Bye-Bye Time (6)
白い雲が浮かぶ空は、濃く澄んだ青色。時折吹く風が運んでくるのは、かすかに鼻腔をくすぐるような新緑の匂い。季節は初夏だ。
爽やかな青い空の中央に位置する太陽から、夏を控えて、まだ遠慮がちな日差しが地表に降り注いでいる。周りを囲む茂みも、草花たちも、眼下に見える体育館の屋根だって、いつも見慣れた学校の風景と同じ。現実の世界と何一つ変わりがない風景なのに、季節はずれの満開の桜と人の気配が皆無の校舎という事実が、夢の中のような非現実感を強調していた。
彩から始まった、不思議な出会いと別れの繰り返しは、現実の世界ではありえないことの連続でもあった。今、自分のいる世界は現実の世界ではない……という和宏の思いは、今となってはもう確信となっていた。そして、ここが終着点であろう……ということも。
「“瀬乃江和宏”に戻れたんだね……」
そう言って、安堵したように目を細めたのどかに、和宏は小さく頷いた。
のどかの過去が発端となって閉ざされてしまったの甲子園への道。それを最も気に病んでいたのは、和宏の甲子園に賭ける思いの強さを知るのどかに違いなかった。それだけに“瀬乃江和宏”に戻ることが出来て嬉しく思う気持ちは、和宏自身のそれと同等……いや、それ以上だったかもしれない。しかし、いくら和宏の帰還を喜ぼうとも、心の奥底に拭いがたい辛い過去を抱えているのどかの前では色褪せる。そんな、今にも壊れてしまいそうな笑顔が和宏の胸を締め付ける。
和宏は“瀬乃江和宏”に戻り、これからは本来の世界で生きていく。そして、どこにでもいる普通の高校球児として甲子園を目指すだろう。全ては和宏が“りん”になる前の状態に……元どおりになるのだ。それは、和宏にとって最高のハッピーエンドと言えるかもしれない。だが、のどかは違う。
形を変えながら動く雲に太陽が隠れ、辺りを照らす太陽の光が不意に弱まった。風がそよそよとのどかの跳ねた髪の毛を労わるように撫でていく。和宏とのどかとの間にあるのは、わずか一メートルほどの空間。そんな物理的な距離とは裏腹に心の距離が遠く感じるのは何故だろう……そう思いながら、和宏は小さく首を振った。わかりきったことだ。“悠人”と“のどか”……その狭間で、のどかは揺れ動いているのだから。自分が何者なのかもわからずに。
「なぁ、のどか……?」
「なんだい?」
“りん”の顔を、一回り以上も背の低いのどかが覗き込む。大きくクリクリとした瞳。フワリとした風が揺らしていく繊細なクセっ毛。ギュッと抱き締めたら、壊れてしまいそうな小さな身体。すぐ目の前に佇むのどかに、締め付けられるような胸の高鳴りが蘇ってくる。それは、のどかに対して今までに何度となく感じた感情そのものだ。
俺は、一体のどかのことをどう思っているのだろう――?
のどかがいなくなった夜……和宏は、悶々として眠れぬまま、そんなことをずっと考え込んだ。そして、行き着いたのは“ある一つの結論”。和宏は思った。今、自分がここにいるのは、それを伝えるためだ……と。
「俺たちが初めて会った頃のこと……覚えてるか?」
唐突な話に、のどかは一瞬キョトンとした顔になった。そんなのどかに構うことなく、和宏は話を続けた。
「俺は……よく覚えてるよ」
「……」
「初めて二人で一緒に遊んだ日……バスを待ちながら、一緒に話をした」
きっとのどかにも覚えがあるのだろう。小さく頷きながら、のどかは和宏の話の先を促した。
「その時、のどかが俺に笑いかけてくれたんだ」
「……そ、そうだった……かな?」
のどかの頬が、りんごのように赤く染まっていく。恥ずかしそうにしているのどかに、和宏は声を出して笑った。
「正直言うと……胸がドキドキしたんだ。まるで好きな女の子と話している時のように」
「……」
「その時だけじゃない。何度も……何度もそんなことがあったし、どうしてそんな風に思ってしまうのか不思議だった」
時として、のどかに対して湧き上がる感情は“愛おしい”という感情によく似ている。昨日、ここでのどかを抱き締めてしまった時と同じ感情だ。のどかは、驚きを表情に浮かべながら、その大きな瞳をパチクリさせている。和宏は、改めてのどかに愛おしさを感じた。
「どうしてなのか……考えたよ。ガラにもなくずっと。そして……ようやくわかった」
