Bye-Bye Time (5)
視界が、抗う間もなくモザイクがかかったようにぼやける。さっきと同じ、不条理な場面転換だ。もう和宏も驚くことはなく、次はどこだ……? と考えるだけの心の余裕すらあった。
今度は、グラウンドではなく校内だった。教室棟の一階……“りん”たち三年生の教室が並ぶ廊下。もちろん、和宏以外の人影はなく、一番手前のA組から最も奥にあるF組まで、同じ造りの教室が六つ並ぶ無人の廊下はシンと静まり返っていた。
(これは『教室に入れ』ってことか……?)
和宏は、一番手前の三年A組の教室の入口に視線を向けながら、ポソリとひとり言を呟いた。なんとなく中には誰かがいるような気がしたからだ。その予感を証明するように、入口の引き戸がガラリと開き、中から二人の女生徒が現れた。女子としてはかなり背の高い部類に入る沙紀と、逆に平均より小さめの東子。和宏にとってはお馴染みの二人である。
廊下に出てきた二人は、チラリと“りん”の方を見たにもかかわらず、特にしゃべりかけるでもなく無言のまま廊下の窓を背に並んで寄りかかった。いつも“りん”を見つければ気軽に話しかけてくる二人にしては珍しいことだった。
抜けるように明るい青空が広がる窓の外から光が差し込み、二人の姿が逆光に映える。いつもと違う物静かな雰囲気に和宏は戸惑ったが、壁に寄りかかった二人の間に、当たり前のように一人分のスペースが空いていることに気付いた。軽く肩をすくめつつ、そこにスッポリと収まる。右に沙紀、左に東子、そして真ん中は“りん”。初めて会った時から、ずっとこの立ち位置だ。あるべき場所に収まったかのような安心感に、不思議と落ち着くもんだな……と、和宏は改めて思った。
沙紀も東子は一言もしゃべることなく、三人以外に人のいない廊下は静まり返ったまま。窓の外では、青空に浮かんだ小さな雲が音もなく風に流されていく。三人一緒の時間もまた、その雲のようにゆっくりと静かに流れていった。
「なんか……改めてりんと話すことってないわよねぇ……」
「そうそう。なんか“今さら”って感じっ♪」
ようやく口を開いたかと思えば、この失礼発言である。和宏は、呆れながら口を尖らせた。
「最後なんだからアイサツくらいさ……」
思わず口をついて出た文句に、沙紀と東子はケタケタと笑い始めた。
「な~んか律儀よねぇ、りんって」
「そうそう! アタシ、りんのそういうところ大好き!」
からかっているのか褒めているのかわからない台詞を吐きながら、なおも二人は笑い続ける。三人しかいない長い廊下に、楽しそうな笑い声が響いた。
「まぁ、そういうりんだから……、一緒にいて楽しかったのよね」
「アタシもそうだよ! すっごい楽しかったし♪」
「よ、よせよ! そんなこと言っても何も出ないぞ!」
「別に何か出せなんて思ってないわよ」
そう言って、沙紀たちはまた笑った。
「一つだけ残念だったのは、りんのカレシが見れなかったことね」
(カレシ……)
「そうそう! りんはあまり男子の話しなかったもんね」
それはそうだろう。やれ○○くんがカッコイイ……といった女子の恋話に付き合えるほど和宏は器用ではない。沙紀と東子も、女子の割りにはそういった話が少なかったため助かっていたが、和宏の方もまた基本的にその手の話題を避けていた。“りん”が下級生の女子から妙な人気を得ていたのは、そういう男子になびかないところ……いわゆる女子っぽくないところも大きな要因であった。
「この際、最後だから聞いてあげるわ。りんの好みとか」
沙紀が、興味津々な様子でグィっと顔を近づける。和宏はたじろぎながら一歩後ずさった。
「ど、どうでもいいじゃんか、そんなこと……」
答えに窮してしどろもどろになる和宏。だが、それを救ったのは東子の意外な一言だった。
「じゃあアタシ、沙紀の話でもいいけど?」
「はぁ?」
「あのバレンタインデー以降……、山崎とは何もないのっ?」
東子のタレ目が、興味津々な様子で爛々と輝いている。和宏は、突然風向きが変わったのを感じた。今度は、沙紀がしどろもどろになる番だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 何よ、何もあるわけないじゃない」
「ホントに~っ?」
「当たり前でしょ!」
ついに沙紀はぷいを顔を横に向けた。赤くした頬をプクっと膨らます様は、沙紀にしては珍しく可愛らしかった。
