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さよならは突然に (5)

 街灯だけが照らす薄明かりの下、大吾は、うっかり載せるのを忘れたという暖簾を大事そうに車の中にしまい込んだ。最も大事なものを忘れるなど、大吾らしいマヌケぶりであったが、そのおかげで接触できたのだから……と、和宏は胸を撫で下ろした。


「ところでどうしたの? こんな時間に……? それにその腕……」


 大吾は、白い三角巾で吊られた“りん”の右腕を不思議そうに見ながらそう言った。このケガの原因となった事件のことを大吾は知らない。すでに問題が解決している今となっては、のどかの肉親の大吾に正直に話す理由もない。和宏が「自転車で転んで……」と言い訳をすると、大吾は「りんちゃんも案外ドジなんだな~」と、ギプスで固められた自らの左足のことは棚に上げて可笑しそうに笑った。

 時間は、午後十時になろうとしていた。こんな人影の少ない場所で女子高生が一人佇むには、いささか無理のある時間である。大吾は、荷台の扉を閉めながら


「のどか、かい……?」


と、のどかに会いに来たのか……と暗に尋ねた。“りん”が小さく頷くと、大吾は困ったように肩をすくめた。


「とりあえず……ちょっと向こうに行って話そうか」

「は、はい……」


 松葉杖をつきながら、大吾は、のんちゃん堂の居住玄関前まで軽やかに歩いた。“りん”は、そんな大吾の後についていった。


「一本吸っていいかな?」

「ど、どうぞ……」


 申し訳なさそうに断った大吾は、胸ポケットからタバコを取り出して口にくわえ、素早くライターで火を点けた。一瞬だけ大吾の顔がポゥッとオレンジ色に照らされ、くわえたタバコの先端が線香花火のように赤く灯った。


「今日、のどかに会ったんだって?」


 大吾の人懐っこい笑顔が“りん”の方を向いた。“りん”はコクリと頷いてみせた。


「のどかは“理由”を言ってたかい?」

「“理由”……?」

「ここを立ち去る“理由”さ」


 そう言って、大吾は口からフーッと煙を吐き出した。和宏は、理由……と小声で呟きながら、改めてのどかの言っていたことを思い返してみた。だが、聞いたのは『今夜、ここを立ち去る』という話だけで、その理由を聞いた覚えは確かになかった。


「やっぱり、言ってなかった……か」

「……」


 ひとり言のように呟いた大吾は、エンジンを切って止めてあるのんちゃん号を見据えた。


あの子(のどか)はね……もう、長くは生きられないんだ……」


 大吾は、携帯用灰皿を取り出して、長くなった灰を落とした。舞い昇る紫煙からは、かすかにタバコの匂いが漂い、赤い火の光は大吾の手の動きに合わせて蛍のように舞う。

 和宏は、街灯の明かりに淡く照らされた大吾の顔を呆然として見つめた。軽いジョークだよ……と、軽く舌を出して笑うことを期待して。しかし、大吾の横顔には、いつもの人懐っこい笑みが浮かぶことはなかった。


「この間、みんなで病院に来てくれた時があっただろ?」

「え……、は、はい……」

「あの時から、学校を休んでいろいろと検査はしてたんだ」


 え……? と“りん”は大吾の左足を見ながら戸惑いの声を上げた。あの沙紀たちと一緒に行った病院は、もともと大吾が入院していた病院のはずだったからだ。察した大吾は、右手で頭をかきながら補足した。


「まぁ、俺がケガをして、あの病院に入院したのは、全くの偶然なんだけどね。ただ、一緒に付き添ってくれたのどかがちょうどその頃から体調を崩したんで、ついでに検査してもらったんだよ」


 そう言いながら、大吾はまだギプスの取れない自らの左足をさすった。


「診断が確定したのは、ほんの三日前さ。といっても、本人も覚悟してただろうがね……」

「かく……ご?」


 “りん”は、軽く首を傾げて見せた。もう一度タバコを吸った大吾が、大きく息を吐き出すと、風に吹かれて煙が瞬く間に霧散していった。


「のどかに兄がいて、もう死んだって話は……以前したことあったよな?」

「はい、聞いてます……」

「その兄……悠人の死因がさ……“悪性腫瘍がん”なんだ」


 以前、栞から聞いたことはあった。だが、和宏は初めて聞いたかのように頷きながら、話の先を促した。


「実は、のどかの母親も早くに同じ病気で亡くなってる。遺伝性腫瘍症候群……といってね。簡単にいえば、ウチの母系は遺伝的に“悪性腫瘍”になりやすい家系ってことらしいんだよ」

