さよならは突然に (7)
これで何度目だ……? と和宏は思った。右を向いても左を向いても闇、闇、闇。もう何度目になるのかもわからない奇妙な夢だ。身体はピクリとも動かない。そして、和宏を呼ぶ声は、断続的に聞こえてくる。
夢であるにもかかわらず、なぜか今回だけは学校から帰ってすぐに寝入ってしまったことはハッキリと覚えていた。寝入ってからほとんど時間が経っていない感覚だったが、妙にクッキリとしたリアル感のある夢だった。
なぜ毎回こんな夢を見るのだろう……? という疑問を感じながら、和宏は呼ぶ声に耳を傾けた。
しっかりしろ――!
目を覚ませ――!
聞き覚えのある声だった。和宏は、誰の声だ……? と訝しみながら、なお一層それらの声に注意を向けた。
呼びかけは、言葉を変えつつ何度も何度も続いていく。その中の一つに和宏の意識が反応した。
お前は母さんと約束しただろう――!
どうしても動かなかった和宏の身体がピクリと動く。それを足がかりに、さらに全身に力を込めると、手……足……少しずつ身体が動き始めた。
いつの間にか、声は遠くからではなく、すぐ耳元から聞こえていた。
甲子園に行くんだろう――!
その声に、和宏は息が止まりそうになった。最も身近であるにもかかわらず、ひどく懐かしい声。だが、もうすでに和宏は確信していた。
母さんとの約束のことを知っているのは――。
この声の主は――。
和宏はゆっくりと目を開いた。真っ先に目に入ってきたのは、見覚えのある中年の男の顔。和宏は、その顔を懐かしいもの接するかのように見た。心配気な顔をした男は、真っ直ぐに和宏の顔を見下ろしていた。
「大丈夫か? 自分の名前を言えるか?」
(……名前?)
自分の名前を聞かれているのだ……と、和宏の頭が理解するまで若干の時間を要した。和宏は、そんな当たり前のことをなぜ聞くのか……と訝しんだが、それ以上に思うように回らない頭をもどかしく感じた。まるで、一年ぶりの目覚めであるかのようだった。
モヤがかかったような頭の中から答えを探す。そして、その答えを、和宏は躊躇なく口にした。
「かやさか……りん……」
「なんだと? お前は“瀬乃江和宏”じゃないのか?」
予想外の答えに、男が思わず目をむく。その狼狽ぶりに、混濁していた和宏の意識がみるみるうちハッキリしていった。
「親父……! なんでここに!?」
そう大声を出そうとしたにもかかわらず、うまく声にならなかった。ずっと“りん”として過ごしてきたせいだろう。甲高い声を出すことに慣れてしまったのが原因だった。和宏は、もう一度……今度は低音域の声を出すつもりで口を開いた。
「なんで……!?」
次第に周囲の状況が和宏の脳内に入ってき始めた。白い天井とゆっくり回転するシーリングファン。殺風景で薬品の匂いが染み付いた部屋は、全く見覚えがなかったものの、どこぞの病院の一室に間違いなかった。そして、自分の身体の違和感にも同時に気付いた。“りん”の時とは似ても似つかない太い声。全身を覆う筋肉の質感と力強さ。固めていたはずのギプスがなくなっている右腕。鏡などで今の自分の身体を確認する必要すらなく確信した。
そう、“瀬乃江和宏”に戻れたのだ――と。
「覚えてるか? お前は交通事故に遭ったんだ。野球部の練習中……ランニングの最中にな」
「こ、交通事故……?」
「頭を打ったらしくて病院に運ばれたんだ。丸一日眠っていたんだぞ……」
「丸……一日!?」
和宏は、驚きのあまりベッドの上に跳ね上がろうとしたが、頭にズキリと痛みが走って顔をしかめた。
「無茶するな。脳波にも内部にも異常ないとのことだったが、頭を打ったのは間違いないんだ」
改めて柔らかい枕の上に頭を埋めて、大きく息を吐く。確かにランニングで校外に出た後の記憶がない。そして何より、丸一日とは一体どういうことなのか……? ということだ。
つい先ほどまで、“りん”の中にいたのは間違いない。それはハッキリと思い出せる。“りん”として過ごした日々のことも……全て。沙紀と東子にはちょくちょく散々な目に合わされた。大村や山崎とは一緒に滝南と戦った。それは、決して一日で経験することのできない、中身の濃い一年間だったはずだ。
呆然としているうちに、病室に年配の医師と看護師が入ってきた。白衣を着た男性医師は、和宏の頭のケガをした部位を入念に観察しながら、和宏に問診を始めた。
「気分はどうだい?」
「悪くありません……」
ふむ……と鼻を鳴らした医師が、和宏の顔を真剣な表情で覗きこんだ。一瞬だけ目が合い、医師は安心したように視線を外した。
「うん。大丈夫そうだね。身体のあちこちに擦過傷はあるけど大したことはないし、脳波にも異常はなかったし。すぐにでも退院できそうだね」
そう言いながら、医師は手に持っているバインダーに何かを書き込んでいた。父親は、ホッとしたように丸イスに腰を掛けた。念のため、一日か二日ほど様子を見て、問題なければ退院ということにしましょう……と言い残して、医師と看護師は病室を出て行った。再び病室の中は和宏と父親だけになった。
「よかったな、特に問題なさそうで」
「うん……」
「ところで……『かやさかりん』って誰だ?」
何の脈絡もない質問に、和宏は思わずむせ返った。そんな和宏を見て、父親は意外そうな顔をしていた。
