さよならは突然に (6)
暗闇の中から、和宏を呼ぶ声が聞こえる。
(また、この夢か……)
和宏を誘うような声……この夢を見るのは、これで何度目だっただろうか。そんなことを思いながら、和宏は眉をひそめた。
ひどく疲れていた。身体を動かすのも億劫なほど。それでも和宏を呼ぶ声は、繰り返し繰り返し聞こえてくる。
(もう、いいんだ……。ほっといてくれよ……)
和宏は、鬱陶しささえ感じ、耳を塞いでうずくまりたいと思った。その時、聞こえていた声の音量が急にワンランク上がった。
しっかりしろ――!
随分と必死さの混じる口調が和宏の耳をつく。
(そんなこと言われても……)
無理だ。絶対に。だってのどかが……。
そう思いながら、声の主の方に振り返ろうとする……それを妨げるように、なんとも能天気な声が和宏を呼び止めた。
「りんちゃ~ん!」
まるで緊張感のない声に首根っこをグィッと掴まれ、和宏はその場から引っこ抜かれたように意識を失った。
◇◆◇
「りんちゃんってばぁ!」
ベッドの上で目を開けた“りん”の視界に、母・ことみの顔がどアップで映し出された。同時に化粧の匂いが“りん”の鼻をくすぐる。つけまつげに少々濃い目のアイライン、赤みの強い口紅は、間近で見ると少々ケバケバしさが感じられた。
「やっと起きた! ず~っと目覚ましが鳴ってたわよぉ。今日、学校休みじゃないんでしょぉ?」
学校と言う単語が、眠気の取れないボーッとした頭に染み込むまでには少々時間がかかった。和宏は、今日は何曜日だっけ……? と思いながら、現状を認識するために目をキョロつかせた。
今や見慣れてしまった“りん”の部屋。まだ開けられていないカーテンの向こう側からは、うっすらと朝日がもれ出している。手の届く位置にある目覚まし時計は、いつもの起床時間である七時をすでに過ぎていた。
「うん、休みじゃない……」
「じゃあ、早く支度しなきゃね。ホラ、お母さんが着替え手伝ってあげ……」
「いやいやいや! じじじ、自分で着替えるからっ!」
「あらぁ、そんなケガしてる時に遠慮しなくていいじゃない~」
そんな押し問答が繰り広げられた挙句、着替え終わった後に髪を結ってもらうということで合意に達し、和宏はことみを部屋の外に追い出すことに成功した。和宏にとっては、さすがに着替えを他人に手伝ってもらうというのは気分的な抵抗が大き過ぎた。
何はともあれ、ことみはパタパタと部屋を後にしていった。“りん”は、急いで制服に着替えるしかなかった。パジャマを脱いで、スカートを履き、ギプスごと上着に袖を通して、えんじ色のセーラー襟に黄色のスカーフを巻いた。寝起きの髪はみっともないほどボサボサだったが、ことみの手にかかれば、たちどころにキレイなポニーテールが出来上がるだろう。
和宏は、三角巾で腕を釣りながらカーテンを開けた。突き刺すような白い朝日が寝ぼけ眼を刺激する。
「結局、明け方ぐらいになって寝ちゃったのか……」
昨夜、とぼとぼと家に帰った和宏は、寝付くことも出来ずに、ただのどかのことを思い悩んだ。だが、記憶が残っているのは窓の外に明るさを感じ始めた明け方まで。その後、寝入ってしまったのは明らかだった。
(何か夢を見ていたような気がするけど……)
眠気の取れない目をゴシゴシと擦っても、寝不足であることを証明するように腫れぼったいまま。いつもよりズシリと重く感じる頭は、寝不足により回転が鈍くなっているせいで、これ以上考えることを拒否していた。
階下に降りると、待ち構えていたことみは嬉しそうに“りん”のポニーテールを結った。さすがに母親らしく、和宏が自分で結った時よりも繊細で美しい仕上がりだった。和宏は、ことみが先に仕事に出かけるのを見届けてから、朝食もソコソコにして、いつもよりも早い時間に家を出た。
