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いつか、どこかで

 試合用の真っ白なユニフォームで身を固めた和宏は、部屋のカーテンを全開にした。早朝の太陽の光が、和宏の部屋の窓枠から差し込んでくる。朝とはいえ真夏の太陽の日差しは強く、前日の天気予報で言っていたとおり、今日はこの夏一番の真夏日になることが容易に予想できた。

 和宏は、チームカラーであるブルーの帽子をかぶり直し、愛用のグラブが入った大きなスポーツバッグを肩に掛けながら、野球関連のものばかり目立つ殺風景な自分の部屋の中を見渡した。そして最後に、尻ポケットの中に手を入れて、ザラザラした“布袋”の感触を確かめた。


(ヨシ。忘れ物はなしだ……)


 気合の入った顔で、そう呟きながら部屋のドアを閉める。階段を下りて、居間に顔を出すと、父親が背筋をピンと伸ばして新聞を読んでいた。和宏は


「じゃ、行ってくる」


という挨拶とともに、そのまま出かけようとしたが、いつもなら厳めしい顔つきで頷くだけのはずの父親が、今日に限ってはボソっと言い返した。


「ちゃんと母さんに手を合わせたか?」


 愛用の座椅子に胡坐をかいたまま、新聞から目を離すことすらなかったが、何を言わんとしているのかは和宏にもしっかりと伝わっていた。


「うん、さっき手を合わせたよ」

「……」


 無言で……しかし、満足げに頷いた父親を確認した和宏は、そのまま玄関のドアを開けて外に出た。途端に、早朝にもかかわらずアブラゼミの大合唱が耳に飛び込んでくる。あまりの五月蝿さに肩をすくめたが、もちろん、それでセミたちの声が止むはずはない。和宏は、構うことなく学校に向けて走り出した。

 今日は、夏の甲子園県大会の一回戦。そして、一年前に死んだ和宏の母親の命日だった。


◇◆◇


 総勢二十名ほどが乗ることができるマイクロバスが、あと一時間もすれば大勢の登校生徒たちによりごった返すであろう狭い校庭の一角ですでに待機していた。見慣れないバスを、登校してきた生徒たちが物珍しそうに一瞥しては通り過ぎていく。とはいえ、今はまだ時間が早いため、その姿は比較的まばらだった。

 和宏は、途中で合流したチームメイトたちと一緒にマイクロバスに乗り込んだ。程なくもう一名が駆け込むと、監督の徳永とくながはマイクロバスの運転手に出発を促した。野球部員が全員乗車したことが確認できたからだ。

 決戦の地に赴く戦士たちを乗せたバスは静かに走り始めた。和宏の通う城南高校付近の細かい路地を抜け、広い国道に出た後は、当分の間は道なりだ。一番前の座席に座っていた監督の徳永が、順調に走り出したバスの車内を確認しつつ、おもむろにマイクを掴んだ。


「あー……、後ろまで聞こえるか?」


 低く厳格そうな声が座席後部のスピーカーからハッキリと響く。アンダースロー転向を和宏に薦め、つきっきりで指導してくれた徳永に、和宏は頭が上がらない。一番後ろの端っこに座っていた和宏は


「はい、聞こえてます」


と緊張感を持って答えた。満足げに頷いた徳永は、全員に対して目配りしながらさらに続けた。


「まず、今日のオーダーを発表しておく。一番ショート高田たかだ、二番……」


 おそらく、チームの構成要素が全て頭の中に入っているのであろう。何かの紙切れを読み上げるでもないのに、流暢に選手の名前が口から飛び出してくる。そして、和宏の名前が読み上げられたのは一番最後だった。


「九番ピッチャー……瀬乃江和宏。以上だ」


 和宏エースの名前に、全員が納得したとばかりに頷いた。突然の交通事故でエースを失いかけたチームは失意の底に沈んだが、幸いにも和宏は復活した。しかも新球種を引っさげて、だ。復帰して以来、和宏が使い始めたシュートとスライダーは、“りん”の柔らかい手首を活かしたそれとは比べ物にならないほどのキレしか持たなかったが、監督の徳永も含めたチーム全員を驚かせるには十分だった。

 和宏たち三年生にとって、この大会が甲子園へのラストチャンスである。和宏は、試合前の興奮に沸き立つチームメイトたちを尻目に、感慨深そうに目を瞑った。

 球種の他に、和宏が周りから「変わった」と言われていることがもう一つあった。“精神的な落ち着き”である。これを徳永は「まるで一年ほどどこかで修行してきたようだ」と評した。

 何の因果か、女性りんとして過ごした一年間。そこで得た経験はあまりに大きく、そして濃密だった。幾人もの友と出会い、滝南という甲子園の強豪とも戦った。それらは、全て今の和宏の血肉になって生きている。決して忘れることのない“大切な思い出”として。ただし、たまに無意識のまま女子トイレに入りそうになってしまう副作用もあったが、それはまた別の話だ。


(アイツらも……今頃、県大会の最中なんだよな……)


 山崎や大村のいる鳳鳴高校もまた、甲子園目指して予選を戦っている。和宏には新聞で結果を確認するくらいしか出来なかったが、その限りではまだ勝ち残っているようだった。

 もし、お互いに甲子園に出ることが出来たなら、ぜひとも対戦したいものだ……と、和宏は思った。そうすれば、観客席アルプスに沙紀や東子たちの姿を見ることが出来るだろうか。そして、山崎や大村と本当に掛け値なしの真剣勝負が出来るだろうか、と。そこまで考えて、和宏は頭を振って自らを諌めた。鳳鳴高校には頑張ってほしいが、肝心の自分の予選はこれから始まるのだ。仮定の話などしている場合ではない。


