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さよならは突然に (2)

 のどかが再び学校を休み始めてから一週間が過ぎた。“りん”たちが足繁くのんちゃん堂に様子を見に行くものの、年季の入った暖簾は相変らず店の中に仕舞われたまま。普段ならば見かける常連客の姿もなく、店の周囲はひっそりと静まり返っていた。

 五月も終わりに近づき、日に日に強くなっていく日差しが、晩春の気配を跡形もなく押し流そうとしている。取って代わったのは、垂れ込めた灰色の雲とうんざりするような連日の五月雨。そして、梅雨が明ければ、甲子園を目指す球児たちの夏はもう目の前だ。

 和宏は、ふと白い三角巾で吊られた右腕を見ながらため息をついた。この右腕さえ無事なら……と今でも思う。数日前……“りん”のケガが野球部のメンバーに知らされた時も、山崎や大村の表情には、そんな口惜しさが込められていた。

 まぁ、ケガしちまったもんはしょうがねぇよな……という、その時の山崎の苦しいフォローは、和宏にとっては痛くもあり、ありがたくもあった。


「な~んかさぁ……気が滅入ってくるよね~?」


 唐突に、隣を歩く上野が、どんよりと曇った窓の外の方を眺めながら、女子高生らしからぬダミ声で“りん”に同意を求めた。和宏は、慌てて憂鬱な表情を引き締めつつ、上野の方に顔を向けた。

 上野は、自他共に認める小太りのおばさん体型で、中年太り然とした腹を自分で叩いては“太っ腹”と言い放つ豪放な性格をした“りん”のクラスメイトだ。そんな上野が、“りん”と肩を並べて歩いている。


「まぁ、ね。梅雨だし、仕方ないと思うけど」


 “りん”は、苦笑しながら答えた。二人の話し声と靴音が、いつになく静かな廊下に響き渡る。人気のない廊下……それもそのはず、今は四時間目の真っ最中……つまり授業中なのだ。授業に使うパネルを資料室から持ってくるよう頼まれた日直の“りん”と、ケガをしている“りん”のフォローのため先生に付き添いを命じられた上野。なんとも珍しいツーショットだった。


「ところでさぁ……」

「何?」

「りんって誰か好きな男性ひといないの?」


 上野の予想外の一撃に“りん”は思わずむせ返った。


「~っ、な、何だよ突然……?」

「いいから! いるならワタシに教えてよ! いろいろ協力するから!」

(どんな協力だ……っ?)


 目を可憐な乙女のように輝かせている上野を見て“りん”は苦笑する他なかった。何しろ“歩く噂話拡声器”と言われるほどの噂話好きである。たとえ冗談でもポロリと一言もらせば、その日のうちには尾ひれのついた話がクラス中に広まっていることだろう。


「いないよ、そんなの」

「え~!? そこを何とか!」

「イヤイヤイヤ、いないものはいない」


 必死に食い下がる上野を、にべもなく突き放す。とはいえ、実際にいないのだから仕方がない。上野は、不満そうに口を尖らせた。


「じゃあさ、じゃあさ、気になる人くらいいるんじゃない?」


 この人は何故こんなに必死なのだろう……と思いながら、“りん”は再び苦笑いをした。だが、こういう地道な情報収集を怠らないからこそ、自然に噂話のネタが集まって情報通と言われるようになるのである。

 不意にのどかの顔が脳裏に浮かび、和宏の心臓がドキリと跳ねた。“気になる人”を聞かれ、自然にのどかの顔を思い浮かべてしまったからだ。だが、和宏は、行方がわからないでいるのどかのことが気になるのは当たり前なのだ……と、慌ててそれを打ち消した。


「特にいないなぁ……」

「え~……!?」


 上野は、不服を申し立てるようにさらに口を尖らせ、しまいには


「りんのケチ~」


と、冗談めかして毒づいた。愛嬌あるおばさん顔の上野と笑い合いながら、“りん”は相変らず雲の垂れ込めた窓の外をチラリと見た。廊下の窓から見えたのは、ちょうど生徒用玄関の出入り口辺りだったが、そこに和宏は見覚えのある人影を捉えて息を呑んだ。


(のどかっ!?)