◇◆◇
“りん”は、心持ち力ない朝のあいさつとともに、まだ人がまばらな教室に入っていった。中には、数人の男子と女子が一人いるだけ。毎日一番乗りのはずの大村は、座席に鞄がかかっているものの姿が見えなかった。おそらくトレーニングルームに行っているんだろう……と和宏は思った。
何人かのクラスメイトから仕掛けられた「珍しく今日は早いね」といった他愛のない世間話を早々に切り上げ、“りん”はコッソリとベランダに出た。初夏の朝らしい爽やかさを含んだ風が頬を撫ぜる。和宏は、寝不足気味の目を閉じて、断続的に吹き付けるそれを肌で感じた。優しく撫でるように心地よく、風の音はまるで子守唄のように。ベランダの手すりにもたれかかりながら、今にも寝入ってしまいそうな時、誰かがベランダに出てきた気配がした。
「おはよ、りん」
「おっはよー♪」
振り向くまでもなく、和宏には声だけで二人が誰なのかがわかっていた。沙紀と東子は、当たり前のように“りん”を挟んでベランダにもたれかかった。
「その顔だと……会えなかったみたいね」
“りん”の浮かない表情を感じ取った沙紀が、ズバリと切り出した。もちろん、のどかに会えなかったのは事実である。和宏はコクリと頷かざるを得なかった。そう……と相槌を打った沙紀は、そのまま何もしゃべらなかった。それから、三人とも何もしゃべることなく無言が続いた。そこへ、栞が慌てた様子でベランダに飛び込んできた。
「みなさん! ここにいたんですか!」
“りん”だけでなく、沙紀と東子も泡を食った感じの栞を珍しそうに見返した。普段の栞なら、こんなにも取り乱すことはないからだ。しかし、栞は構うことなく三人に切り出した。
「のんちゃんが……」
「のどかがどうしたのっ?」
「のんちゃんが、昨日付けで学校を退学したそうなんです……」
「嘘っ!?」
大げさな東子の驚き方は、オーバーリアクションに近かったが、栞は華麗にスルーして続けた。
「嘘じゃないみたいです。生徒会の役員さんたちが大騒ぎしてますから」
現職の生徒会長であるのどかが、突然いなくなったのだ。この中途半端な時期に生徒会長の席が空白になっては、生徒会が大騒ぎするのも当然のことだろう。
「どうしてっ? どうしてそんないきなり……っ?」
「わかりません……」
大きく首を傾げながら喚きたてる東子に、栞は落胆しながら、そう答えるしかなかった。
気まずい沈黙が四人を包む。その沈黙を破ったのは沙紀だった。
「そういうこと……だったワケね」
意味が分からずに首をひねる東子と栞。ただ一人、意味を理解している和宏だけが、ピクリとも動かずにベランダにもたれかかったまま、ボンヤリと遠くを見ていた。沙紀の視線に気付いた和宏は、小さく頷いた。
「『そういうこと』ってなんなんですか? 沙紀さん」
「そうそう! 意味わかんないっ!」
栞と東子が口々に疑問をもらす。沙紀は、代表するように“りん”に聞いた。
「どうなの、りん? やっぱり私たちには言えないワケ?」
沙紀の刺すような視線が“りん”を突いた。だが、やはり和宏は何も答えることが出来ず、ただ沙紀の視線に耐えるしかなかった。“りん”の返事を待っていた沙紀が、諦めたように肩をすくめた。
「なら……しょうがないわね」
「……?」
「どういうことっ?」
栞と東子の当惑が、より強くなった。
「のどかのことだから、きっと何か止むに止まれぬ事情でもあったんでしょう……ってこと!」
「沙紀は何か知ってるのっ?」
「知らないわよ。とにかく……今はもう、この話題は終わりにしましょ!」
