Bye-Bye Time (7)
「もう時間がないんだな……」
和宏は、表情を曇らせながら、そう呟いた。この世界で、身体が透き通り始めることの意味を和宏は知っている。時間が経てば、沙紀や大村たちがそうであったように、最後には消え去ってしまうだろう。和宏は、焦燥感とともに強く唇を噛んだ。だが、のどかから返ってきたのは意外な一言だった。
「和宏も、ね」
え……? と、口を半開きにしたままのどかを見返すと、その目は興味深いものでも見ているかのように輝いていた。視線の先にあるのは、明らかに和宏自身。和宏は、慌てて自分の両手や身体を見た。“りん”とは比べ物にならないほど大きくゴツゴツした手、太い腕。身を包んでいるのは、セーラー服ではなく普通の学ランに変わっている。まさに“瀬乃江和宏”の身体だった。
「な、なんで?」
和宏の、少し太めの声が辺りに響く。もちろん、その声は“瀬乃江和宏”のものだ。いずれ夢は覚め、和宏は“瀬乃江和宏”に戻ることになる。その時が近づいているのだろう……和宏は、そう理解した。
「もうすぐ夢が覚める……ってことか……?」
だが、和宏が辿り着いた結論に、のどかは異を唱えた。
「和宏は、まだここが夢だと思っているのかい?」
「え?」
和宏の顔が、鳩が豆鉄砲を喰らったような表情に変わる。
「確かに夢かもしれない。でも、わたしは夢じゃないと思う」
「で、でも、夢じゃなかったら……一体なんなんだ?」
「お別れの時間……かな?」
「お別れの……時間?」
「神様が用意してくれたお別れの時間。出来ることなら……わたしはそう思いたい」
彩も山崎も栞も大村も……沙紀や東子だって、和宏に別れを告げて消えていった。これらは全てお別れの時間だったのだと思うことも確かに可能だ。もちろん、のどかのいうことが本当なのかもわからない。しかし、もしそうならば……神様も粋な計らいをしてくれるものだ……と、和宏は思った。
初夏の太陽は、相変らず辺りに贅沢な陽光を撒き散らしている。それは、先ほどまでと変わらない暖かく優しい日差しであるにもかかわらず、どこか空々しくも感じられた。音もなく、少しずつ透明度を増していくのどかの身体。そののどかが、和宏をジッと見つめたまま、ニコリと笑った。
「よかった……思っていたとおりの男性で……」
和宏は、思わず顔が火照るのを感じた。おそらく、今は顔が真っ赤になっているに違いない……と、和宏は思った。
「すごく……優しそう……」
「ど、どうだろうな……そんなこと言われたことないし……」
「大丈夫だよ。和宏のことなら……わたしがよくわかってるから……」
「……っ」
気恥ずかしさに、和宏の視線が不審に揺れる。照れを隠すためにポニーテールを弄くろうとした和宏は、坊主頭であることに気付き、誤魔化すように、そのまま後ろ頭をポリポリと掻いた。そんな和宏を見て、のどかがクスクスと笑う。すでにその身体は、今にも消え去りそうなほど透明度を増していた。
「和宏、最後に一つだけ……聞きたいことがあるんだ」
のどかの大きな瞳が、和宏を真っ直ぐに見つめる。もう時間がないことはわかっていた。和宏は、のどかを見つめ返しながら言葉を待った。
「もし、わたしが生まれ変われたら、もう一度……和宏に出会えると思うかい?」
「――っ」
あまりに突拍子のないのどかの話に、和宏は目を大きく見開いて固まるしかなかった。途方もない話だ。そして、たとえ生まれ変われたとしても、この広い世界で、あるいは和宏の世界で再び巡り会うことなど出来るだろうか。それは、限りなくゼロに近い可能性かもしれない。そこまで考えた瞬間、和宏の頭の中には、すでに結論が導き出されていた。
「大丈夫。出会えるさ、きっと」
和宏の回答は明快だった。可能性など考えても無意味なのだ、と。なぜならば、可能性はいつだってゼロではないのだから。二人が望むのなら、たとえどこにいたとしても再びめぐり会えるはず……和宏の楽天的な思考は、瞬時にそういう結論に辿り着いたのだ。
「あはは。まさか即答とは思わなかったよ」
難しいことを考えるのは苦手だから単純明快。しかし、その答えが正解なんだと思わせる不思議な力が和宏にはあることを、のどかはよく知っていた。
「でも……和宏ならそう言ってくれそうな気がしてたんだ……」
そう言って、嬉しそうに笑うのどかの身体の向こう側で、桜の花びらがヒラヒラと揺れる様が透けて見える。少しずつ、少しずつ……透明になっていくのどかの身体。和宏の視線は、もうのどかから離れることはなかった。
大きなクリクリとした瞳が、優しい眼差しで和宏を見つめる。毛先の揃わぬミディアムヘアは、普段と変わることなく、クルクルと跳ねたまま。中学生かっ!? ……と突っ込みたくなるような童顔だって、いつもと同じ。それなのに、目の前ののどかが妙に大人びて感じるのは、きっと気のせいではないだろう……と、和宏は思った。