 後姿であったが、くるりと外はねした髪の毛と人一倍小さな身体は、間違いなくのどかのそれだと和宏は確信した。そののどかが、生徒用玄関を出てゆっくりと歩いていく。和宏は、持っていた授業用のパネルを上野に押し付けた。


「ちょっと、りん! どうしたの!?」

「ごめん、ちょっと!」


 返事にならない返事をして、“りん”は他に誰もいない廊下を全力で駆け出していた。


◇◆◇


 雲が青い空を覆い隠し、今にも雨が降り出しそうな空模様。天気予報では一日曇り空のはずだったが、どうやらそれは外れてしまいそうなほどの濃厚な灰色の雲だった。

 生徒用玄関から外に出た“りん”は、誰もいない校庭を走り抜け、校門から周りを見渡した。全学年が授業中のため、校庭には人っこ一人おらず、校門の外にものどかの姿は見えなかった。


(いない……?)


 和宏は、茫然自失としながらそう思った。疑問は次々に浮かんでくる。なぜ、こんな時間に、こんな場所で。そして、どこに消えたのか。校門口からは一本道が真っ直ぐに続いている。歩いて校門を出て行ったのなら、その後姿が見えて然るべきだった。たとえ走ったとしても、この短時間で見えなくなるほど遠くに行ってしまったとは考えにくかったからだ。


(見間違いだったのか……?)


 さっきまでの確信がわずかに揺らぐ。だが、あれは絶対にのどかだと思い直した和宏は、ある“一つの可能性”に思い当たった。それを確かめるために、“りん”は校庭を反対方向に走り出した。

 どこかのクラスが授業で使っているらしき騒がしい体育館の横を抜け、裏山の斜面を駆け上がる。そこで、和宏はようやく見つけた……切り株に腰を掛けて、ぼんやりと視線を宙に漂わせるのどかの姿を。その視線の先には、あの一本桜があった。沙紀や大村たちと花見をした三月、見事なほど咲き誇っていた満開の花はすでに散り、代わりに葉桜の鮮やかな緑が映えていた。

 “りん”は、息を切らしながら斜面を駆け上り、一気にのどかのそばまで辿り着いた。


「和宏……っ!」


 のどかは、弾かれたように立ち上がり、もともと大きな瞳をこれ以上ないほど見開いて驚いてみせた。


「どうして……? 授業は?」


 今の時間は、全てのクラスが授業中である。和宏は、授業を無断で抜け出した形になっていることに気が咎めながらも、今はのどかが目の前にいることの方が大事だと思った。


「ちょっとな……、それより、のどかこそどうしたんだよ……こんな時間に」


 あの事件の後、学校に出て来ていなかったこと。そして、今いきなりこんな時間に学校にいること。和宏にとって、聞きたいことは山ほどあった。のどかは、答えにくそうに躊躇しながらも口を開いた。


「ただの……あいさつ、だよ」

「『あいさつ』……?」 


 “りん”の表情に怪訝な色が混じる。だが、のどかは構わずに続けた。


「学校を……辞めるんだ」


 予想外の答えに、一瞬“りん”は口をアングリと開けて呆然となった。あまりにも青天の霹靂……無理もない話だった。


「ちょ、何……何を言ってんだよ!」


 冗談を笑い飛ばすかのように、半笑いを浮かべながら聞き返す。冗談だと思った……というよりも、冗談だと思いたかったというところが本当だろう。だが、のどかはこんな冗談を口走るような人間ではないことを和宏はよく知っている。それでも和宏は、この悪い夢のような雰囲気を少しでも吹き飛ばしてしまいたかった。しかし、そんな和宏の試みは虚しい結果に終わった。


