Bye-Bye Time (3)
ホームベースの上で力強く仁王立ちする大村の姿が、“りん”のいるマウンドからはやけに大きく見えた。さっぱりした坊主頭に、強い意志を感じさせる瞳。肩幅の広いガッシリとした体躯を覆う黒い学生服は、大村をただの朴訥な少年であるかのように演出している。だが、実際は凄腕の理論派捕手であることを和宏は知っていた。
大村は、正々堂々胸を張り、普段のようなオドオドしたものを混じらせることなく、一歩一歩マウンドに歩み寄っていった。まるで何かの決意を心に秘めたような面持ちに、逆に和宏の方が戸惑いを感じて落ち着かない気持ちになった。
和宏は、フォローを求めるように山崎たちの方を振り返ったが、つい先ほどまで背後に控えていたはずの山崎と栞は、大村に後を託して、すでに消え去ってしまっていた。
二人きりになったグラウンドに吹き付けた風が、うっすらとした砂ぼこりを巻き上げていく。和宏は、ゴクリと息を呑みながら、マウンドに近づいてくる大村を待ち受けた。“りん”の目の前まで辿り着いた大村は、相変らず何かを決心しているかのような表情で立ち止まり、緊張と真剣の入り混じった目で“りん”を見つめる。気まずい沈黙が二人の間を流れるとともに、和宏の戸惑いはさらに増していった。
(大村クンの……気持ち?)
栞も山崎も、そう言っていた。せめて大村の気持ちに気付いてやれ……と。和宏の心臓の鼓動が嫌な軋みを上げる。試合では決して感じることのない類の緊張感だ。そんな糸が張り詰めているような雰囲気を打ち破ったのは、大村の野太い声だった。
「ボクは……萱坂さんを尊敬出来る女性だと思っているよ」
「……え?」
突然なにを言い出すのか……と思いながら、“りん”は目を丸くした。そんな“りん”にふと目を細めつつ、大村はさらに続けた。
「萱坂さんは、どんな困難にも立ち向かえる強い心を持っているから。男子にも負けないくらいの……」
滝南という難敵を相手に一歩も引かず、“りん”は最後まで投げきった。そして、作戦とはいえ、多くの球数を強いる大村のリードにもしっかりと応えたのだ。それは、どれほどの情熱と強靭な意思を必要としただろう。まさに、大村の本音だった。
「い、いやいやいや、大村クンの方が根性あるじゃん。途中で助けてくれたのも大村クンだったし……」
試合の終盤で爪をはがした大村は、そのケガをおして試合に出続けた。“りん”の球の衝撃を最も受ける左手のケガをおして、だ。後日、その話を聞いた和宏は、大村の根性に舌を巻いたものである。そして、試合の途中で心が折れかけた時に活を入れてくれたのも大村だ。決して謙遜ではなく、和宏にとっての本音であった。
「違うよ」
「……え?」
「それ|は萱坂さんから教わったんだよ。あの球技大会の時、勝利への意思を持ち続けることの大切さを……ね」
球技大会で“りん”の相手役を務めた大村は、圧倒的に不利だった山崎との対決を敬遠で逃げようとした。しかし、“りん”は『死んでもイヤだ』と言って、最後まで逃げることをしなかったのだ。結果、山崎を打ち取ったことは、大村にとって衝撃的だった。
「あの時からボクは……萱坂さんのことをすごい女性だと思うようになったんだ」
「そ、そんなこともあったねぇ……」
「そして、お互いブラポが好きで……、しかも好きな曲が同じ『Victory』だって知った時……これは運命だと思った」
「う、うんめい……?」
「ちょっとオーバーかもしれないけど……本気でそう思ったんだ」
大村の頬が紅潮していた。和宏の心臓が軋むように強く……早く鳴る。言葉を切った大村を急かすように、一際強く吹いた風が砂ぼこりとともに二人の間を吹き抜けた。スカートがはためき、長いポニーテールが舞い踊る。風が吹き止むのを待って、大村は声を振り絞った。その声には、もう迷いはなかった。