一陣の風がフワリと舞い、再びざわめき始めた草木たち。その音に紛れながらも、最後ののどかの声が、ハッキリと和宏の耳に届いた。
「またね」
その台詞をのどかの小さな唇が紡ぐと同時に、舞い上げられた桜の花びらが和宏とのどかの間を風とともに通り過ぎていく。そして、その風が通り過ぎた時……和宏の目の前にいたはずののどかは、もういなくなっていた。
まるで、風がのどかをさらっていったように――。
風が止むと同時に、草木たちのざわめきは消えた。その後、辺りを包んだのは、耳が痛いほどの静寂だった。
半ば放心状態のまま、和宏は所在無げに辺りを見渡す。いつものどかと一緒だった裏山の斜面の中腹辺り……茂みに囲まれたデッドスペース。眼下には、体育館のシルバーの屋根とグラウンドが見渡せる。何も変わりはしない……ただ、いつだって隣にいたはずののどかだけがいない。
一人佇む和宏の周りを、先ほど吹いた風が戻ってきたかのように通り抜けていった。再びサワサワと騒ぎ始めた草木の音につられ、何気なしに上を見上げた和宏は、声にならない驚きの声を上げていた。
主との別れを惜しむかのように一斉に散りゆく満開の桜。散った花びらは風に吹かれ、和宏の体躯を包み込むように舞い踊る。次から次へと流れていく幻想的な桜吹雪の中に、和宏は呆然としながら立ちつくした。
風の中に揺れる桜の花びらを、無言で見つめる和宏の視界が急にぼやけた。次第に遠ざかっていく意識。金縛りのように身動きが出来なくなり、全身の感覚が、少しずつ鈍く……そして遠のいていく。和宏は、もうすぐ目が覚めるんだな……と思った。その時、和宏の右手を、一回り小さい誰かの手がギュッと握った。
右の掌に感じる確かな温もり。だが、誰の手だ……? などという疑問は、寸分も湧かなかった。たとえ姿を見ることは出来なくとも、それがのどかの手だということが確信できたからだ。
やがて、夢と現実の狭間をくぐり抜けるように、最後に残った和宏の意識は“ここではないどこか”へと飛んでいった。
◇◆◇
和宏は、ゆっくりと目を開いた。真っ先に目に入ってきたのは、白い天井と緩やかに回転するシーリングファン。そのファンの回転を、ほぼ無意識に目で追う。長い夢から覚め、頭の中に気だるさが残っているものの、それは却って心地よく、目覚めは決して悪くなかった。
和宏の他は誰もいない病室の中を見渡し、隣の空きベッドからクリーム色のカーテンが閉められた窓に視線を移す。その隙間からは、わずかに白んだ東の空と夜明け前の街並みを窺うことができた。
まだ、起きるには少々早い時間だったが、今さら和宏には二度寝する意思は湧いてこなかった。ベッドの上にゆっくりと身を起こし、まだハッキリと頭の中に残った、まるで夢のような出来事の余韻に浸る。自然と、和宏の表情には無意識の笑みが広がっていた。
すっかり目を覚ました和宏は、カーテンを開けるためにベッドを降りようとした。その時、右手だけが自分の意思とは無関係に固く握られていることに気付いた。寝ぼけてたのかな……そう呟きながら、和宏が恐る恐る右手を開いてみると、手の平には一片の花びらがのっていた。
(桜の……花びら……?)
なぜこんなものが……? と首を傾げながら、和宏はベッドを降りて窓際に近づいていった。この病室の窓の外には、桜の木があったことに思い至ったからだ。
カーテンを開けると、窓の外は、夜明け前の薄明により外の景色がうっすらと見渡せるほど明るかった。和宏は、窓のすぐ外にあるはずの病院の一本桜をガラス越しに凝視した。
目に入ってきたのは、五月の中旬という暦が示すとおり、緑色の味気ない葉桜だけ。桜の花びらなど、一片も残っていなかった。
和宏は、もう一度右手を開いてみた。そこにあるのは、間違いなく桜の花びら……しかも、つい今しがた散ったばかりのような瑞々しさで。ありえない……だが、その意味を考える必要はなかった。誰の仕業なのか、もう和宏にはわかっていたからだ。
(こんなもの持たせやがって……)
“りん”として過ごした一年間。そして、最後の“別れの時間”も、そのいずれもが決して夢ではなかったことを和宏は確信した。
理屈では説明のつかない、とても不思議な体験。その全てが、色鮮やかな思い出と変わっていく。ゆっくりと目を閉じれば、一年間の濃密な時間がアルバムをめくるように脳裏に溢れてくる。もちろん、のどかの最後の笑顔も。
(『またね』――か)
窓の外から差し込んだ夜明けの光が和宏の顔を照らし出し、全てが吹っ切れた澄んだ瞳がビルの谷間から顔を出し始めた太陽を眩しげに見つめる。
朝日は、まだ静かな街並みに新たな一日の始まりを告げていた。




