籠022 過ぎ去る目
服などは盛大に濡れたものの、観覧席へ戻るうちにすぐに乾いてしまった。
飛沫に当てられた髪は重く下がっていたが、すぐに元通り。水魔術の乾きの速さには、良い意味でも悪い意味でも、毎回驚かされる。
「ロッカ、良い試合だったよ」
『おう、見てたぞロッカ! やるじゃないか、あんな魔術を覚えていたとはな』
他の学科は、午後からの講義のために昼食や準備に専念しなければならないので、闘技演習が終わって少し経てば、観覧席にいた蟻のような群衆もすっかり掃けていた。
しかし、午前中の二時限で一日の講義が終わる特異科にとって、昼休みは特別貴重な時間というわけでもない。
ヒューゴとライカンは観覧席の出口辺りの椅子に座り、私が来るのをずっと待っていてくれたようだ。
彼らのこういう心遣いは、ちょっと嬉しい。
「ありがとう。でも、途中は負けるかと思って」
『ああ、終盤まではルウナの独擅場だったかもしれんな。だがロッカの意表を突く一手からの逆転は、実に見事だったぞ』
「いや、そんなに褒められてもな……」
一本の柱で守られていたあの時は、半分近く諦めていた。
それでも私が闘う気力を保ち、逆転の閃きを引き出させてくれたのは、観覧席からの罵声に他ならない。
「……あのさ、ナタリーとか、見なかった?」
「ナタリー? 見てないけど、また彼女に何か言われた?」
「いや、応援された……っていうのかな」
私の言葉に、ヒューゴは面白い冗談を聞いたように笑った。
ライカンも“気のせいだろう”と笑っている。うん、言ってから私もちょっと笑ってしまった。
この事については私の冗談とでも思われたのか、後に会話が続けられることもなかった。
ナタリー、お前の評価って相変わらずなんだな。
けど、あの時聞こえたほとんど罵声に近い声援は、間違いなく私の中に火を灯したものだった。
あいつに言われた暴言や、変わらない態度を許してやるつもりはないけど、その限った事については、まぁ、感謝してやらなくもない。
「ロッカぁー」
「おー、ボウマ」
「おめでとー」
「ありがとー……っておいおい」
ボウマも観覧席で見ていたらしい。
だぼだぼの服をなびかせながら、こちらへ走って来た。というよりもタックルに近い抱きつきをかましてきた。
しかしここは闘技演習場の場外だ。身体強化で軽くつまみ上げてやる。
「なーロッカ、ルウナ悪いやつじゃなかったでしょ?」
首の後ろの摘まれた猫のような体勢で、ボウマはにかりと笑った。
間抜けな格好に間延びした声だけど、その言葉自体は私の心に深く突き刺さっている。
「ああ、全然悪くなんてなかった。私の酷い勘違いだったみたい」
「だろだろ」
「だなだな」
善意を計る目が、ちょっとした煙で薄暗く見えてしまう、私の濁った心に気付かされた。
苦痛すら伴う特訓の日々は結局、私の盛大な空回りだったわけだ。
全ては馬鹿な私の勘違いから始まったことだけど、ルウナと仲良くなれて、リゲル導師との関わりもできて、新たな魔術だって習得した。
この短い間に得た多くのものは、決して私にとっての無駄ではないはずだ。
「アブロームからガミルを生成、か。他に切り抜ける方法はいくらでもあったが、まぁ相手の意表はつけたのだし、ウィルコークス君の頭なら及第点の結果といったところか」
「……悪かったな、どうせ馬鹿だよ」
帰り道の廊下で合流したクラインは、褒めているのか貶しているのかよくわからないけど、きっと私を褒めてくれたのだろう。
彼には終始助けられたけど、しかしここにきて素直に感謝したくなる気持ちが薄れてしまったのは、多分私がひねくれているからではない。
「せっかく君の弟子が勝ったんだ、もうちょっと“よくやったな”とか、シンプルに褒めたらどうなんだ? クライン」
ヒューゴが私の気持ちを代弁してくれた。良いぞ、もっと言ってやってくれ。
「途中で闘いを放棄しかけた奴を褒めるわけがないだろう」
うっ。そう言われると、ちょっと弱いところではあるが。
