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Bye-Bye Time (1)

 和宏にとって、入院生活は極めて退屈なものだった。頭を打ったとはいえ、特に身体に異常がないにもかかわらず、経過観察のために入院させられているのだから、和宏でなくともそう思うだろう。だが、それも明日の退院までの辛抱である。

 退院を翌日に控えた夜、和宏は再び病室に一人きりになった。父親が夜勤に出かけていったためだ。消灯時間を過ぎ、静寂な空間となった病室で、和宏は明日から歩む甲子園への道に思いを馳せた。

 本来の自分の身体で野球が出来る喜びはひとしおだった。パワーのない“りん”の身体にヤキモキした。何度『本来の自分の身体だったら……』と思ったかわからない。それでも、“りん”が甲子園への道を切り拓くことが出来たのは“仲間たち”がいたからだということを和宏は知っている。しかし、この現実の世界に彼らはいない。ひょっとして、全て夢だったのではないか……という気持ちすら湧いてくる。和宏は、頭の中でそれを必死に否定した。そんなはずはない、と。夢というには、あまりに鮮烈で濃密な時間。だが、あまりにも突然過ぎる別れが、まるで本当に夢からの目覚めのように感じられるのも確かだった。

 陰鬱な気分が和宏を包み込む。このままではスッキリと前に進めないような気がした。夢ではなかったと思いたい。そう思った和宏の脳裏に、彼らの顔が数多くの思い出とともに浮かんだ。


(せめて……もう一度だけみんなに会えたら……)


 山崎や大村に……沙紀と東子や栞にも……無論、のどかにも。そうすれば、このもどかしい気持ちにケリが付くのだろうか。少しだけ寂しく、ちょっとだけやるせないこの思いが救われるだろうか。そんなことを考えながら、和宏は静かに寝入り……そして、ある夢を見た。



◇◆◇



(なんだ……?)


 和宏は、呆然としながら独り言のように呟いた。ついさっきまで病室で寝ていたはずなのに、気付くと見慣れない人工の建物の中に佇んでいたからだ。


(駅……か?)


 清掃の行き届いた床のタイルを、煌々とした照明の光が照らす。切符を売る券売機や売店、土産物屋などが立ち並ぶコンコース。その広大な空間は、まさに都会の駅そのものだ。ただ、明らかに奇妙な点があった。和宏以外の人間の姿が全く見当たらない……不気味なほど静かなのだ。

 改札口前に設置された時計を見上げると、そのデジタル表示は午後二時四十五分を示している。電車のなくなった真夜中ならともかく、この時間帯に駅の中が無人など常識ではありえない。その恐ろしいほど非現実的な光景に、これは夢じゃないのか? ……と和宏は思った。そして、それを裏付ける事象に和宏は気づいた。何気に自分の身体を見下ろすと、戻れたはずの“瀬乃江和宏”の姿ではなく、あの“萱坂りん”の姿になっていたからだ。

 今や着慣れてしまったえんじ色のセーラー服。しっとりとした黒髪を丁寧に束ねたポニーテール。学校に行く時にいつも履いていた革靴の感触が“りん”の両足を包んでいる。しかも、驚くべきはそれだけではなかった。


(右腕の骨折が……直ってる!?)

 

 ギプスで固められ、三角巾で吊られていたはずの“りん”の右腕が、今はギプスをしていた痕跡すらなく、普通に右手を動かしても寸分の痛みすら感じない。骨折が直ったというよりも、“初めから骨折をしていなかった”かのように。

 次から次へと疑問が湧いてくる。なぜ、こんなところに佇んでいるのか。なぜ、右腕が無事なのか。そして何より……なぜ、“りん”の姿なのか。“瀬乃江和宏”に戻れたのは間違いないはずだった。父親やチームメイトとの再会……あれらが全て夢や幻であるはずがない。そう確信させるだけの圧倒的な現実感があったのが何者にも勝る証明だ。となると、結論は一つである。これは夢だ……和宏はそう結論付けざるを得なかった。そうでなくては説明がつかないからだ。“りん”の姿のことも、この右腕のことも、この妙な光景のことも。