「……」

「だから、最初の検査で疑い病名が付いた時……のどかが言い出したんだ。『誰もいないところに行こう』ってね……」

「ど、どうして……?」


 大吾の視線が、短くなりつつあるタバコの火とほのかに立ち昇る紫煙をボンヤリと見つめている。だが、その視線はもっと遠く……過去を見ていた。


「あの子は、ずっと悠人のそばで看病してたからね。全部知ってるんだよ。闘病生活の辛さも、痩せ細っていく身体も。そして……」

「……」

「次第に見舞いから足が遠のいていく友だちのことも……」

「……っ」

「もちろん、それは仕方のないことだってことくらいはわかっている。知り合いがだんだんやせ衰えていく様を見続けるなんて……やっぱり友だちの方も辛いからね」


 確かに辛いかもしれない……と思うと同時に、和宏は、そんなことでのどかと疎遠になるつもりなどない……とも思った。だから、大吾の言葉には頷かなかった。


「多分、自分のそんな姿なんか見せたくないって思ったか……あるいは……」

「あるいは……?」

「りんちゃんたちに、そんな辛い思いをさせたくないと思った……か」


 和宏は、虚を突かれたように息を呑んだ。自分の思いを見透かされているような気がしたからだ。大吾は、そんな“りん”の様子に目を細めながら言った。


「きっとね……優しすぎるのさ、りんちゃんは……」


 間隙を縫うように、一際大きな轟音を響かせたトラックが公道を通り過ぎていく。その音が静まるのを待って、大吾はまた続きを話し始めた。


「それを知ってるから、のどかは理由を言わなかったと思うんだ。それがたとえ……りんちゃんであってもね」

「……」

「でもさ、逆に俺はりんちゃんにだけは本当のことを知っておいてほしくてね。余計なことするなって……後でのどかに叱られそうだけど」


 そう言いながら、大吾はおどけるように笑った。手に持ったタバコはもう吸えないほど短くなっていた。


「のどかに……会わせてもらえませんか?」


 通り過ぎていく車のヘッドライトが、まなじりを決した“りん”の顔をほのかに照らす。その“りん”の瞳を見て、大吾は小さく肩をすくめた。それは、肯定とも否定とも判断がつかなかったが、和宏は構わずにのどかが乗っていると思われるのんちゃん号に駆け寄り助手席を覗き込んだ。そこには、シートに体を預けてスヤスヤと眠るのどかがいた。


「寝るのが早いんだよな……のどかは」


 “りん”の背後から、大吾はそう言った。それは、和宏も知っていることだった。一度寝るとなかなか目を覚まさないということも。

 壊れそうなほど小さくて華奢な身体。うっすらと街灯の光に照らされたきめ細やかな肌。柔らかそうな半開きの唇。外側に向かってピンピンと跳ねた艶やかな黒髪。そのいずれもが和宏の胸を高鳴らせる。

 夢を見ている少女のようにあどけないのどかの寝顔。それは、まるで病気云々という話が全て絵空事のようにも感じさせた。


「多分、りんちゃんはのどかに会うためにこんな時間に来てくれたんだろうけど……」

「……」

「でも、のどかはもうお別れ(さよなら)を済ませてしまったんだよ」


 不意に涙を流すのどかの顔が和宏の脳裏に浮かんだ。和宏の記憶にある一番新しいのどかの顔。何度も何度も……それがフラッシュバックし、和宏の胸を締め付ける。


「のどかだってね、好きでいなくなるわけじゃないんだ。出来ることならずっとりんちゃんたちと一緒にいたかったはずさ。でも……お別れ(さよなら)をしなくちゃいけなかった。それがのどかにとってどんなに辛いことだったか……りんちゃんにもわかるだろう?」


