Bye-Bye Time (4)
たまに吹く風は、グラウンドの土を巻き上げ、砂ぼこりとともに去っていく。真っ青な空には、先端が鈎状に折れ曲がった長い筋雲がいくつか浮かぶ。思わず胸いっぱいに息を吸い込みたくなるほどの晴天。そんな清々しい天気とは正反対に、和宏の戸惑いは頂点に達しようとしていた。
目を閉じて……と囁く大村、目の前に迫る顔。これだけの材料が揃えば、いかに鈍感な和宏でも、大村が何をしようとしているかはわかろうというものだ。
(まさか、キ……ス……!?)
そうとしか考えられなかった。だが、そうだからといって「はい」というわけにもいかない。いかに今は女であろうとも、男とのキスなど和宏の許容範囲をはるかに超えているからだ。和宏は、この場を切り抜けるために頭をフル回転させようとしたが、大村の台詞が邪魔をした。
「イヤなの……?」
なかなか目を閉じようとしない“りん”を見て、大村が小首を傾げた。大村の頼みというからには聞かねば詫びにならない……でも、いくらなんでもキスは無理……。そんな葛藤が和宏の頭の中を駆け巡る。かといって、大村の頼みを無碍にするわけにもいかなかった。なにしろ、どんなことでもすると言ったのは和宏自身なのだ。
迷い、躊躇する間にも、すぐ目の前にある大村の表情が次第に不安げに曇っていく。これ以上の躊躇いは大村を傷つけてしまうだろう……そう思った和宏は、罪悪感が自分の胸の中を突くのを感じた。
(もう……どうにでもなれっ!)
そう心の中で叫びながら、和宏は半ばヤケクソ気味に目をギュッと固く瞑った。身構え過ぎて異常に力が張り詰めた全身は、まるで緊張しているかのようにカチカチになっていた。心の整理がついたわけではない。ただ、自分のせいで大村を苦しめてしまったのだから仕方がない……そう思っただけだ。
口から心臓が飛び出てきそうなほど強く脈打つ。その鼓動を感じながら、和宏の頭の中を色々な思いが飛び交った。
(あ~……まさかファーストキスの相手が女の子じゃなくて男だとは……)
(でも……こうなったら仕方ない……!)
(覚悟決めてやってやる……!)
そんなことをグルグルと考えながら、和宏はふと気付いた。
(なんだ……? まだか……?)
もちろん、別に待ち遠しいわけではなく、ただ落ち着かないだけである。まるで、注射を打たれる直前の緊張感がずっと続いているような時間は、それほど長い時間ではないにしろ、決して心地よい時間ではなかった。
しびれを切らして目を開けてしまおうか……でも、その瞬間大村の顔が目の前にあったら気まずいな……などと和宏が思った時、ようやく大村の声が“りん”の耳に届いた。
「いいよ! 目を開けて!」
その声は、思ったよりもはるか遠くから聞こえた。眉を潜めながら、言われたとおりに目を開くと、暗闇に慣れた目が一瞬眩しさに眩んだ。程なく目が慣れると、意外な光景が和宏の目に飛び込んできた。ホームベースの向こう側に、ミットを構えた大村が座っていたのだ。それも、まるでピッチャーの一投を待ち受ける捕手のように。
「お、大村クン……?」
すでに、その身体は透き通り始めていた。だが、大村は意に介することなくミットを叩きながら、試合の時のように叫んだ。
「さあ、最後に萱坂さんの球を受けさせてよ!」
大村は、両手を目一杯広げて、そう“りん”に呼びかけた。その顔には、まるでイタズラを成功させた子どものような会心の笑みが広がっていた。
「はは……やられた……」
脱力感一杯に天を仰ぐ。もはや笑うしかなかった。そう……大村にからかわれたのだ。目を閉じて、葛藤に悶々とした“りん”の顔を見て、大村はどう思ったことだろうか。身悶えしそうなほどの恥ずかしさが和宏を包んだ。
(でも……これでチャラってことか)
そう思うと、先ほどまで逃げ出したくなるような葛藤に苦しんでいた気持ちが嘘のように軽くなった。無駄に悩んでいた自分が可笑しくなり、無意識に笑みがこぼれる。見上げた空は、今の和宏の気持ちを表しているかのように爽快な青色に染まっていた。
マウンド上を足でならし、ゆっくりとプレートから砂を払うと、いつも練習で使っているピッチングプレートが露わになった。いつの間にか、“りん”の右手には練習で使っている薄汚れた硬球が握られている。そして大村は、いつでも来いといわんばかりにミットを構えて待ち受けていた。
“りん”は、右足でプレートを踏み、大きく振りかぶった。身を屈め、まるで弓をギリギリまで引き絞るように、テークバックを大きく取る。リリースの瞬間、和宏は溜め込んだ力の全てをボールに乗せた。渾身のアンダースローから、キレのあるストレートが大村のミット目掛けて一直線に向かっていく。ボールは狂いなく大村のミットに収まり、“りん”と大村以外誰もないグラウンドに大きな音を響かせた。
「ナイスボール!」
大村が、実戦を彷彿とさせるような野太い声を張り上げると、和宏は、まるで試合で投げている時のような錯覚を覚えた。大村のいうとおり投げれば絶対に打たれない……そう信じながら、数え切れないほどの球をあのミット目掛けて投げてきた。和宏にとって、大村は紛れもなく一番の“恋女房”だった。
「さよなら、萱坂さん」
その言葉とともに大村の姿は消え去り、砂ぼこり舞うグラウンドに和宏は一人取り残された。たった今投げた球の感触は、まだ指先に残っている。和宏は、その感触残る右手をギュッと握りながら、誰もいなくなったホームベース上に向かって呟いた。
「さよなら……大村クン……」
――To Be Continued