「……」
「これだけは自信を持って言える。やっぱりのどかは“のどか”以外の何者でもないんだよ……少なくとも俺にとっては」
「初めて出会った日からずっと……」
そして、今も――。
わたしの本当の名前は“久保悠人”……のどかは確かにそう言った。だが、和宏はついにのどかのことを“悠人”だと実感することは出来なかった。だから、のどかが和宏のことを“和宏”と呼ぶように、のどかのことを“悠人”と呼ぶことが出来なかったのだ。
きっと、のどかは“のどか”……和宏なりに行き着いた結論は、和宏にとって唯一の納得のいく答えだった。雲に隠れていた太陽がまた顔を出し、まるで和宏の心境を代替表現するかのように、曇りのない初夏の陽光が辺りを照らす。のどかは、“りん”の真面目な顔を見ながら、突然クスクスと笑い始めた。
「あはは。なんか……すごく和宏らしいよ」
「……え?」
「すごくシンプルでさ……。難しく考えてたわたしがバカみたいだ……」
そう言って、お腹を抱えてのどかが笑った。今度は、和宏ががキョトンとする番だった。
桜の花びらがヒラリヒラリと舞い降りる中で、のどかの笑い声が静かに響く。ようやく笑いが収まる頃、のどかの瞳には涙が溜まっていた。その涙の理由が、笑いすぎたからなのか、それとも別の理由からなのか……もちろん、和宏にはわからない。だが、のどかは右手で涙を拭いながら続けた。
「でも……きっとそれが正解だよ……」
意味が分からずに、“りん”の表情が怪訝なものへと変わる。そんな“りん”の顔芸を見て、のどかは微笑ましそうに目を細めた。
「多分、最初からわかっていたんだと思う……」
「……?」
「ただ、現実を認めるのが怖かっただけ……」
そう呟くのどかの声は、消え入りそうなほど小さな声だった。
五年前。兄・悠人の死と漆原の事件。それらは、当時まだ十二歳だったのどかの心にどれだけの重い現実を背負わせてしまったのだろう。今となっては、和宏には想像することしかできなかったが、目の前で思い出すのも苦々しそうに俯くのどかを見れば、それは決して難しいことではなかった。
「なかったことになんて出来ないことはわかっていた。だから……」
せめて『自分は“悠人”で、ある日突然“のどか”の中にいた』ことにした。なぜなら、そうしないとのどかの精神が耐えられなかったから。
どうしようもない現実。受け入れたら自分が壊れてしまいそうな。それを認めないために、“悠人”は別の世界で生きていることにした、自分は“のどか”ではないことにした……そう、自らに言い聞かせた。自分の精神を護るために。
「そうしているうちに、自分が“のどか”なのか“悠人”なのかすらわからなくなった。本当は、今だってわからない。だけど……現実から逃げるためなら、それでも構わなかった。ううん……、むしろ好都合だったかもしれない」
和宏は、独白するのどかの顔をただ見つめていた。自分がのどかだと認めることは、現実を全て受け入れること。それから逃げたのどかを、一体誰が責めることが出来るだろう。今、和宏が出来ることは、のどかの過去を全て受け止めることだけだった。
「でも……今はそれが却って辛くなってしまった」
のどかは、自嘲するように笑いながら“りん”の顔を見た。その理由がわからずに、和宏はのどかの次の言葉を待った。
「和宏はすごいよ」
「へ……?」
素っ頓狂な声を出した和宏を見て、のどかがクスリと笑う。
「最初は本当に驚いたよ。ある日突然他人の身体の中にいたなんて……そんな人に出会うなんて思ってもいなかったから……」
「だ、だろうな……」
「ひょっとしたら、この人も自分が本当は誰なのかわからなくなってしまうんじゃないかって思ってた。わたしみたいに」
初めて出会った時……のどかは“りん”の中にいる和宏を探し当てた。自分の中に“悠人”がいる……そう信じていたのどかだからこそ、それは簡単なことだった。そして、それ以来、のどかは和宏を何かと気にかけてきたのである。
「でも、違った」
「……」
「“りん”として生きていても、和宏は和宏のまま変わらなかった。それどころか、女の子なのに野球をする道を目指して、最後には実現しちゃうんだから……」
そう言って、のどかは感嘆のため息をついた。
