さよならは突然に (3)
春、桜の花びらをどこか遠くへ運んでいった風が、今は少しだけ大人しい。それでも、たまに吹き抜ける生温かい風は、葉桜をザワザワと揺らしていく。西から東へと流れる灰色の雲は、もうすぐ雨が振り出しそうな予感を見る者に与えていた。
“りん”とのどかが佇む裏山は、厚い雲に覆われ日差しを失った空の下、シンとした静寂を保っている。まるで、“りん”の問いに対するのどかの答えを促すかのように。
「のどか……?」
“りん”は、ピクリとも動かなくなってしまったのどかに恐る恐る問いかけた。だが、のどかからは反応もなく、焦点の合わない視線は、時が刻みをやめてしまったかのように動かぬまま。ただ、弱々しい風がのどかの髪を小刻みに揺らしているだけだった。
風が鳴り、草木がざわめく音の中で、時間だけがただ静かに過ぎていく。のどかが口を開いたのは、一際強い風が吹き抜けていった後だった。
「それ、わたしが言ったんだよね……?」
「え……? あ、あぁ、そうだよ。前にここでのどかがそう言っただろ?」
「……」
かつて、のどかの正体が兄である“悠人”であることと、その悠人は“この世界”の悠人ではなく“悠人の世界”の“悠人”であること。そのいずれも、のどかが和宏に教えてくれたことだ。しかし、当ののどかは、まるで出口のない迷宮に迷い込んでしまったかのように俯いたまま黙り込んでいる。のどかの両手はいつの間にか固く結ばれ、その両肩はかすかに震えていた。
「ど、どうしたんだよ……一体?」
“りん”の声に戸惑いの色が混じる。雨の予感を忍ばせた湿っぽい風は、のどかの髪を遠慮なく揺らし、頭上の葉桜をざわめかせた。さらに両手に力を込めたのどかは、意を決したように俯いていた顔を上げた。その大きな瞳には、いつもと違った弱々しい光を放っていた。
「もう、覚えていないんだ……」
「……え?」
「わたしは……悠人だった時のことを……もう覚えていないんだ……」
途切れ途切れに発せられるのどかの声は、弱々しい風の音にさえ、かき消されてしまいそうなほど小さかった。一瞬、和宏には意味を理解することが出来ず、これは何かの冗談か……とさえ思った。しかし、何かに怯えたような表情ののどかからは、少なくとも冗談ではない雰囲気だけがハッキリと窺い知れた。
「どういうこと……だ?」
そう尋ねるしかない和宏を、一回り背の小さいのどかが見上げる。
「思い出すことが出来ないんだよ……悠人だった時のこと……全て」
のどかは、その表情を切なげに曇らせながら、いつもののどかとは別人のように力なく揺れている瞳で和宏を見つめた。事態を捉えかねて混乱した和宏は
「なんで……? どうして……っ?」
と、繰り返すことしか出来なかった。固い表情のまま、何度も小さく首を振ったのどかは、静かに和宏の質問に答えた。
「わからない……」
「わからないって……」
“りん”の表情には、明らかな当惑が浮かんだ。しかし、のどかは珍しく苛立ちに近い感情を込めて
「どうでもいいんだ、原因なんて……」
と、まるで何かを振り払うように首を振った。結んだのどかの両手が固く……いっそうの力が篭る。和宏の当惑がさらに増したが、のどかは構わずに続けた。
「ただ、一つだけ……知りたい……」
「知りたい……?」
のどかがコクリと頷く。和宏は思わず息を呑んだ。
「わたしは……本当に“悠人”だったのかな?」
それとも……最初から――。
頭上に緑を生い茂らせた桜の枝葉が、和宏とのどかの心中を表すように風に揺れてざわめいた。和宏は、声を上げることすら忘れ、口を半開きにしたまま。そんな和宏の反応を予想していたのだろう……のどかは、顔色一つ変えることはなかった。
「もうわからないんだ……。自分が本当に“悠人”だったのかどうかさえ……もう、わからなくなっちゃったんだ……」
そう言って自嘲するように笑う。のどからしくない乾いた笑い方だった。
「だから……知りたいんだよ、和宏……」
のどかの瞳は、今にも涙がこぼれそうなほど潤んでいた。その瞳を見て、和宏はある既視感を覚えた。以前、ここでのどかが“自分は悠人だ”と教えてくれた時の表情と同じだ、と。何かが繋がったような気がした。
今でも心に焼きついたようにハッキリと記憶に残っている。触れただけで壊れてしまいそうな儚げな瞳だった。おそらく、その時には気付いていたのだろう。『自分は悠人だ』と言いながら、ひょっとしたら“悠人”ではないかもしれない自分に。
妙にジットリとした不愉快な風が、“りん”の肌にまとわりついては通り過ぎていった。今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした鉛色の空。今夜半から雨……というのが今日の天気予報だったが、夜を待たずして降り出すかもしれない……と思わせる空模様だった。
のどかが、自身の体を抱えるように両腕を掴む。そのセーラー服の袖を掴んだ両手には、これ以上ないほど力が篭っていた。肩は小刻みに震え、いつもの童顔が潤んだ瞳を携えて“りん”を見上げる。捨てられて行くあてを失くした仔犬のような頼りなげな瞳で。
“悠人”なのか?