 もう一度会えば、もう一度お別れ(さよなら)をしなくちゃいけなくなる。それは酷な話だ……と、大吾は言うのだ。


「だから……このまま行くよ」


 いつの間にか火の消えていたタバコを携帯用灰皿にポイと放り込んだ大吾は、松葉杖をついて歩き始めた。だが、和宏は、まだ話は終わっていないとばかりに大吾を呼び止めた。


「のどかは……一体いつからこのことを知っていたんですか?」


 大吾はピタリと立ち止まった。一瞬考え、静かに答えた。


「悠人が入院した頃には全部わかっていたと思うよ。あれは……頭の良い子だからね」


 松葉杖をついたまま、ふと大吾の目が遠くを見るものに変わった。


「よく悠人を看病してくれてたよ。それだけに、出来れば最後は看取らせてあげたかったな……」

「看取れなかったんですか?」

「あれは、のどかの中学校の入学式の日だった。よく晴れて……病院の近くの桜が咲き誇っていたよ。本当なら、午後からみんなで外に桜を見に行くはずだった」

「桜……?」

「そう。のどかが悠人の車椅子を押してね。入学式の日の朝、そうしたいって珍しく悠人の方から言い出したんだ」

「……」

「でも、それは叶わなかった。悠人は入学式の最中……のどかが学校に行っている間に息を引き取っちまったからね……」


 そういうことか……と、和宏は心の中で頷いた。のどかが、桜に思い入れを持つ理由が、少しだけわかったような気がしたからだ。


「のどかはずっと後悔してたよ。入学式なんかに行ってなければ、あの満開の桜を見せてあげられたのに……って。悠人が自分からそんなわがままを言い出すなんて滅多になかったしね」

「……」

「でも、後悔してるのは俺も同じだ。今まであの子に辛い思いばかりさせてしまったことをさ。我ながら情けない父親だよ……」


 自らの愚かさを嗤いながら、大吾は再び松葉杖をついて歩き出した。もうこれ以上、和宏は呼び止めることは出来なかった。呆然と立ちすくむ“りん”に、大吾は申し訳なさそうに言った。


「りんちゃんが来てくれたことは……ちゃんとのどかに伝えておくから……」


 そう言って、大吾は“りん”のすぐ横を通り過ぎていった。すれ違いざま、大吾の小さな声が確かに和宏の耳に届いた。


 ごめんな……りんちゃん――。




 車の運転席まで辿り着いた大吾は、松葉杖を器用に座席に放り込み、シートに乗り込んだ。エンジンが始動し、ヘッドライトが点灯した車は、小回りの効いた動きで方向転換をしてあっという間に“りん”の視界から遠ざかっていった。あの時のように、テールランプを点滅させることもなく。

 “りん”は、フラフラと玄関の前にまで歩いてしゃがみ込んだ。もはや動く気力さえ失っていた。地面に左手を突き、大きく息を吐く。今の話が全て本当の話であることを確かめるように。

 突いた左手のそばに、いつかのどかと一緒に作った猫の墓があることに和宏は気付いた。おそらく後からのどかが墓標代わりに植えたのだろう。和宏の知らない小さな一輪の花がつぼみをつけていた。


 ――悲しいじゃないか

 ――死んじゃったらもう二度と会えないなんて思っちゃうとね……


 かつて、のどかはそう言っていた。運命の滝南との試合の前日。その時、夜空を見上げていたのどかの瞳を、和宏は今もハッキリと覚えている。誰を想った瞳なのかがわからなかった。だが、今ならばその意味が確信できる。会えなくなってしまった誰かを想った瞳ではなく、いずれ“りん”たちと会えなくなるであろう自分を想い浮かべた瞳だったのだ、と。


(知ってたんだな、最初から……)


(いつかこうなることを……)


 だからのどかは――。




 そう思うと、胸をえぐられるような思いが込み上げ、不意に涙がこぼれ落ちていく。


(チクショウ……)


 訳もなく、対象すらわからない悪態をつきつつ、“りん”は、ゆっくりと左手を振り上げて地面に叩きつけた。衝撃が左手に響いたが、不思議と痛みは感じなかった。



 ――To Be Continued

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