(待てよ。この駅、ひょっとして……)


 少しずつ落ち着きを取り戻しつつ、改めて周りを見渡した和宏は、このコンコースには見覚えがあることに気づいた。昨年の夏、のどかとともに走り抜けた博多駅構内(「俺、りん」第72話参照)だ。そう……あの日新幹線に乗ろうとしていた北村彩に会うために。

 和宏は、ある一つの可能性を考えつつ走り出した。革靴のコンコースを叩く音が溶け込むように響き渡る。無人の自動改札機を通り抜け、新幹線の発着ホームへ。まさしく、あの日のように……心の中に大きな疑問を抱きながら。

 無人の階段を駆け上がり、東京方面への新幹線の発着ホームへを身を躍らせると、和宏は視界の中についに自分以外の人影を捉えた。それは、予想したとおりの、華奢で小さな三つ編みの女の子だった。


「彩ちゃん!」


 驚きを持って上げた声は、この静寂な無人のホームでいとも簡単に彼女に届き、女の子は“りん”の声に応えるように親しげな笑顔とともに手を振り返した。もう間違いなかった。黒縁のメガネをかけ、“りん”と同じえんじ色のセーラー服に身を包んだ……あの夏の日、このホームで別れを告げた北村彩だった。


「久しぶり、りんちゃん……」


 そう言って、彩はあの日と同じように嬉しそうな笑みを浮かべたが、驚きのあまり目を点にしたままの和宏は、口をアングリとさせて彩を見つめ返すことしか出来なかった。それもそのはず、彩は父親の仕事の都合で渡米し、今もアメリカで暮らしているはずだからだ。

 考えもしなかった再会。約一年ぶりになる彩の姿に、和宏は密かにうろたえていた。和宏の初恋の人……大野美羽によく似た笑顔も、かけている黒縁メガネも、自慢の三つ編みも……何も変わってはいない。しかし、醸し出す雰囲気だけは、どこか大人っぽさを感じさせた。


「彩ちゃん……どうして……?」


 どうしてここに……? と訪ねようとした“りん”の口の動きが、彩の胸元にかけられたものに気づいてピタリと止まる。自らの胸元に向けられた“りん”の視線に気付いた彩は、恥ずかしそうに肩をすぼめながらペロリと舌を出した。


「これ……?」


 まるでペンダントのように首にかけられたものを、“りん”にも見えやすくするように持ち上げる。それは、和宏が彩に贈った球技大会の時のウイニングボールだった。


「ど、どうして……そんなものを……?」


 おそらく、彩が一生懸命磨き上げたのであろう……手渡した時、すでに薄汚れていた軟球は、新品と見間違わんばかりに白く綺麗になっていた。だが、所詮はただの軟球である。ペンダントや首飾りのように身につけても、アクセサリーの代わりになどなるはずもない。和宏が疑問に思うのも当たり前だった。


「これのおかげでね……私、向こうでもたくさんお友だちが出来たの」


 不思議そうな表情を浮かべる“りん”に、彩は少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。


「これを首にかけてるとね……みんな『それ何(What's it)?』って話しかけてきてくれて、それでりんちゃんのお話をすると……みんな興味津々で聞いてくれて……」


 和宏は、口を半開きにしたままタメ息をもらしている。なんとなくわかる話だった。確かに首から野球のボールをぶら下げている女の子がいたら、アメリカ人でなくとも『それ何?』と聞きたくもなるだろう。


(それにしても……『りんちゃんの話』って、一体どんな話をしたんだ……?)