そう言って、沙紀は東子の背中を両腕で抱え込んで、教室の中に押し込んだ。続いて教室に戻ろうとした沙紀が振り向いて“りん”の方を見た。
「これでいいのよね、りん?」
和宏は、やはり返事することが出来なかった。冴えない表情を見かねた沙紀は、ため息をつきながら言った。
「全部、一人で背負い込んでるような顔してるのね……」
「……?」
意味を図りかねて、目を見開く。だが、寝不足のまぶたが邪魔して、それすらままにならなかった。
「とりあえず、顔でも洗ってきたら?」
「……え?」
「ひどい顔……してるわよ」
そう言い残して、沙紀は教室に入っていった。一人取り残された“りん”は、力尽きたように金属製の手すりに直接頬をつけた。ひんやりとして気持ちよかった。きっと気を遣ってくれたのだ……そう思うと、沙紀の存在が急にありがたく感じた。
「サンキュー、沙紀……」
“りん”は小さく呟きながら、静かに腫れぼったい目を閉じた。
◇◆◇
放課後になった。空いている左手に鞄を持った“りん”が、ゆるゆると廊下を歩きながら、眠気でクラクラする頭を盛んに振る。そうしなければ、気が抜けた時に歩きながら寝てしまいそうだったからだ。授業中には、出来るだけ寝ないように最大限の努力はしたものの、苦手な英語の時間ではよだれを流すほど寝入ってしまい先生に呆れられた。それでも、眠気が解消されることなく、ようやく放課後を迎えるに至ったのだ。
三年生の廊下を歩く生徒たちには活気があった。ジャージに着替えてトレーニング機器を運んでいる運動部員たち、重そうな金管楽器を持ち歩く吹奏楽部員。どの部でも、今の時期は三年生が中心となって活動している。その表情には充実感が漂っていた。
和宏は、俯きながらため息をついた。ギプスで固められた右手でボールを握るマネをしてみる。それだけでピリッとした痛みが右手首に走った。やはり“悔しさ”は消せない。いかに和宏が楽天家であろうとも……これだけは、いつものように「まぁいいや」の一言で済ませられるものではなかった。
「萱坂さん……」
生徒用玄関で靴を履き替えようとしていた“りん”を、低く太く……でも紳士的な礼儀正しい声が呼び止めた。声の主を振り返ると、そこにはもうユニフォームに着替え終わった大村が立っていた。
「今日、具合悪そうだったけど……大丈夫?」
持ち前の太い眉毛を潜ませ、真剣に心配をしている様子で、大村は“りん”に話しかけた。
(具合が悪いというよりも寝不足なだけなんだけど……)
和宏は、よく見てるな~……と思いながら、心の中で苦笑した。
「大丈夫だよ。それより……ごめん」
「え……? 何が?」
「大事な時期に……ケガしちゃってさ」
そう言いながら、和宏は申し訳なさそうに白い三角巾に吊られた右手を左手でさすってみせた。大村は、慌てた様子で両手をブンブンと振って否定した。
「そ、そんなことないよ萱坂さん! 本当に辛いのは、あんなに予選に出るのを楽しみにしてた萱坂さんの方で……その……」
ドギマギした大村が取り繕うさまは、どこかユーモラスだった。和宏は眠気を忘れてクスリと笑った。
「出来れば球拾いででも部活に出ようかと思ったんだけど……こんなナリじゃ却って気を使わせちゃいそうだし……」
「今は……部のことは考えなくても大丈夫だよ。ケガを直すことに専念してくれれば」
たとえケガを直したとしても、もう予選への出場は不可能である。にもかかわらず、大村の言い方は強く……そして優しかった。きっと大村なりの気遣いなのだろう……と和宏は思った。だが、それは違っていた。
大村は、尻ポケットをガサゴソと探り、中から一枚の紙切れを取り出した。几帳面な大村の字がビッシリと書き込まれたA4の紙。大村は、それを“りん”に手渡した。
