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さよならは突然に (4)

(なぜ俺は、のどかにあんなことをしてしまったんだろう?)

(あんなにも、のどかは悩み苦しんでいるというのに……)


 のどかの柔らかい身体の感触が残る左手で、机をトントンと叩きながら、そんな問答が和宏の頭の中で繰り返される。そして、辿り着く結論はいつも同じだ。もう一度会って話をしたい、でも今さら合わせる顔がない、と。まさに出口のない禅問答だった。

 ことみの作ってくれた夕食にもほとんど手を付けないまま、“りん”は早々に自室に篭って、ただ悶々としていた。考えても結論が出る問題でもないのに、頭の中を駆け巡るのはのどかのことばかりだった。儚く揺れていた深い漆黒の瞳。透き通りそうな白い頬を流れていった涙。そして、和宏に屈託なく微笑みかけるのどかの愛らしい顔を思い浮かべる度に心が痛む。

 のどかは、最後に『さよなら』と言った。もう、和宏と会うつもりはないのだろう。だが、『それはイヤだ』と和宏の心の声はいう。こんな後味の悪い最後さよならは絶対に、と。

 カーテンの外は、もうすぐ完全に夜の帳に包まれようとしていた。急がなければ、『今夜発つ』と言っていたのどかは、和宏の手の届かないどこかへ行ってしまう。

 いつでも出かけられるように着替えてはいた。しかし、心の準備だけがまだ出来ていない。嫌われてしまったかもしれない……という後悔が邪魔をして、ただ時間だけが無慈悲に過ぎていく。焦燥感だけが増していく。そこへ、不意に部屋がノックされる音が“りん”の耳に届いた。


「りんちゃん? お電話よ」


 ドアの向こう側から聞こえる母・ことみの声だった。カチャリとドアを開けると、コードレス電話を持ったことみが心配そうな表情をして立っていた。いつもなら夕食をキレイに平らげる娘が、夕食に手をつけることなく部屋に篭ってしまったのだから、いかに呑気な母親とて当然のことだった。

 “りん”は、心配をかけてしまっていることに後ろめたさを感じながら、わざと明るい表情で礼を言って受話器を受け取った。ことみが少し安心したように階段を下りていくのを確かめてからドアを閉めた“りん”は、おもむろに受話器を耳に当てた。


「もしもし?」

「あ、りん? 私よ、私」

「なんだ、沙紀か……」

「なんだってことないでしょ!」


 電話口の沙紀の口調は、いつもの沙紀と全く変わりないものだった。


「さっきのんちゃん堂に行って来たわよ。今家に帰ってきたとこなの」

(……っ)


 思わず電話を握る手に力が篭る。和宏は、受話器のスピーカーから聞こえてくる声に神経を集中させた。


「同じよ。やっぱり店は開いてなかったわ」

「そう……か」


 何かの朗報を期待した和宏だったが、肩透かしを喰らったようにあからさまに落胆せざるを得なかった。そんな“りん”の様子を察した沙紀は、電話の向こう側からくぐもった声で呟いた。


「何か……あったんでしょ?」

「え……、な、何が……?」

「授業サボって帰ってきてから、ずっと塞ぎこんでるじゃない」

「そ、そうかな……そんなこと……」


 昼間、裏山でのどかと話し込んだのは四時間目の授業中のことだった。教室に戻った後、先生からこってりと絞られたのは言うまでもない。和宏は、内心ギクリとしながら、誤魔化すように答えた。だが、沙紀には全く通用しなかった。


「アンタねぇ、それでちゃんと隠せてるつもりなの? 東子も栞も心配してたわよ!」

「……」

「今さら私たちに何を隠し事する気?」


 一年以上の間、親友として付き合い、さまざまな苦楽をともにしてきた沙紀と東子。“りん”の方が一方的に閉口する場面も多かったが、それでも三人は親友としてやってくることが出来たのだ。

