テレビが来た! (1)
朝七時半頃の鳳鳴高校の校舎は、人がまばらである。始業が八時十五分で、生徒たちはその五分前には登校するのが決まり……しかし、七時半過ぎという時間帯は、まだ登校していない生徒の数の方が圧倒的に多いからだ。
人気の少ない廊下には朝の陽光が差し込み、窓枠を模した影が床のカーペットタイルに鮮やかな濃淡を描く。開け放たれた窓からは爽やかな春の香り。透き通るような青空は、ワクワクしてくるような開放感を運んでくる。ともすれば口笛を吹きたくなるような春の陽気漂う朝の廊下を“りん”は歩いていた。いつもならば、まだ登校してきていない時間帯であるにもかかわらず、こうして廊下を歩いているのには理由がある。
“りん”は、自分の三年A組の教室の前を通り過ぎて、真っ直ぐE組の教室の前まで歩いた。そして、まるで不審者のように恐る恐る教室の中を覗き込んだ。
(いない……)
E組の教室の最前列……教卓の真ん前がのどかの席であるが、まだ登校してきた気配はなかった。少々早い時間帯とはいっても、普段ののどかならもう来ている時間なだけに和宏は落胆した。
(必ず学校に来るって言ってのにな……)
昨日、病院での別れ際……確かにのどかはそう言っていた。その言葉が本当かどうかを確認するために、和宏はわざわざ普段より早く登校してきたのである。しかし、のどかの姿を確認できなかったことで、結果としてモヤモヤが溜まることになってしまった。仕方なしに、ため息をつきながら立ち去ろうとした時だった。
「どうしたんだい、こんなところで?」
「ぅわわっ!」
背中からしゃべりかけられ、不意を突かれた“りん”は飛び上がらんばかりに驚いた。
「し、失礼だな……そんなに驚いて」
「の、のどかっ!」
そこには、口をへの字に曲げ、非難がましい視線で“りん”を見上げるのどかがいた。いつものように毛先の揃わぬミディアムの髪が見事なまでに外ハネし、窓から入り込む春風にフワフワと揺られている。鞄を胸に抱え、たった今登校してきたのが一目瞭然だった。
「いや、その……」
のどかがちゃんと登校しているかどうか確かめに来た……と言えば済む話であったが、なんとなく口篭ってしまった和宏は、しどろもどろにならざるを得なかった。のどかは、クスリと笑いながら答えた。
「ちゃんと来るって言ったじゃないか」
まるで全てをお見通しであるかのようなのどかに、“りん”はバツが悪そうに笑い返した。まるで、昨晩のことなどなかったかのように、のどかの様子は普段と全く変わりがない。何はともあれ、和宏はホッと胸を撫で下ろした。そこへ、いたって呑気で軽薄そうな声が割り込んできた。
「おーう、萱坂と……久保じゃねぇか」
長身でスマート……それでいてガッシリとした体躯、しかもイケメン。外見だけはハイスペックであるにもかかわらず、軽い上におバカな言動でちょっぴり残念仕様がデフォルトの山崎だった。
「ここ何日かどうしたよ? 店まで閉まってたぞ?」
「ああ……心配かけてすまないね」
のどかが、父親で店長でもある大吾が骨折で入院中であることを説明すると、山崎は腑に落ちた表情とともに何度も頷きながら納得した。
「ところで……どうしたんだよ、今日は?」
「どうした……って何が?」
「イヤイヤイヤ。なんでこんな早い時間に学校にいるのかって聞いてるんだけど?」
「ん、おお……そ、それはだなー……」
“りん”の質問に答える山崎の台詞が中途半端な部分で立ち往生したまま、その目が怪しげに泳ぎ始める。訝しそうな“りん”の視線が山崎の日焼けした顔に突き刺さった。
「さては、またなんかロクでもないことを……」
「ま、待て待て! 違う! そんなんじゃねぇ!」
「『そんなん』ってどんなんだ!?」
右手をブンブンと振って怪しさを否定する山崎であったが、皮肉なことに否定すればするほど怪しさが増していく。だが、そんな山崎のピンチを救ったのは、意外にものどかだった。
「今日もまたトレーニングだったかい?」
山崎は虚を突かれたように押し黙り、“りん”は思いもよらぬ話に目を丸くした。
「なんだ? トレーニングって?」
「山崎くんはね、よく朝にトレーニングルームで筋トレしてるんだよ」
「……マジ?」
鳳鳴高校の管理棟にある一室に、ベンチプレスなどの筋トレ機器があるトレーニングルームがあることは和宏も知っていた。だが、山崎が朝からそこを使っているとは初耳だった。
「なんでそんなことのどかが知ってんだ?」
「トレーニングルームは生徒会室のすぐ近くだから」
のどかは、鳳鳴高校の生徒会長であるため、生徒会室へ出入りする回数は人一倍多いはずである。なるほど……と“りん”は大きく頷いた。
山崎は、まるで格好悪いところを見つかってしまったかのように頭をかいている。“努力は人知れずするもの”という価値観は、和宏の持つそれと全く同じものだ。和宏は、少し山崎を見直した。
「そ、そんなことはどうでもいいんだよ! それより……実はビッグニュースがあるんだぜ……」
「ビッグニュース?」
