いたずら (2)
鳳鳴高校の全ての部活動は、午後七時前には必ず終わる。これは、学校の方針として短時間で集中した練習を推進しているためだ。全ての運動部は、この方針に従って午後七時頃に活動を終わらせるように日々のスケジュールを組む。もちろんそれは野球部も例外ではないのだが、この日ばかりは少々事情が違った。監督の山本が出張により不在のため、午後六時前には練習を切り上げざるを得なかったのだ。
着替え終えた部員たちが、運動部らしい元気なあいさつとともに、まだサッカー部などが居残るグラウンドを後にしていく。その表情には、夕陽が沈みきらない時間帯に帰る嬉しさと戸惑いがアリアリと出ていた。
「お疲れ様でしたー!」
そんな部員たちに、マネージャーの栞がグラウンドの端に散ったボールを拾いながら、持ち前の明るい声であいさつを返す。二年生の二学期からマネージャになった栞だが、よく気が利くだけでなく、その人当たりの良さと明るさで、今では野球部には欠かせない一員となっていた。
ひとしきりボール拾いを終え、ボールかごを抱えた栞が、グラウンドの隅に設置されたプレハブ型の部室まで戻ると同時にドアが勢いよく開いた。出てきたのは、セーラー服に着替え終わった“りん”だった。
「あ、りんさん! お疲れ様でした!」
「お疲れ……って、ボール拾いしてたのか? 言ってくれたら手伝うのに……」
「いえいえ、これくらいはマネージャーで充分できますから。りんさんは気にしないでください」
“りん”は、ドアに立て掛けられた自身の姿を象った立て札を『着替え中』から『今はいません』にひっくり返しながら苦笑した。サポート役に徹し、ひたすら選手を支えてくれる栞に、和宏は頭が下がる思いだった。
「お、ちょうど二人揃ってんじゃねぇか」
どこか軽そうなノリで“りん”たちに話しかけてきたのは、主将の山崎だった。おそらく水道の水を頭から被ってきた直後なのだろう。坊主頭の短い髪の毛は水に濡れ、素っ裸の上半身にタオルを首にかけただけのラフな格好をしている。普通の女性なら、この半裸の男性ヌードに赤面しそうなものだが、“りん”は当たり前のこと、野球部マネージャー暦が長い栞も、今さらそんなウブな反応はありえなかった。
「お前、あんま身体冷やすなよ。怪我の元だぞ?」
「そうですよ、山崎さん。この時期に主将が怪我で戦線離脱なんてシャレになりません!」
突然のダメ出しに、山崎はバツが悪そうに頭をかいた。
「わ、わかってるって……すぐに着替えるからさ。それより……」
そう言って、急に山崎は声を潜めた。“りん”と栞は、心持ち耳を山崎に近づける。周りを気にしながら、山崎は続けた。
「二人とも……久保のことでなんか聞いてねぇか?」
「久保って……のどかのことか?」
「もちろん」
「のどかがどうかしたのか?」
「アイツ……、三日前に早退した後、今日までずっと学校休んでるんだよ」
山崎とのどかは同じ三年E組のクラスメイトである。のどかがズル休みするような不良学生でないことを山崎はよく知っているだけに、余計に首を傾げていた。
「早退ですか?」
「ああ。体育の時間の途中でな」
それを聞いて、和宏は途中でのどかがいなくなった理由に納得した。と同時に、心配な気持ちも湧き上がった。何しろ、滅多に休まないのどかが二日連続で休んでいるのだ。
「確かにちょっと具合悪そうに見えたけど……。風邪でもひいてたのかな?」
「だと思うんだけどな。でもよ……一昨日も昨日も店が閉まってんだよ」
のどかは父親との二人暮らしで、父親が“のんちゃん堂”という焼きそば屋の主人をしている。味は上々で固定客もそれなりについているらしく、その焼きそば目当てに部活帰りにちょくちょく寄り道する山崎もその一人だといえるだろう。ところが、ここ数日店が閉まっているという。
「それはちょっと……ヘンだな」
「な? 萱坂もそう思うだろ?」
のどかは“のんちゃん堂”のウェイトレスであるが、いないと店が開けないというわけでもない。事実、何度かのどかがいなくとも店を開けている。“りん”と栞は不思議に思いながら顔を見合わせた。
「ま、何も知らなきゃいいよ。ちょっと気になっただけだからな。明日にはひょっこり出てくるかもしんねぇし」
そう言って山崎は、特に深刻な表情も見せることもなく、最後には笑いながら軽い感じで去っていった。だが、栞はまだ浮かない表情で小首を傾げていた。
「りんさんって、のんちゃんのお父さんとは会ったことありますか?」
「うん、あるよ」
「のんちゃんのお父さんって、あれで結構職人気質なところがあって、よほどのことがなければ休まない人だったんですよね……。だから、やっぱり聞いてて変だと思いました」
うーん……と“りん”は唸った。考えてもモヤモヤが収まらない。こんな時の和宏の選択はいつだってシンプルだ。
「実際行ってみるか……のんちゃん堂まで」
「あ、そうですね。ひょっとしたら今日は空いてるかもしれませんし」
一も二もなく賛成した栞は
「じゃ私、急いで着替えてきます!」
と言って、体育館の方に駆け出していった。マネージャーである栞は、いつも体育館の女子更衣室を使用している。“りん”は、校門前に場所を移して栞が来るのを待った。
校門の辺りは、部活が終わって帰ろうとする生徒のほかに図書館などでの勉強を終えた生徒たちも多い時間帯だったため、意外なほどひっきりなしに校門前に佇む“りん”の前を人が通り過ぎていった。
「お待たせしました、りんさん!」