 沙紀の口調がいつになく優しくなり、語り掛けるようなものに変わる。普段は憎まれ口を叩きながらも、心の奥底ではちゃんと相手のことを思いやっている証拠だった。だが、のどかの正体は、誰にでも話していい内容ではない。それがたとえ、どんなに近しい親友だったとしても、だ。

 答えに窮した和宏は黙ることしか出来なかった。受話器の向こうからは、不思議と沙紀が不機嫌になっていく様子が手に取るようにわかった。


「私にも言えないワケ?」


 受話器越しの沙紀の声には、明らかに怒気が混じっていた。このまま黙っていれば沙紀のことである……きっと怒りながら受話器を叩きつけるに違いない。初めて出会ったあの頃のように。そう思うと、あの時は凹んだよなぁ……というある種の懐かしさとともに、和宏の中に可笑しさが込み上げてきた。その時と比べれば、こうして沙紀と気心の知れた友人として何でも普通に話せるだけで随分とマシに思えた。


「あのさ……沙紀?」

「何よ?」

「もしも、の話だけどさ……」

「……」

「友だちを泣かせちゃって……もう一度会ってちゃんと話をしたいんだけど、そんな時どんな顔して会えばいいと思う……?」


 一瞬、面食らったように沙紀は押し黙った。かなり下手な部類の例え話に面食らうのも致し方なかったが、沙紀の切り返しは見事に的を射ていた。


「その友だちって……のどかのことでしょ?」


 沙紀がズバリと言い当てる。グゥの音も出なくなった和宏に、沙紀はクスリと笑った。


「はいはい。もしもの話……だったわね? で?」

「う、うん……、そんな時、沙紀なら……どうするかなって……」


 一瞬の間を置いて、今度は沙紀が電話口の向こうでケタケタと笑い出した。和宏はちょっとムッとしながら


「べ、別にいいだろ! もしもの話って言ってるじゃん!」


と、口を尖らせた。ひとしきり笑い終わった沙紀は、それでもまだクスクスと笑いながらも続けた。 


「ごめんってば。でも……りんってホント不器用よねぇ……」

「な、何がさ……」

「そこがアンタのいいところだって言ってんのよ」

「……?」


 沙紀の言う意味が分からずに、受話器を持ったまま和宏は目を丸くした。その顔が見えているかのように、また沙紀は笑った。


「そうね、私ならちゃんと顔を突き合わせて話をするのが一番だと思うけど?」

「でも、どんな顔して会えばいいか……」

「それならちょっと時間を置けばいいのよ。何やらかしたのか知らないけど、終わってみればどうせ笑い話になってるわよ」


 何か軽い喧嘩でもした……と思っているのであろう。沙紀の口調には、そんな楽観的なものが混じっていた。


「もう今日しか……時間がないんだよ……」


 搾り出すような“りん”の声に、沙紀の表情が一変した。それは和宏からは見えなかったが、不思議と受話器越しに感じることが出来た。


「それ、どういうことなの?」

「……」


 刺すような沙紀の問いに、和宏は何も答えることが出来なかった。二人とも押し黙り、不自然な沈黙が続く。そして、根負けしたのは沙紀の方だった。


「……だったら、尚更……よね?」

「……」

「話をしなきゃ何も伝わらないのよ? そんなのイヤでしょ?」


 沙紀の声が、和宏の心に響く。心にかかったモヤが晴れていくような……そんな気がした。


「だったら答えは一つしかないじゃない。どんな情けない顔しててもいいから、まずは会うべきでしょうが!」


 どんな顔をしてのどかに会えるだろう……などと、ついさっきまでクヨクヨしていたことが滑稽に感じられた。まずは会うこと……それが一番大事だと、今さらながら和宏は気付いたのだ。

 反射的に部屋の時計を見ると、すでに午後八時を回っている。予想以上の長電話だった。のどかの家までは、走れば十五分程度で着く。もう和宏の中では、すべきことは決まっていた。