「好きです、萱坂さん」
大村の告白……いつかと同じシチュエーション(「俺、りん」第137話参照)に、和宏は既視感を覚えた。その時、大村は別に好きな女の子がいると言った。だから和宏は、今回も再びただの冗談だと笑い飛ばそうとした。だが、大村は毅然とそれを遮った。
「今度は……本当です」
その瞳からは、嘘も冗談も窺うことはできなかった。“りん”が驚きを持って見返すと、大村は罪悪感を隠すように目を伏せた。
「ごめん、あの時は嘘をついて……」
「……」
「情けない話だけど……怖かったんだ」
「怖かった……?」
大村が深く頷く。その仕草に、和宏は大村の本心を見た気がした。
「きっと萱坂さんはボクを恋愛対象としては見てないと思った。だから……答えを聞くのが本当に怖かったんだ」
大村の表情は、痛々しく曇っていた。その辛そうな告白に、和宏は以前聞いたのどかの言葉を再び思い出していた。
『もし、大村くんが“りん”のことを本気で好きだったとしたら……最後に傷つくのは大村くんなんだからね』
俺はバカだ……そう心の中で呟いた和宏は、力なくうな垂れた。もう、あの時の忠告は本当だったと認めないわけにはいかなかった。今、まさに傷ついた大村が目の前にいるのだから。
「ごめん……」
心からの一言が口をつく。それが精一杯の言葉だった。和宏は、大村の顔を直視できずに俯いた。
(一体、今までどれほど大村クンを苦しめてしまったのだろう……?)
山崎も栞も……大村の気持ちに気付いていた。気付いていなかったのは自分だけだ。いや、気付きたくなかっただけかもしれない。それほど、大村と一緒にいるのは、和宏からすれば同性の親友として心地良かったのだ。大村のことを、親友と……相棒と信じて疑わなかった。それが大村を苦しめることとは露ほども思わずに。
「ごめん……」
もう一度、同じ言葉が弱々しく“りん”の口からもれた。だが、大村からは何の返事もない。“りん”は、俯いたまま黙りこくるしかなかった。ただ、沈黙の時間が続き、たまに思い出したように砂混じりの風が二人を包む。沈黙の時間は、実際はわずかなものだったが、和宏からすれば異様に長く感じられた。駆るような焦燥感が胸の奥から込み上げてくる。和宏は、紡ぐべき言葉を必死で探った。
「どうすればいい……?」
「……」
「俺、どうすれば……」
大村を苦しめてしまった償いができるだろう……という言葉を、和宏は思わず呑み込んだ。言ったところで、大村は何も求めないと思ったからだ。しかし、大村はその言葉を待っていたかのように動き出し、“りん”の目の前で立ち止まった。
「萱坂さん……」
「……」
「萱坂さんに一つだけ……お願いしたいことがあるんだ……」
「お、お願い……?」
いつものオドオドした態度は微塵も感じさせず、大村は大きく……そして力強く頷いた。それは、和宏にとっても渡りに船だった。
「すっ、するよ……!」
「どんなことでも……?」
「もちろん!」
和宏は、噛み付かんばかりの勢いで同意した。ここで大村の頼みを断るなど、和宏自身の気が済むはずはない。“りん”の返事に満足した大村は、さらにまた一歩“りん”に近づいた。和宏の視界一杯に大村の顔が広がる。下手をすれば、吐息が届きそうなほどだった。
(ち、近い近いっ!)
無意識に一歩後ずさろうとした和宏は、辛うじて踏みとどまった。しかし、無意識にのけぞるのは回避できなかった。
「大村クン……?」
大村に問いかける不安げな“りん”の声に、大村は優しく微笑み返した。その四角張った顔には、まるで俳優のような雰囲気が漂っていた。
「目を閉じて……萱坂さん……」
普段の声からは想像できないほどの甘い声で、大村はそう呟いた。
――To Be Continued