「そんな強くて真っ直ぐな和宏を見てると、本当の自分が誰なのかすらわからなくなっている自分が情けなくて……、今さらだけど、このままじゃいけないって思うようになったんだ」
和宏に影響され、のどかは変わり始めた。次第に“悠人”の記憶がなくなっていったのもその影響かもしれない。それでも、のどかが一人で自分を取り戻すことは不可能だった。現実を認めたくない葛藤がある故に。
結局のところ、誰かに背中を押してもらう必要があったのだ。そして、のどかは無意識に気付いていた。それが出来るのは、この世にたった一人しかいないということに。
「だから、今は本当に嬉しいんだ」
和宏がわたしのことを“のどか”だって言い切ってくれたのが……本当に――。
その大きな瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。和宏の言葉だからこそ信じることが出来る……そんな意味合いも込められているのだろう。和宏もまた、今までのどかに感じていた胸の高鳴りが決して間違いではなかったことに安堵を感じた。
のどかの毛先の揃わぬ外はねした髪が、フワリと吹き渡る風にゆらゆらと揺れる。二人の視線がふと合って、のどかは嬉しそうに目を細めた。
「和宏は……まるでヒーローだね」
「え?」
「わたしの過去の呪縛を断ち切りに来てくれた勇敢なヒーロー」
「イ、イヤイヤイヤ! あの時はみんなも一緒だったし……そんな大層なモンじゃ……」
大げさに首を横に振る“りん”を、のどかはクスクスと笑った。
「でも、和宏は知らないだろう……?」
「何……を?」
「漆原から助けてくれた時のわたしの気持ちなんて」
もう死ぬまで逃れられないと思っていた悪夢のようなくびき。何をされようとも和宏に助けを求める権利すらない……少なくとものどかはそう思っていた。和宏から差し伸べられた助けの手を振り払ってしまった時から、そう思うしかなかったのだ。だが、和宏は自分の身の危険を省みることなく助けに来てくれた。その姿は、のどかにとって“どんなヒーローよりもヒーロー”だった。
「あの時は……他に誰もいなかったら、きっと抱きついていたと思う」
「え……? あ、……は?」
思いがけないのどかの台詞に、“りん”の顔がみるみるうちに赤く染まる。それくらい嬉しかったのさ……とはにかみながら、のどかはまた笑った。
「そして……わたしは、和宏から勇気をもらったんだ」
「……勇気?」
「逃げない勇気、前を向く勇気、立ち向かう勇気」
「……」
「だから……、もう逃げるのも立ち止まっているのもイヤなんだ。わたしも逃げずに前を向いて歩いていきたいんだよ。和宏のように……ううん、和宏と一緒に……最後まで」
たとえ、今立っている場所が残り少ない人生の上だとしても――のどかは、そんな思いを呑み込みつつ、柔らかそうな唇を固く結んだ。決意を固めたのどかの身体を、穏やかな風が桜の花びらとともに包み込む。まるで、祝福とエールを贈るように。
現実から目を背ける代償として のどかは“自分が自分である証”を手放した。誰もが持つアイデンティティを捨て、歩みを止めた五年間。それが、和宏との出会いを経て動き出そうとしている。のどかにとって、残された時間などもう関係なかった。今、この瞬間から再び歩みを始めることにこそ意味があるのだから。
のどかは、左手をかざしながら、木洩れ日あふれる桜の木を眩しそうに見上げた。
「あれから、もう五年も経ったのか……」
その瞳が、和宏をも過去に連れて行くように遠くを見つめる。
「あの時は思いもしなかった……」
こんなに晴れた気持ちになれる日が、もう一度来るなんて――。
そう嬉しそうに呟いたのどかの笑顔からは、もう陰りがなくなっていた。いつもの無邪気な笑顔をのどかが取り戻してくれたことが、和宏にとって一番嬉しかった。だから、和宏も一緒になって笑顔を浮かべた。
降り注ぐ柔らかい日差しと、その日差しを浴びた草木たちの新緑の力強さが眩しい。時折、囁くように通り過ぎていくそよ風は“りん”のポニーテールを優しく揺らしていく。和宏とのどかの間にあった重苦しい空気は、いつの間にかなくなっていた。しかし、それはほんの一瞬に過ぎなかった。爽やかだったそよ風が凪いだ時、和宏はそれに気付いた。
透き通り始めたのどかの身体に――。
――To Be Continued