「沙紀……」

「……?」

「電話してきてくれて……本当に良かったよ」


 もし、沙紀からの電話がなかったら、今頃まだ一人で悶々としていただろう。そう思った和宏は、背中を押してくれた沙紀に対して、素直に自分の気持ちを言葉にした。


「な、何よ、突然かしこまって……」


 沙紀のドギマギしている様子が電話越しに和宏まで伝ってくる。そんな珍しい沙紀に、和宏は冷やかしを入れたい気持ちになったが、時間がなかったため何も言わなかった。


「じゃあ、行ってくる!」

「今からのどかにちゃんと会えるワケ?」

「それは……わからないけど……」


 だが、行かないわけにはいかなかった。そんな和宏の気持ちが伝わったのか、沙紀は諦めたように言った。


「まあいいわ。事情がサッパリ飲み込めないけど、のどかのことはアンタに任せるから」


 ベッドに腰掛けていた和宏は、受話器を持ったまま立ち上がった。


「サンキュー、沙紀」

「その代わり……後でちゃんと私たちに結果を報告してよね、りん?」

「わかったよ」


 終話ボタンを押すと、沙紀の声が聞こえなくなり、代わりにツーツーという音が聞こえた。モタモタしている暇はなかった。“りん”は部屋の電気を消し、居間でテレビを見ていることみに見つからぬようにコッソリと家を出た。


◇◆◇


 午後から降り出した雨はすでに止み、“りん”は道路のくぼみに出来た水溜りを避けながら、のどかの家……のんちゃん堂まで走った。

 昼間、そこそこの交通量があるのんちゃん堂の前の道路も、夕方のラッシュが終わる頃にはすっかり車通りが少なくなり、日の落ちた夜の濃い闇が、のんちゃん堂の建物を覆っている。辛うじて、等間隔に設置された車道の街灯のおかげで、電灯一つついていないのんちゃん堂の建物がうっすらと明かりに包まれているのが救いだった。


(ここにはもう何度来ただろうな……)

 

 そう思いながら、和宏はのんちゃん堂の玄関前から二階建ての建物を見上げた。湧く感慨とともに“りん”は、真っ暗な店内を気にすることなく入口のガラス戸に手を掛けた。だが、鍵がかかっていて開かない。予想していただけに落胆することはなかったが、そのガラス戸の向こうにかけられたままの暖簾を見て、とりあえず和宏は安堵した。ここに店が引っ越してきた時、一緒に持って来られた老舗の証の暖簾である。店にとっては大事なものと思われるだけに、まさか置き去りにはしないだろう……と和宏は考えたのだ。

 店の入口前で佇みながら、いつか来るであろうのどかを、ただひたすら待つ。たまに店の前の道路を車が通り過ぎていくだけの単調に時間が続いた。時計が午後九時を刻む頃には、ただでさえ少なかった車通りはさらに減っていた。

 待っている時間が長くなるにつれ、和宏の胸中に少しずつ不安が湧き上がってきた。ひょっとして、もう古ぼけた暖簾など放置して発った後ではないのか……という疑心暗鬼。にわかにざわめき出した心に、そんな嫌な予感が増幅されていく。

 “りん”が無意識に唇を噛み締めた時、一台の車がのんちゃん堂の敷地の中に無遠慮に入ってきた。恐ろしいほど派手な塗装が施された車体が目を引くのんちゃん堂の車……のんちゃん号である。無数に取り付けられた電飾は点いてはいなかったが、その派手さに変わりはなく、この暗闇の中でも充分な異彩を放っていた。

 無造作に停車したのんちゃん号のヘッドライトが、店の入り口で佇む“りん”の姿を捉える。そして、運転席から松葉杖をついた男が降り立ち、第一声を放った。


「ひょっとして、りんちゃん……かい!?」


 男の驚声が辺りの静寂の中に場違いに響いた。その声の主は、のどかの父・大吾だった。



 ――To Be Continued

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