しい紅色の瞳からポロポロと涙が零れた。
そうしてもう一度抱き寄せられる。
「……ごめんなさい、お母様」
「いいえ、謝らないでちょうだい。魔王様から話は聞いたわ。あなたは何も悪くないもの。……怖かったでしょう? 私達の可愛いヴィヴィアン。あなたがこうして帰って来てくれただけで十分よ……」
滅多に動揺しないお母様が泣いている。
だけど、それが嬉しくもあった。
……こんなに心配してくれる人がいるって幸せだわ。
お父様もお母様も、わたくしを愛してくれている。
「お兄様は?」
「ヴィヴィアンを誘拐した者達の捕縛に向かっている」
わたくしの問いにリーヴァイが答える。
「こちらに来たがっていたが、先ほどの場所を伝えたら『妹を傷付けた愚か者は許さない』とかなり怒っていたぞ。それにヴィヴィアンの身を案じていた」
「お兄様なら一人残らず捕まえてくれるはずね」
お母様が優しくわたくしの頭を撫でる。
「公には出来なくても、公爵家を敵に回すとどのような目に遭うか思い知らせてあげましょう。ねえ、あなた?」
「ああ、当然だ」
……お母様もお父様もとても怒っているわね。
それでも、わたくしを抱き締めるお母様の仕草は優しくて、温かくて、柔らかな感触にホッとする。
「……お母様、お父様、わたくし、少し疲れてしまったようで、今は休みたいですわ」
公爵邸へ帰って来た安堵感からか、体が重い。
お母様にもう一度ギュッと抱き締められる。
「一人で大丈夫かしら?」
「ええ、リーヴァイがおりますわ」
「そう、そうね、魔王様なら安心だわ」
お母様を抱き締め返してから離れる。
リーヴァイが差し出した手に、わたくしは自分の手を重ねた。
すると、ヒョイと軽い動作で抱き上げられる。
「後のことは任せた」
「かしこまりました」
「娘をよろしくお願いいたします、魔王様」
お父様とお母様がリーヴァイに頭を下げる。
そして、また僅かな浮遊感と光と共に視界が移り変わり、見慣れたわたくしの部屋にいた。
リーヴァイが歩き、わたくしをベッドの上へ下ろす。
そのまま離れようとしたリーヴァイの首に、思わず腕を回して引き留めてしまった。
リーヴァイの動きが一瞬止まり、それから、またわたくしを抱き抱えるとベッドに腰掛けた。
わたくしはリーヴァイの膝の上に横向きに座った。
抱き寄せられて、リーヴァイの長く、意外とがっしりとした腕に囲われると酷く安心する。
リーヴァイに抱き着いて背中に腕を回す。
「……お帰りなさい」
頭上から「ああ」と静かな声がする。
「それから、助けてくれてありがとう……」
「まだ恐ろしいか?」
返事の代わりに小さく頷く。
「…………今夜はここにいて」
返事の代わりに、大きな手がわたくしの頭に触れる。
じわりと滲む涙に目を閉じる。
怖かった。もうダメだと思った。
でも、奴隷に落ちることよりも、公爵家に迷惑をかけることよりも、これまでの計画が狂ってしまうよりも、何より恐ろしかったのは『このままリーヴァイに会えなくなるのではないか』ということだった。
……ああ、わたくしは本当にリーヴァイが好きなのね。
たとえ奴隷になったとしても、主人がリーヴァイならば、きっとわたくしは喜んで奴隷に落ちるだろう。
公爵家を捨てろとリーヴァイに言われたら、捨ててしまうかもしれない。
わたくしは自分で思っている以上にリーヴァイを愛している。
泣くわたくしをリーヴァイは優しく抱き寄せ、その腕に囲ったまま、慰めるように頭を撫でてくる。
一年前はもう少し背が低くて、細身で、美少年と美青年の中間といった様子だったのに、今のリーヴァイは美丈夫になっていた。
「ヴィヴィアン」
名を呼ばれて、顔を上げる。
頭を撫でていた手が頬に触れた。
リーヴァイの顔が近づき、鼻先が触れそうなほどの距離で、リーヴァイが止まった。
「……逃げなくていいのか?」
囁くような問いに、わたくしは目を閉じる。
唇に柔らかな感触が触れた。
控えめな、重ねるだけの優しい口付けだった。
「……わたくし、あなたを愛しているわ」
離れていく唇に囁けば、もう一度口付けられる。
「知っている」
「……でも、わたくしはわがままなの」
「知っている」
目を開ければ、間近に黄金色の瞳があった。
その瞳がジッとわたくしを見つめている。
もう一度近づいて来る唇に指を当てて止める。
「ねえ、リーヴァイ」
そっと唇を指先で辿れば、その指にリーヴァイが口付ける。
ドキドキと脈打つ鼓動はリーヴァイにも伝わっているだろう。
このまま流れに身を任せてしまえば簡単だ。
でも、わたくしはわがままだから行動だけでは足りない。
「わたくしの全てをあなたにあげる」
黄金色の瞳を見つめ返す。
「だから、あなたの全てをわたくしにちょうだい」
ふ、とリーヴァイが微笑んだ。
わたくしの手を掴み、唇から指を遠ざける。
「ああ、そなたが望むなら、我の全てを与えよう」