「これ……は?」
紙切れを受け取った和宏は、その中身と大村の顔を交互に見た。そんな“りん”を見て、大村は軽く吹き出した。
「腕のケガに影響が出にくい練習メニューをまとめてみたんだ」
大村のいうとおり、紙には筋トレのメニューなどが図解付きで載っている、いうなれば“手製の解説書”だった。
“りん”は、大村の顔をマジマジと見返した。特に冗談を言っている感じもないのはハッキリとわかった。しかし、このメニュー表がどういう意味を持つのかまではわからなかった。
「甲子園は……八月だからね」
「……え?」
「ボクも山崎も……甲子園に行くんだって本気で思っているよ」
「……っ」
「だから……その時までにはケガを直しておいてほしいんだ。必ず……萱坂さんを甲子園に連れて行くから」
和宏は、大村の浅黒い顔を見ながら、呆気に取られざるを得なかった。気休めでも冗談でもなく……大村は本気で言っていたからだ。甲子園に連れて行く、と。
(そういうこと、か……)
自分のことに手一杯で、思いつきもしなかったのだ。真剣に甲子園を目指しているのは自分だけではない、ということを。
「あの滝南戦以降、みんなにも自信が芽生えたし、最近の山崎なんか研ぎ澄まされてて怖いくらいだよ。きっといけると思う。いや……絶対に行くつもりだよ」
大村の太い眉毛が、固い意志を証明するように吊り上がっている。和宏は、大村が本気であることを確信した。
「信じるよ、大村クン」
“りん”がそう言うと、大村は今しがたのキリリと引き締まった顔が嘘のように照れながら笑った。
「じ、じゃあ……ボクは部活に行ってくるから」
「うん、いってらっしゃい」
「くれぐれも……早くケガを直してね」
「わかってるよ」
大村は、慌てて靴を履き替えながら、逃げるように外に出て行った。勇ましいことを言っていたが、まだ女性の前で緊張してしまう癖は直っていないようだった。和宏は、そんな大村の様子に可笑しさを感じつつ、靴を履き替えて外に出た。
空は広がった雲によって覆い隠されていたが、遠い空の一角だけにポッカリと穴が空き、太陽の光が差し込んでいる。あの差す光は、まるで大村クンが差し伸べてくれた手のようだ……と和宏は思った。
大村は、甲子園への道を諦めていなかった。あまつさえ、“りん”を甲子園まで連れて行こうとしている。
(でも……)
空を眺める“りん”の表情が寂しげに曇った。
(違うんだよ、大村クン……)
甲子園への切符を、自分の力で掴み取ることに意味があるのだから。そして、そうでなくては、母さんとの約束(「俺、りん」第149話参照)を果たしたことにならないような気がするから。そう思いながら、“りん”は大きなため息をついた。
“りん”を甲子園に連れて行く……純粋に“りん”のことを想ったその気持ちは喜ぶべきかもしれない。しかし、それじゃ駄目だと思ってしまう自分がいる。和宏は、珍しく自己嫌悪を感じながら家路を急いだ。
家に辿り着いた“りん”は、いつもどおり鍵を開けて中に入った。真っ直ぐ自室に向かうと、着替える気力もなく、セーラー服姿のままベッドの上に倒れこんだ。同時に、待っていたかのように睡魔が襲い掛かってきた。
(変だな……)
今朝、寝不足だったのは間違いなかった。英語の時間はもちろんのこと、数学や古文の時間にも机の上に突っ伏して寝入ってしまったのだから。それなのに、寝不足が解消されない。いくら寝ても寝足りない感じだ。何かおかしい……そんな疑問を感じる間にも、和宏の頭の回転は徐々に鈍っていった。
(なんで……こんなに……眠いんだ……?)
そして、次の瞬間、“りん”はもう気持ち良さそうな寝息を立てていた。
――To Be Continued