確かに私は、クラインのように“絶対に倒すべき敵”とか、そんな壮大な相手を打倒すべく闘っているわけではないから、それと比べたら意志の弱さは、当然あるかもしれないけど。
けど試合が終わって一言くらいは、褒めてくれたって良いだろうよ。
「大体、オレは勝てるように教えたんだから、勝てて当然じゃないか」
ダメだ、こいつの考え方、緩みがねえ。
クラインからお褒めの言葉を引き出すためには、もっと大層な事を成し遂げなくちゃならないようだ。
わざわざそのために頑張る気は、これっぽっちすら無いけども。
「やれやれ、素直じゃないね」
『いつまでもそんな態度を取っていると、いつか友人を無くすぞ? クライン』
「そうだぞー、ネクライン」
「どうでもいい」
こんな会話を交わしていても、彼らはこれからもずっと仲良くやっていくような気がする。
クラインも必要以上に強く突き放すわけではないし、彼らもクラインの目に余る態度には慣れているのか、とても寛容だ。
嫌な奴。すごく嫌な奴。嫌な奴そうに見えて実は良い奴。人が多ければ、当然、色々な人がいる。
私の心にも、ある程度大きな物を受け入れておく広い器を用意しておかなくちゃいけないな。
学園の賑やかな昼下がり、先をゆく彼らの後ろ姿を眺めながら、そんな事を考えるのであった。
棟を出て庭を歩いていると、ライカンは皆で外へ繰り出そうと提案した。
なんでも今回は、私の勝利を祝って、鍋ではなく焼き物のパーティを催したいのだとか。
前々から“これをやってみたかった”と抱いていたように予定メニューを淀みなく言い並べるライカンには、どこか私の闘技演習を出汁に使ったような感はあったけど、その出汁もまた美味そうだったので、反対はしない。
よだれを流すボウマとよだれを飲み込む私の勢いのある賛同によって、他二名の承諾を取り付けることなく、無事に焼き物のパーティは行われることに決定した。
「また肉か……」
「ははは」
けどやっぱり、菜食主義のクラインは乗り気でないらしい。
目に見えて気力を失った調子で歩く彼だが、ライカンのことだ。きっと何かしら、クラインの舌鼓を響かせる案を用意してることだろう。
横の狼男の目を見れば、どこか秘策でもありそうな強い眼光を湛えているしね。
「……クリーム」
私達が学園の庭を出ようという時、いつの間にか立ち止まっていたクラインが、後ろの方で小さくつぶやいた。
『どうしたんだ、クラインは』
「わかんね、何か言ったけど」
何事かと思って私達が振り向くと、クラインは特徴的な猫背の姿勢で、しかし脚は地面を踏み固めるような荒い歩調で、身を翻して学園の方へと戻ってゆく。
背中でもわかるほどの強い怒りを帯びた姿には、“どうして戻るんだ”などと聞く必要性は除外された。
尋常ではない何かが彼をそうさせているのだと、あの後ろ姿だけでわかってしまったから。
「クリーム! なぜミネオマルタに居る!」
乱暴に歩くクラインが、私が初めて聞くような尖った声で吠えた。
突然のことである。当然、私達は驚いた。
何事かと彼の歩く先に目を凝らすと、一人の金髪の女性が立っているのが見える。
女性はクラインの呼び声に、手を振って応えているようだ。
「あら、クライン。久しぶり」
その綺麗な、見るからに“高貴”という言葉が似合いそうな女性は、クラインの語調とは対照的に、柔らかな笑顔と声で挨拶をしてみせる。
長い金髪の先を内巻きにした、そのためかどこか丸みのある雰囲気を帯びた彼女。
口調も、そこから滲み出る物腰も柔らかい印象を受ける。
「クリーム、何故貴様がここに来た」
しかしクラインは、そんな彼女に構わず、強く当たった。
「理総校の准教授だもの、リゲルさん……ゾディアトス導師の護衛として同伴したって、おかしくは無いでしょう?」
「消えろ」
「ゾディアトス導師の護衛という、大事な仕事の途中なの。帰るわけにはいかないわ」
広い石タイルの広場で、クラインとクリームという女性は、言い争いを始めてしまったようだ。
ただごとならぬ事にもつれ込みそうな雰囲気である。
しかし、あのクラインが、ここまで嫌悪を露わにするなんて。