(全力を出し尽くそうぜ。お互い後悔だけはしないように、さ)


 それが、今の和宏に出来る精一杯のエールだった。

 順調に走り続けたバスは、ほぼ予定時刻どおりに会場の県営球場に到着した。第一試合から登場する和宏たちは、監督である徳永の指示により入念な準備運動をこなしてからベンチに入った。ほぼ同時に相手チームもベンチ入りし、十時からの試合開始に向けた準備は着々と整いつつあった。

 和宏たちのシートノックが終わる頃、城南高校が入った一塁側ベンチの観客席に、城南高校の制服を着た生徒たちがゾロゾロと入り始めた。その手にはトランペットやクラリネット……さまざまな楽器が握られており、中には和宏の見知ったクラスメイトの顔もチラホラ見える。いうまでもなく吹奏楽ブラスバンド部の応援部隊だった。


「おお!? 一回戦からブラバン入んの?」

「こんなの初めてじゃねぇ?」


 ベンチに引き上げるチームメイトたちから驚きの声が上がった。通常ならば、準決勝や決勝などの大舞台にしか吹奏楽部は投入されないからだ。


「これも今年のお前たちが期待されてる証拠だ。肝に銘じておけ」


 監督の徳永が、和宏たちに言い聞かせるように諭した。実際、エースの和宏の成長を得た今年のチームは、新聞などでは県大会の優勝候補に挙げられることすらあった。もちろん、県大会の優勝=甲子園出場である。

 試合開始時間が近づき、後攻になった和宏たちがグラウンドの守備位置に散っていった。鮮やかな外野のグリーンと、よく整えられた内野のブラウンが見事に調和し、試合用の真っ白いユニフォームが生き生きと映えている。

 和宏は、不動の持ち場であるマウンドに上がり、二度三度と深呼吸をした。やはり、マウンドで吸う空気は格別だった。和宏のバックを守るナインの動きは、特に固さも感じられず、踊るように軽やかだった。和宏は、この分ならこの試合で苦戦することはないだろう……と思った。今日はまだ一回戦。油断は禁物だが、目標はもっともっと先なのだ。

 既定の投球練習を終えた和宏は、バックスクリーンを見上げた。内野や外野で回されているボールも、間もなくグラウンドの外に出され、後は審判が試合開始をコールするのを待つだけとなる。和宏は、この時間帯が一番好きだった。試合に挑む高揚感が最も凝縮される時間。そして、絶対に勝つという気持ちが最も強く現れる時間である。

 吹奏楽部が、試合開始前の高揚感を形にするように校歌を奏で始めていた。城南高校の生徒なら誰でも知っているメロディラインがバックスクリーンを見上げる和宏の耳に絶え間なく届く。その音に混じるように……和宏はある声を聞いた。

 

 和宏――。




 その声は、どこからともなく……しかし、ハッキリと聞こえたような気がした。ひどく懐かしい声。聞き間違えるはずがない……のどかの声。

 まるで心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃を感じ、和宏は慌てて周囲を見渡した。一塁側と三塁側のベンチの中。観客席。バックネット裏や外野席にポツリポツリと見かける観客を一人ずつ睨みつけるように確認していく。だが、何度目を皿のようにして確認しようとも、のどからしき姿を見つけることは出来なかった。


(確かに聞こえたと思ったんだけどな……)


 和宏は軽く首を捻りながら、帽子を深くかぶり直した。右手で真新しいロージンを拾って、ギュッと握り締めてはマウンドに叩きつける。和宏は、風に吹かれて霧散していく白い粉を見届けながら、吹っ切れたような笑みを浮かべた。


(まぁいいや)


 和宏は、尻ポケットの中にある“布袋”の感触を確かめた。


(きっとまた出会えるさ……)


 いつか、どこかで――。




 そう思いながら、和宏はあの“桜の花びら”が入った布袋をギュッと握り締めた。これに触れているだけで、そんな確信が沸々と湧いてくる。それは、ひょっとすると和宏の楽観主義のせいかもしれないし、そうではないかもしれない。だが、和宏にとっては理由などどうでもよいことだった。なぜならば、最も大切なのは、この想いを持ち続けることだと気付いていたからだ。

 マウンド上の和宏を包み込むように、乾いた風が通り抜けていく。すでに吹奏楽の演奏も一段落し、球場は試合開始を待つばかりになっていた。

 深い深い青を湛えた空。その空に浮かぶ大きな入道雲が、まるで夏の王様気取りだ。そして、そんな入道雲を押しのけるように、本当の夏の王様……真夏の太陽が顔を出した。突然差し込んだ強烈な日差しに、和宏は思わず目を細めながら呟いた。


「今日も暑くなりそうだな……」


 球場のバックスクリーンの時計が十時ちょうどを差し、主審から重々しくプレイボールがアナウンスされる。スタジアム全体を包み込むように鳴り響いたサイレンが、高らかに試合開始を告げ、和宏の……一年越しの、最後の夏が始まった。

 最後まで読んでくださった皆様、お疲れ様でした。


 物語の完結に伴い、ポイント評価の受付を可能にしましたので、物語全体を評価していただけると嬉しく思います。(感想も大歓迎です!)


 少し充電期間を置いて、「俺、りん(特別編)」のラストエピソードを投稿します。それで、「俺、りん」シリーズは本当に完結です。

 充電期間は一ヶ月も取らないと思います。それまで、しばしお待ちを……。


          BY じぇにゅいん




 ↓こちらにて、後書きを投稿させていただいています。ただの作者の自作語りですが、見てもいいよ~という方はついでにご覧ください。


http://book1.adouzi.eu.org/n3320bv/

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