「な~んだ。せっかくアタシとりんがキューピット役やったのにっ♪」
「あるわけないでしょ! 大体、アイツと結婚したら、私“やまさきさき”になるのよ! 絶対イヤよ!」
“りん”と東子が、思わず顔を見合わせる。そして、二人は同時に吹き出した。
「誰も結婚の話なんかしてないだろ!」
和宏の、笑いながらの突っ込みに、沙紀の顔がみるみるうちに耳たぶまで赤くなっていった。
「山崎も同じこと言ってたぞ。もう結婚しちゃえよ、お前ら」
「うんうん。アタシもお似合いだと思うのっ!」
“りん”と東子がなおも笑う。いつも理不尽にやられまくっているお返しが出来た気分だった。だが、和宏は、あまりに笑い過ぎて気付かなかった。途中から、沙紀の両肩が怒りに震え始めていたことに。
「誰が山崎なんかとっ!」
「イダダダダダダダッ!」
沙紀の右手が“りん”の額をスッポリと包み込むと同時に、思わず悲鳴を上げてしまうほどの激痛が走る。もはや何度喰らったかわからない、沙紀の必殺技であるアイアンクローだ。その痛みは、力任せに締め付けられる額が今にも割れてしまいそうなほどだった。
ギリギリと締め付ける力が、さらに増す気配を見せる。沙紀の怒り――というよりもおそらく照れであろう――が、いかに大きかったかがうかがい知れた。あまりの痛さに、和宏の目に自然に涙が滲む。もう限界だ……と思った時、その激痛が不意に治まった。
沙紀が意識的にアイアンクローを外したのではなく、まるで沙紀の右手が突然消え失せたような感触だった。和宏は驚いて顔を上げた。
(……っ)
沙紀は、何故か“りん”に背中を向けていた。しかも、その身体はすでに透き通り始めている。和宏が一瞬言葉を失っていると、同じように身体が透き通り始めていた東子が、いつにない真剣な瞳で“りん”を見ていることに気付いた。
「あのね、りん。ここはもういいからのどかに会いに行ってあげて」
「っ! いるのか? のどかが?」
東子は、コクリと頷いた。
「いるよ。学校のどこかに。だから……ね?」
特徴的なタレ目が、優しい光を放つ。冗談やボケ発言の多い普段の東子とは違い、珍しく真顔だった。
「う、うん……、わかった……」
東子に背中を押されつつ、今一つ釈然としないまま、和宏は歩き出した。生徒用玄関に向けて歩みを進め、十歩ほど歩いて、ふと足を止める。振り返ると、沙紀は高い背を屈めて、東子の胸の中で泣いていた。
(そういう……ことか……)
きっと、泣いているところを意地でも見られたくなかったに違いない。沙紀らしいや……と和宏は思った。
立ち止まり、振り返る“りん”を見て、東子が目を細めながら小さく頷いた。まるで、ここはもう心配要らないから……と言わんばかりに。すでに、二人の姿は今にも消え去りそうなほど透明に近づいていた。
(じゃあ……俺、行くよ。のどかのところに……)
のどかのいる場所はわかっている。和宏は再び歩き出した。そして、もう振り返らなかった。
◇◆◇
沙紀と東子に別れを告げ、和宏は生徒用玄関から校庭に出た。爽やかな日差しが燦々と降り注ぎ、空一面の鮮やかなスカイブルーが和宏を迎える。和宏は、はやる気持ちを抑えながら、誰もいないグラウンドを横目に体育館の方へ向かった。水を打ったようにひっそりとした無人の体育館の裏のジャリ道を通って、裏山の斜面を一歩一歩登っていく。のどかのお気に入りの場所……そこで、もう二度と会えないと思っていたのどかに会えるだろう。そう思うだけで、和宏の鼓動が早鐘を打ち、心が躍った。
その場所は、もう目の前だった。斜面を登りきろうとした時、一陣の風が和宏の目の前に桜の花びらを運んできた。驚いた和宏が風上に視線を向けると、そこには、季節はもう初夏であるにもかかわらず、一本桜が満開の花を咲かせていた。ただヒラヒラと音もなく、緩やかな風に乗って桜が舞う。咲き誇る季節はずれの桜吹雪に、和宏はしばし見とれた。
「和宏……」
意識の外からの問いかけに、和宏の心音が飛び跳ねた。その待ちわびた声に不意に胸が高鳴る。茂みの影から現れ、いつものようにえんじ色のセーラー服を着たのどかは、不思議なほどこの桜色の景色に溶け込んでいた。
三メートルと離れていない二人を包み込むように、桜交じりのそよ風が“りん”とのどかの毛先を優雅に揺らして吹き抜けていく。
「また……会えたね」
そう言いながら、のどかは大きな瞳を細めてニッコリと笑った。
――To Be Continued