「お前……いつの間にか彼女がいたのか?」
「ち、違うよ……」
「じゃあ、誰なんだ?」
「……」
おそらく、どんな説明をしようとも理解してもらえないだろう……そう思いながら、和宏はもう質問を無視するしかなかった。和宏は、まるで不貞寝のように父親に背中を向けた。父親は、やれやれ……とでも言うように両手を広げながら、丸イスから立ち上がった。
「まぁいい。俺はちょっと会社に電話してくる。お前は無理せず休んでいろ」
そう言って父親が病室を出て行くと、室内は和宏一人だけとなった。廊下からは、看護婦らしき足音が忙しそうにパタパタと響き、入院患者同士の会話らしき話し声が聞こえてくる。
和宏は、何気なしに窓の外に視線を移した。窓の外に見えるのは、濃い緑の葉が生い茂る一本桜。否が応でものどかのことを思い出す。だが、父親が病室に戻ってくると、いつまでものどかのことを考えてもいられなくなった。父親が、丸イスにドッカリと腰掛け、何やら難しい書類に目を通し始めたのだ。
ページをめくる音と置き時計の時を刻む音だけが部屋に響き、重苦しい雰囲気に息が詰まりそうになる。寝ようとしてもなかなか寝付くことも出来ず、そうこうしているうちに日が傾き始めた。ところが、夕刻となった頃、静かだった和宏の病室は一気に騒がしくなった。
「良かった~! お前が交通事故って聞いて、オレ目の前真っ暗になったもん!」
「そうですよ、先輩! 僕たちの夏終わった~……って思ったッス!」
学校帰りの男子高校生たちが、手を叩きながら腹を抱えて笑い転げる。全員が野球のユニフォームの上に城南高校のチームカラーである青色のウィンドブレーカーを羽織っていた。一目見てわかるとおり、和宏と同じ野球部のチームメイトたちが、和宏の意識が戻ったとの報を聞いて駆けつけてきたのだ。
みな、和宏の復活を喜んでいる。夏の予選を間近に控えた彼らにとって、ここに来てのエースの離脱はあまりにも痛手だった。昨日の交通事故の第一報に、チーム内にはこれ以上ないほどの動揺が走った。それだけに、何事もなく復帰できそうだとわかった時の喜びは半端ではなかった。
「じゃあ、俺たち帰るからな」
「ああ、今日は……サンキュー、な」
「水クセェ……なんなら明日から毎日来てやるよ!」
イヤイヤイヤ、長期入院させる気かよ……! と突っ込もうとしたが、和宏は途中でやめた。チームメイトたちはゲラゲラ笑っている。冗談で言っているのがわかったからだ。最後まで大騒ぎをしながら、彼らは病室を後にしていった。
再び病室は和宏一人だけになった。何の中身もないバカ話をしながら、途中何度も涙が出そうになった。それほど懐かしく……そして嬉しかった。何のわだかまりもなく飾らない話が出来る野郎《友人》たち。下手をすればもう二度と会えないと思っていた――。
「和宏……」
ノックと同時にドアを半分ほど開け、友人たちが来ている間、気を利かせて外出していた父親が顔を出す。和宏が振り向くのを待って口を開いた。
「俺はちょっと会社に言ってくる。何かあったら電話しろ」
「え……今から?」
「ああ、昨日ちょっと無理を言って夜勤を代わってもらっているからな」
和宏は、意外な気がした。和宏の父親は、たとえ同僚の夜勤を代わってあげても、自分の夜勤を代わってもらうなど滅多にしない真面目な仕事人間である。その父親が、夜勤を代わってもらったということは、きっと一晩中和宏を看続けていたのだろう。そう思うと、いつもぶっきらぼうな父親の意外な一面を見ることができたような気がして嬉しかった。
上着を着て、今にも出かけようとしている父親の背中に、和宏は恐る恐る声をかけた。
「親父、さ……」
「なんだ?」
「俺が寝てる間……枕元で呼びかけたりした?」
さぁ、忘れたな……そう言いながら、父親は逃げるように部屋を出て行った。和宏は、思わず口元を綻ばせた。やはり、夢の中で呼びかけてきた声は親父だったんだ……そう確信したからだ。
病院の消灯は早い。午後九時になる頃には、見回りの看護師が病室の電灯を消すための巡回を始めていた。和宏の部屋も例外ではなく、その巡回対象である。見回りの看護師は
「じゃあ消しますね。おやすみなさい」
と、言いながら電灯のスイッチを切った。
真っ暗になった部屋を、窓から入ってくる月光がうっすらと照らす。なんとなくがやがやしていた廊下も、巡回が終わる頃にはシンと静まり返っていた。
もう二度と会えないかもしれない……そう思っていた父親、チームメイトたち。そして……これから目指すことになる甲子園。“りん”として生活を続けながらも、常に心のどこかで“元に戻りたい”という気持ちを抱えていた和宏の目の前に、今それらが現実としてある。嬉しくないはずはない。しかし、割り切れない思いが残っているのも事実だった。
あまりにも突然すぎた別れ。濃密な時間を共有したはずなのに、まるで尻切れトンボのようなあっけない最後。沙紀、東子、栞、大村、山崎……そして、のどか。見知った顔が頭の中に浮かんでは消え、モヤモヤした気持ちが次第に増していく。
なんか……心の真ん中にポッカリと穴が開いているような気がする――。
そう苦々しく思いながら、和宏は静かに目を閉じた。