 そう思いながら、和宏は不安げに眉を曇らせつつ彩の顔をチラリと見た。そんな不安が彩にも伝わったのか、彩は慌てて付け足した。


「あっ、でも全然変なことは言ってないから。『とても前向きで、野球が大好きな私の親友です』って言っただけ……」


 要するに、そのボールの首飾りが、初対面の人との話のキッカケになったということだ。人見知りする彩にとって、人から話しかけてもらえることは非常に助かったに違いない。そして、持ち前の相手を気遣う性格で、次第に仲良くなり……本当の友だちになっていったのだろう。


「最初、アメリカでやっていけるのか……って不安だったけど、今はもう大丈夫。それも全部ボール(これ)のおかげ……」


 改めて、ボールの首飾りに誇らしげな視線を落とす。


「そんな……俺のボールなんか関係ないよ! きっと彩ちゃんの魅力……っていうかその……彩ちゃんだからこそ友だちができたんだよ!」


 照れ隠しのためもあって、思わず和宏の口調に力が篭る。真っ赤になって力説する“りん”の顔を見て、彩は可笑しそうに笑い始めた。


「久しぶりに聞いちゃった……りんちゃんの“俺”」


 我に返って急に気恥ずかしさを感じた“りん”の顔が、殊更に赤みを増していく。それを見て嬉しそうに笑う彩の口元を手で隠して笑う仕草は、いかにも上品な彩らしかった。


「やっぱり……りんちゃんが“俺”って言うとカッコイイ……」


 まいったな……と、和宏は苦笑いをしながら頭をかいた。相変らず笑みを浮かべる彩の前髪と三つ編みが風に揺れる。その時、和宏はあることに気づいた。透き通るような彩の白い肌が、本当に透き通っている。肌だけではなく彩の全身がうっすらと。そして、身体の向こう側の景色が透けて、和宏の目に映っているのだ。

 およそ信じられない出来事に、呻き声のような声が和宏の口をついて出た。少しずつ……しかし確実に彩の身体が透明に近づいていく。大きく見開いた和宏の目は、彩の全身に釘付けになっていた。


「どうして……?」

「……」


 驚きを隠せないでいる“りん”を見て、彩は俯き目を伏せた。まるで、何故こうなるのかがわかっているかのように。


「お互いもう会えなくなっちゃうけど……()()()ね……どうしてもりんちゃんにお礼を言いたかったから」

「最後……?」


 上ずった声でオウム返しをする“りん”に構わず、彩は続けた。


「本当にありがとう……」


 真っ直ぐに“りん”を見つめる彩の視線には、以前の自分に自信がなさそうな弱々しさではなく、本当に気持ちを伝えようとしている強さが含まれていた。


「待ってくれよ! 最後って……? もう会えなくなるって……? 意味が……意味が分からないよ、彩ちゃん!」


 彩の身体は、もう今にも消え去りそうだった。あまりにも非現実的で、なおかつ理不尽な光景……和宏は思わず声を荒げた。だが、彩は“りん”の声に答えることなく、ただ黙って微笑むだけ。その黒縁のメガネの奥の瞳には、和宏に別れを告げた一年前の夏よりも少しだけ強く成長した瞳が揺れている。

 彩は、小さく手を振りながら、恥ずかしそうに呟いた。


「大好きだよ、りんちゃん」


 そして、彩の姿は音もなく消え去り、和宏はこの無人のホームに取り残された。再会を懐かしんだ直後の信じられない出来事。何が起きたのかもわからずに呆然として立ち尽くす。

 和宏は、ほぼ無意識に右手をさすった。現実ではギプスをはめられていた右腕。全く現実感のない無人の新幹線ホーム。そのいずれもが、これが現実でないことを雄弁に語っている。


(これじゃまるで……)


 夢の中にいるような感覚と妙にリアルだった彩が、和宏の中でなかなかマッチしなかった。このチグハグな感じを上手く説明するとすれば……そう考えると一つだけ、ある仮説が和宏の頭に浮かんできた。


 俺の夢の中に、彩ちゃんがお別れに来てくれたみたいじゃないか――?




 根拠は何もないにもかかわらず、それが一番自然な解釈のように和宏には思えた。そして、それを裏付けるように、まさに夢の中のような不条理さで、和宏の周囲の景色が一瞬で見慣れた光景に変わった。

 “りん”の通う鳳鳴高校……そのグラウンドの中心である小高いマウンド。突然の場面転換に戸惑う暇もなく、立ちすくむ和宏の背後からお馴染みの声が聞こえた。


「待ってましたよ、りんさん」



 ――To Be Continued

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