愛しているだとか、好きだとか、そんな言葉はなかったけれど、魔王は言う。
「その代わりに、そなたの全てを我がもらい受ける」
「……ええ」
目を閉じれば、唇が重なる感触がした。
* * * * *
さらりと手から金髪がこぼれ落ちていく。
心身共に疲れてしまったのだろう。
安心したのか、ヴィヴィアンは腕の中で眠りについた。
ヴィヴィアンの十七歳の誕生日には戻る予定ではあったが、魔族領にて以前の体を取り込み、戻ろうとしていた時に奴隷の首輪が赤く光った。
恐らく、主人であるヴィヴィアンの危険に反応したのだろう。
戻ってみれば、公爵家にヴィヴィアンの姿はなかった。
ヴィヴィアンは魔人で、魔族よりも魔力が弱い。
王都内には少ないが魔族もいて、魔人やその子孫なども少なからずいるため、探し出すのに時間がかかってしまった。
それでも、最悪の事態にはならなかった。
部屋の扉が叩かれ、すぐに開かれる。
「ヴィヴィアン……!!」
息を切らせたルシアンが入って来た。
唇の前で指を立てて見せれば、ルシアンは立ち止まった。
その視線はすぐにリーヴァイの腕の中で眠るヴィヴィアンへ向けられ、ホッとした様子で静かに近寄る。
「魔王様、ヴィヴィアンに怪我はございませんか?」
「襲われた際に打ちつけたのか、頭と体が痛むと言っていた。治癒魔法で癒したから今は何ともないはずだ」
「ありがとうございます」
よほど深く眠っているようで、ヴィヴィアンが起きる気配はない。
「だが、我が到着した時にはかなり魔力を消耗した様子だった」
「捕縛した者達のうち、何名かに魅了がかかっていました。恐らく、ヴィヴィアンのものだと思います」
「なるほど」
逃げるために敵を魅了で操ったのだろう。
……貴族の娘にしては度胸がある。
ヴィヴィアンの魔力量は人間に比べれば多いものの、複数人に継続して魅了をかけるのは負担が大きかったはずだ。
魔力がかなり減っているのもそれが理由か。
触れ合っている部分から、ゆっくりと魔力を譲渡しているが、数日は疲労感が残るかもしれない。
「全員捕縛したか?」
「はい、捕縛した者達に魅了をかけて問いただしましたが、関係者は全て捕らえました」
「その者達はイザベルとルシアンに任せるが、殺しは許さん」
それにルシアンが微笑んだ。
「承知しております。……簡単に死なせるなど生温い」
「そうだ、自ら『殺してくれ』と懇願しても生かせ。我が妻となる者に手を出すとどうなるか、魂に刻みつけてやるが良い」
ヴィヴィアンは優しいから許してしまうかもしれない。
しかし、イザベルとルシアンは決して許しはしない。
この二人は特にヴィヴィアンを大事にしているので、手を出した者達は地獄を見ることとなるだろう。
魔族は残虐な性質を持つ者が多く、イザベルもルシアンも例外ではなかった。
リーヴァイが手を下せば人間など一瞬で塵になってしまう。
だが、人間と長く接し、擬態しているこの二人ならば、加減が分かっている。
「かしこまりました」
それから、ルシアンがヴィヴィアンの寝顔を眺めた。
優しいその眼差しからも、心の底からヴィヴィアンの無事を喜んでいるのが感じ取れる。
そして、ヴィヴィアンの手を見るとルシアンが苦笑した。
「ヴィヴィアンは魔王様に本当に懐いておりますね」
ヴィヴィアンの手がリーヴァイの服をしっかりと握っている。
リーヴァイの腕の中で安心した様子で眠るヴィヴィアンを見て、愛おしい、と思う自己の心も面白い。
「己の全てをやるから、我の全てを寄越せと言われた」
「それはまた豪胆な……魔王様はそれを受け入れたのですか?」
「ああ、その程度で済むなら安いものだ」
リーヴァイは笑って腕の中を見下ろした。
魔王の腕の中で、こんなにも穏やかに眠れる者は他にいないだろう。それがまた面白くて興味深い。
これほど心惹かれるものは今までなかった。
だからこそ、手元にいつまでも置いておきたいと思う。
「王太子との取引期間が終われば、我が娶る」
「御意。母上も反対はしないでしょう」
ルシアンの言葉にリーヴァイは笑みを深める。
少し名残惜しそうにしながらもルシアンが部屋を出て行く。
ベッドにヴィヴィアンを寝かせて靴を脱がせる。
ドレスの上からシーツをかけ、横にリーヴァイも寝そべった。
ヴィヴィアンの規則正しい寝息に耳を傾けながら、夜が更けて行くのをリーヴァイは待つ。
……目を覚ましたら驚くだろうな。
顔を赤くするだろうか。それとも微笑むだろうか。
どちらにしても悪くない反応だと思う。
「……我も愛しているのだろう」
それが人間が感じる恋愛感情と同じかは分からないが、他のどの魔族よりもヴィヴィアンを気に入っている。
魔族には魔族の愛し方しか出来ない。
たとえ「もう嫌だ」と言ったとしても、魂の最後の一欠片になったとしても、手離しはしない。
眠るヴィヴィアンの額へそっと口付けた。
「竜の執着を身をもって知るがいい」
* * * * *