それとも、最初から“のどか”だったのか?
その答えは……もちろん和宏にわかるはずもない。こんなのどかを見たのは初めてだった。すがるような表情で和宏を見つめるのどか。その瞳は儚く揺れている。和宏は、心臓の鼓動が次第に速さを増していくのを感じ、そして思った。
放っておいたら、このまま本当に消えてしまうんじゃないか――?
思わずのどかを抱き締めてしまいたい衝動が和宏を駆る。いや、むしろ、そうしなくてはいけないとすら思った。このまま消えてしまわぬように。ここに繋ぎ止めておくために。
和宏は、魅せられたように一歩一歩のどかに近づいていった。そして、手を伸ばせばのどかに触れる距離まで近づいた時、初めてのどかは異変に気付いた。
「和宏……?」
和宏は、のどかの目の前に立ち止まった。和宏の視界にのどかの顔が広がり、大きくてクリクリとした可愛らしい瞳が涙を溜めて潤んでいる。心の中が揺れているのがハッキリとわかった。
のどかは、目前に迫った“りん”の顔に混乱し……驚いていた。和宏は構うことなく……魔法をかけられたように、左腕をのどかの背中に回し、力を込めてグイッと抱き寄せた。
「……っ!?」
のどかは、驚きの声をあげた。“りん”の心臓は、とんでもないほど早く強く脈打っている。きっと“りん”の胸に顔をうずめる形になっているのどかには、この音が丸聞こえに違いないだろう。
意外なほど柔らかくて、温かいのどかの身体。出来ることなら両腕でしっかりと抱き締めたいのに、三角巾で吊られて動かない右腕がもどかしい。だが、それでも腕の中にいるのどかが、ただひたすら愛おしかった。
どの程度の時間、二人はそうしていただろうか。何が起きているのかわからずに、ただ驚いていたのどかが、“りん”の腕の中でモゾリと動いた。
「か……ず……ひろ……?」
遠慮がちにもらしたのどかの声に、ようやく和宏は我に返った。“りん”は、即座にのどかから離れ、二、三歩後ずさっていく。のどかの顔だけでなく“りん”の顔にも、何が起きたのか理解できないといった類の驚きの表情が浮かんでいた。
何も言葉を発することが出来ず、見つめ合う二人。なんてことをしてしまったんだろう……後悔だけが、和宏の頭の中を駆け巡る。そんな和宏に追い討ちをかけるようにのどかの声が響いた。
「どうして……?」
困惑の表情を浮かべたのどかの視線に、和宏は思わず目を背けた。なぜこんなことをしたのか……和宏自身にも上手く説明できなかったからだ。ただ、してはいけないことをしてしまったような感覚が和宏の心をひたすら責め立てる。
時間だけが無為に流れた。わずか1メートルしか離れていない二人の間を、まるで引き裂くようにジメジメした風が吹き抜けていく。のどかと“りん”のえんじ色のスカートと黄色のスカーフが強くはためき、“りん”のポニーテールが大きく揺れた。
和宏は、のどかと目を合わせることもできず、俯いたまま押し黙ることしかできなかった。のどかの視線からは刺すような居心地の悪さを感じる。急き立てるような空気は、和宏に一言だけ……陳腐な台詞を吐かせた。
「ご……ごめん」
そして、また針のむしろのような沈黙の時間が続く。それに耐えかねたように、先に動き出したのはのどかの方だった。歩き出したのどかは、一言もしゃべることなく“りん”のすぐ横を通り過ぎていった。まるで“りん”を無視するように通り過ぎていったのどかに、和宏は
「の、のどかっ!」
と、上ずった声で呼び止めた。斜面を降りていこうとしていたのどかの足がピタリと止まり、のどかはゆっくりと“りん”の方を振り返った。
(――っ)
のどかの瞳から、大粒の涙が一筋零れ落ちた。初めて見るのどかの涙。一気に溢れ出た涙が、次々に零れ落ちていく。
「さよなら……」
消え入りそうなほど小さい声でそう呟いたのどかは、踵を返して、そのまま斜面を駆け下りていった。和宏は、もうのどかを呼び止めることは出来なかった。ただ、遠ざかっていくのどかの背中を見つめ、立ち尽くす。
(何やってんだ……俺……)
限りなく黒に近い後悔が胸の中に渦巻き、最後には拭いがたいわだかまりだけが残った。雨が一粒、ポツリと“りん”の頬を叩く。いっそのことバケツをひっくり返したような雨が降ってくれればいいのに……と和宏は思った。そうすれば、この苦々しい思いをキレイに洗い流してくれるだろう、と。だが、そんな和宏の希望とは裏腹に、雨はなかなか降り出さなかった。
――To Be Continued