何事かもわからず立ち止まっていた私達は、とにかく事情を詳しく知るために、彼らに近づくことにした。
その間、私はヒューゴやライカンの顔を伺ったが、彼らも私達の顔色を“何か知ってる?”と言いたげに伺ってきた。
どうやら、一年近く付き合いのある彼らにとっても、今目の前で起こっているトラブルについて、心当たりはないらしい。
唯一ヒューゴだけは、“あの人を見かけたことはあるけど”とは言っていたものの、それについて詳しく聞いても、首を傾げるばかり。
「ならば任を解いてもらえ、そして帰れ」
「そうする理由がないわね」
「まぁ、まぁまぁ」
勇気あるヒューゴは険悪な雰囲気の中へ踏み込み、クラインの隣から横槍を入れるように訊ねた。
「なあ、クライン。何があったのか知らないけど、女性相手にそんなに怒ることは……」
「黙れ、あいつは悪の権化だぞ。奴は一秒だって視界に入れておきたくはない。目が腐る。醜悪なる魔族だ」
「おいおい……」
返ってきたのは、眉間に皺を増やしたクラインの苛烈な一言である。
聞く限りでは、その怨み具合は雲を突き抜けていそうだ。
丸め込むのが上手いヒューゴも、今のクラインには一歩引いてしまう気迫があった。
「悪の権化とか、醜悪とか……クライン、口の聞き方には気をつけなさいって、教わったでしょう?」
そんな言葉に顔をしかめたクリームさんが、クラインをたしなめる。
しかしそれに反応して、クラインの機嫌はより一層悪化した。
「黙れクリーム。オレが貴様をどう思おうが勝手だ」
「貴様。またそういう。あのねクライン、お姉さまに向かってそういう口の利き方は無いでしょう? 」
「え?」
お姉さま。
クリームさんから発せられたその単語に、私達は凍りついた。
「なにが姉だ。オレはそもそも貴様を人間だと思ったことはない。貴様は悪魔だ」
「またそうやって! いい加減になさい、ウィスプお母さまが聞かれていたらなんて嘆くことか!」
「母さまは関係ないだろう!」
私達を置き去りに、二人の口喧嘩はどんどん加熱し、加速してゆく。
「ちょっと、青磁の大皿を割った時に“良い子になる”って約束したの、クラインあなた、あの約束を忘れたの!?」
「あれは食事の時に音を立てていたのを直しただろう!」
「呆れた! それだけで良い子になったつもり!? お母さまの言いつけを何度も破って!」
「うるさい! オレの転校はウィスプ母さまも認めてくれた! いい加減オレに近づくな!」
目の前で、殴り合いにでも発展しそうな激しい口喧嘩が繰り広げられてている。
傍らで聞いているだけの私達でも状況を飲み込みきれないほどの、異世界的口論である。
姉さま? 母さま?
青磁の皿? 食事の音?
疑問が次から次へと重なったまま、口喧嘩の勢いだけが加速する。
しかしそれは、クラインが右手を掲げたことにより、予想を遥かに上回る方向へと突き進んでゆくのであった。
「失せろ! “テルス・ラギル・ヘテル”!」
「え!? おい!」
クラインのあまりにも突発的な行動に私達の制止は間に合わず、彼の右手の指輪は、無慈悲に輝いた。
一帯のタイルの砂埃を消し飛ばす烈風は、容赦なくクリームさんの細い身体に叩きつけられた。
「うっ!」
まるでボールでも投げたかのような放物線を描いて、クリームさんの身体が空中に吹き飛ばされる。
風に煽られた紙袋のように遠ざかる彼女の姿は、私達にそこからコンマ数秒先の悲劇を容易に想像させた。
「よくも」
しかし、烈風に吹き飛んだ女性はゆるやかな速さと軌道で、石タイルの上に着地してみせた。
地面に転がることも、何かに叩きつけられることもない。
そのまま鳥が舞い降りるように、彼女はあっさりと着地してみせたのである。
クリームさんは、その顔に強い怒りを浮かべ、クラインのもとへ再び歩み寄ってくる。
「よくもやったわね。許さないわよ、クライン」
「悪魔が……!」
これから始まるとんでもない波乱の予感に、私達が数十歩退避したのは言うまでもない。
つーか、今何が起こってるんだ。誰か説明してくれよ。