唐突にビッグニュースなどと言われても見当すらつくはずもない。首を傾げる“りん”とのどかに、山崎は得意満面な顔で答えた。
「なんと……野球部にテレビが来るんだってよ!」
一瞬、意味が飲み込めずに、沈黙が辺りを支配する。“りん”は、おずおずと山崎に聞き返した。
「それって、野球部がテレビを買うってことか?」
「萱坂……お前その天然ボケなんとかしろよ?」
「誰が天然だ!」
せっかくのビッグニュースが、いきなり横道に逸れようとしている。のどかは、やれやれ……といった様子で口を挟んだ。
「それはひょっとして“取材が来る”ってことかい?」
「おお、さすが久保! なんかそういうことらしいぜ!」
このちっぽけな公立学校の野球部にテレビ局の取材が来るなど前代未聞である。まさに山崎の言うとおり“ビッグニュース”であったが、当の“りん”は、へぇ……と間の抜けたため息をもらしていた。
「なんだよ、驚かねぇのか?」
「いや、そりゃビックリだけどさ。なんで鳳鳴みたいなトコに取材が来るんだ?」
のどかと山崎が、約三十センチの身長差をモロともせずに顔を見合わせる。そして、二人揃ってため息をついた。
「な、なんだよ、二人して……っ!」
「萱坂ぁ……、お前本当にその天然ボケ何とかしろよ?」
「……へ?」
キョトンとする“りん”を諭すように、のどかが優しく付け足した。
「りんの取材に決まってるじゃないか」
今度は、和宏の方が言葉を失う番だった。甲子園予選という公式戦に参加が認められた女子……それだけでニュースバリューは間違いなくある。この先、万が一甲子園出場ということになろうものなら、多方面からの取材が殺到してもおかしくはないだろう。そこまで思い至った和宏は、もはや動揺を隠すことができなかった。
「どど、どうしよう……?」
「まぁ、あまり気にすんな。いつもどおり行こうぜ。取材なんか来たって、俺たちの野球に変わりはねぇよ」
そう言いながら、山崎は胡散臭くも爽やかな笑顔で親指を立てた。もちろん簡単に不安が尽きるものではない。しかし、山崎の言葉には不思議な説得力があった。
「野球に変わりはない……か。確かにそうだよな」
たとえどんなに取材が殺到しようとも野球は野球だ。“りん”は、単純にもスッキリした顔つきで大きく頷いた。
いつの間にか、すでに時計は八時を回っていた。人気の少なかった廊下も登校してきたばかりの生徒たちの姿で賑わい始め、いつもの朝と同じように笑い声の混じる賑やかな雰囲気になりつつあった。
「んじゃ俺、教室に戻るよ」
次々と通り過ぎていく生徒たちの通行の邪魔になりかけていることに気付いた“りん”は、それを機にA組の教室へと戻っていった。その足取りは、まるでグラウンドで見せるフィールディングのように軽やかだった。山崎は、腕組をしながら、まさにキャプテンの名に相応しい威厳で仁王立ちのまま“りん”の後姿を見送った。
「俺んトコにもこねぇかな……取材」
だが、せっかくの威厳が台無しになるようなことを口走ってしまう山崎は、やっぱり残念仕様だった。
◇◆◇
“りん”がA組の教室に戻る頃には、すでにほとんどのクラスメイトたちが登校し終えていた。おはよー……と軽いあいさつをかましながら教室に入った“りん”は、まるでぐんたいありにでも遭遇したかのように、そのクラスメイトたちから瞬く間に取り囲まれた。
(な、なななっ!)
突然の出来事に、声を出す暇も戸惑う暇すらもなかった。待ち構えていたA組女子の面々によって、機関銃のような質問攻めが始まったからだ。
「萱坂さん! テレビに出るって本当!」
「なんか一時間特番って聞いたけど!?」
「いよいよゲーノー界デビューなんだね!」
「トールくんのサインもらってきてくんない?」
「あたしも! あたしも!」
上野、高木を始めとした元気印のA組女子軍団が、まるでエサが投げ入れられた池の鯉のように騒ぎたてる。当然、この場合のエサは……“りん”と解釈すべきであろう。“りん”は、人だかりの中でもみくちゃにされながら目をシロクロさせた。
(は、早い……。しかも尾ひれがハンパなくついてやがる……)
このとてつもない情報の早さと、どうしようもない内容のいい加減さ……間違いなく噂話命の上野の姉御の仕業に違いない……と思いつつ、和宏はこの場をどう切り抜けようか考えようとした。だが、それはいつもの二人によって徒労に終わることになった。
「りんのテレビデビュー……心配しなくともちゃんと私たちが演出してあげるわよ……」
(心配してねぇよ!)
「そうそう! 大船に乗ったつもりでいてねっ♪」
(絶対沈みそう!)
沙紀と東子が、明らかに何かを企んだ顔で“りん”の肩を優しく叩く。二人が何をしようとしているのかはわからない。だが、“りん”いじりには全力を尽くす二人の性質を考えれば、楽天的に考えることは到底不可能だった。
一体何をする気なんだ……?
そう思いながら“りん”はガックリと肩を落とし、諦めモードに入るしかなかった。
――To Be Continued