セーラー服に着替え終わった栞が“りん”の元に走ってきた。相当急いできたらしく、ハァハァと苦しそうに息を吐き出していた。
「は、早いな……着替えるの」
「いえ、ちょっと手抜きで……」
ペロッと舌を出しながら、栞はスカートの裾を少しばかりめくり上げた。さっきまではいていた膝上丈のハーフパンツがチラリと覗く。外からわからないから良いですよね……とイタズラっぽく笑った栞は
「早く行きましょう。暗くなっちゃいますよ」
と言いながら、今度は小走りで校門まで駆け出した。“りん”も負けないようにそれに続こうとしたところを、聞き慣れたアニメ声が呼び止めた。
「あれぇ! ドコ行くのっ!?」
相変らずのよく通る声に、周りの生徒たちが一瞬足を止めて奇異な視線を投げかけたが、当の東子は特に気にするでもなく、大きく手を振りながら“りん”たちに駆け寄っていく。東子のアニメ声が周りの注意を引いてしまうのは今に始まったことではない。遅れて歩いてくる沙紀は、もう慣れたわ……と言わんばかりの苦々しい微笑を浮かべていた。
「どうしたのよ二人とも。そんなに慌てて……?」
そういう沙紀の目は、すでにほんのりと好奇心に染まり、東子の方はといえば、それ以上に目を爛々と輝かせている。女子バスケ部の終了時間とかち合ったのが運のつきだったということだろう。遊びに行くわけじゃないんだけどな……と思いながら、“りん”と栞は二人に事情を説明した。
「つまり、のどかの家に様子を見に行くってことね?」
「まぁ、そういうことだな」
「じゃあ、じゃあ……お店やってたらみんなで焼きそば食べよっ?」
東子の食い意地には、三人ともホトホト呆れ顔である。しかし構うことなく あくまで呑気な東子の台詞には脱力しながら笑うしかなかった。
「ちゃんとやってたらな」
「ホント~!? やったーっ♪」
“りん”たちは、心の中で苦笑いしつつ、のどかの家に向かった。
◇◆◇
“りん”たち一行が“のんちゃん堂”に辿り着く頃には、夕日は落ち、鮮やかなオレンジ色だった空は次第に薄暗くなろうとしていた。いつもならこの時間帯は客も多く、店の入口にもどことなく活気が溢れていることを四人は知っている。だが、今日に限っては、その活気が全く感じられなかった。
「やっぱり……暖簾が出てないですね……」
“のんちゃん堂”が開店している時は、必ず暖簾が掲げられている。かなり年季の入った立派な暖簾だ。それが店の内側に仕舞われたままということは、店が閉まっているという何よりの証拠である。薄暗くなってきているのに電気のついていない店内。いつもならば辺りに充満している香ばしい焼きそばソースの匂いも今日はない。両隣は田んぼで、近くに建物がないことも相まって、どこか物寂しい光景に感じられた。
「何か随分と静かね……誰もいないのかしら?」
そう言いながら、沙紀は“のんちゃん堂”の建物を見上げた。一階は店だが、二階は居住ブロックである。だが、一階と同じように二階の電気も消えたままだった。
「これで三日連続で休業中ってことか……」
一昨日と昨日は、山崎が“のんちゃん堂”の休業を確認している。おまけに人の気配が感じられないとあれば、誰でも首を傾げたくなるだろう。“りん”は、思い立ったように玄関の鍵が閉まっているかどうかを確かめようと歩き出した……ちょうどその時だった。
「あっ! 二階の明かりが点きました!」
“りん”たちが、弾かれたように栞が指差した二階の窓を見る。そこには確かに先ほどまではなかった明かりがもれていた。だが、すぐに明かりが消え、代わりに隣の窓から別の明かりがもれ始める。その妙な動きを目で追いながら、沙紀がポソリと呟いた。
「ひょっとして……玄関から出てくるのかしら……?」
その言葉を証明するように、玄関灯に明かりが灯った。四人は、急いで玄関とは反対方向の壁の向こうに身を潜めた。
「な、なんで隠れるんだよ?」
「シッ! 黙って!」
東子が、玄関を注視したまま人差し指を口に当てる。隠れる理由など何もないのに思わず釣られて隠れてしまった和宏は、やれやれ……とため息をついた。
程なく玄関のドアがガチャリと開いた。出てきたのは、父の大吾ではなくのどかだった。ネイビーのキュロットにクリーム色のシャツ型チュニックを着込んだ、比較的普段着に近い服装だ。ドアの戸締りをしたのどかは、電気の消し忘れがないかどうかを確認するように二回を見上げた後、静かに歩き出した。
「い、行っちゃいますよ……?」
オロオロする栞に向かって、沙紀は小声で……しかし力強く一喝した。
「バカね! 行くわよ!」
「そうそうっ! アタシたちについてきてっ♪」
沙紀と東子は、異様に頼りがいのある台詞とは裏腹に、コソコソと身を屈めながらのどかの後をつけていく。栞は、目を丸くしながら助けを求めるように“りん”の顔を見た。
「ど、どうしましょう……りんさん……」
どうするもこうするも……と、“りん”は諦め顔で首を横に何度か振った。
「全くアイツらときたら……」
「そ、そうですよね。悪趣味ですよね……尾行なんて」
しかし、“りん”から返ってきたのは、栞の予想を超えた台詞だった。
「ちょっとだけだぞ♪」
(えぇーっ!?)
仕方なしに……しかし、心持ち軽やかにステップを踏んで、“りん”は沙紀たちの後を追っていった。そんな“りん”の背中を呆然と見送った栞は、急に我に返り、一人だけ取り残されてることに気付いた。
「まま、待ってくださーい……!」
そう控えめに呼びかけながら、栞は“りん”たちを追いかけて駆け出した。
――To Be Continued