「さっき、退学届を提出してきたんだ。先生たちには随分と驚かれたけど」

「そりゃ驚くだろ! なんでだよ! なんで急にこんな……っ!?」


 “りん”は、掴み掛からんばかりの勢いでのどかに詰め寄った。その真剣な眼差しを避けるように……のどかはゆっくりと目を伏せた。


「『急に』じゃないんだ……」

「え……?」


 困惑と動揺。にわかには意味を理解しかねる答えに、和宏は再び固まるしかなかった。


「本当は……和宏にももう会わないつもりだった」

「……っ」

「合わせる顔がないからさ」


 そう言って、のどかは自らを嘲るように小さく笑った。


「でも、そんなのやっぱり……ちょっとムシが良すぎたよね」

「……?」


 のどかの視線が、一瞬だけ“りん”の三角巾で吊られた右腕に向けられる。そして、のどかは深々と和宏に頭を下げた。


「本当に……ごめんなさい……」


 和宏の、甲子園への想いのほどを……のどかは知っている。亡き母に向けた真っ直ぐな想いを。約十秒ほど、頭を下げ続けたのどかは、ゆっくりと頭を上げた。


「謝って済むことじゃないってわかっているけど……」


 そう言うのどかの表情には、まるで罪の意識を抱え込んでいるように自責の念が混じっていた。それが、和宏には我慢ならなかった。


「違うだろ! これはのどかのせいなんかじゃないのに……っ!」


 ギプスで固められた右腕をさすりながら、語気を強めた“りん”の声が辺りに響く。のどかは目を伏せたまま、否定も肯定もしなかった。和宏自身は、この右腕のケガがのどかのせいだとは寸分も思っていない。だから、自然に和宏の口調には熱が篭っていった。


「いいんだよ、こんなケガのことなんか。もう終わったことなんだ。一緒にいればいいじゃん。今まで同じように――」

「それは……出来ないんだよ」


 和宏の台詞を途中で遮ったのどかは、強く……はっきりと言い放った。和宏が驚きとともにのどかの顔を見返すと、その大きな瞳は、悲しいほど深く黒く、奥底で儚く揺れていた。和宏は、思わず言葉を飲み込んだ。


「もう、今夜発つから……」

「――っ!」


 あまりの唐突さに一瞬絶句した和宏は、次の瞬間には大きな声で聞き返していた。


「なんで!? 悪いのは漆原アイツなのに! なんでのどかがいなくならなくちゃいけないんだよ……っ!? おかしいだろっ!」


 納得いかない口ぶりの和宏を見て、のどかはポソリと呟いた。


「やっぱり……和宏は優しいね……」


 そういいながら、のどかがまた静かに目を伏せた。


「優し……すぎるんだよ……」

「……?」


 “りん”の顔に明らかな戸惑いの色が浮かんだ。のどかの言葉の意味が、にわかには理解できなかったからだ。

 際立って強く吹いた生温い風が、枝葉を揺らして通り過ぎていった。“りん”の髪ものどかの髪も揉みくちゃにされたが、二人とも髪を気にすることすらしなかった。その時、のどかの胸ポケットから、場に不釣合いな電子音がワンコールだけ鳴った。おそらくメールだったのだろう。携帯の画面を一瞥したのどかは“りん”の方を向き直した。


「ごめん、まだやらなくちゃいけないことがあるから……もう行くよ……」


 申し訳なさそうに沈むのどかの瞳。


「ま、待てよ! どこに……一体どこに行く気なんだ!?」


 和宏は、混乱しながらも大きな声で聞き返した。しかし、のどかの答えは予想をはるかに超えていた。


「わからない」

「ハァ?」


 “りん”の素っ頓狂な声に、ようやくのどかがクスリと笑った。


「お父さんと一緒に車でね、行き先を決めずに出るんだ」

「なんだよ、それ……」

「大丈夫だよ。そういうの初めてじゃないし」

「……え?」

「ずっと前……わたしが小学一年生の頃、同じように一週間くらい行くあてもなく彷徨ったことあるんだ。()()()()()()で」


 まるで、楽しかった思い出を懐かしむように……のどかが語る。しかし、そこに和宏は微妙な違和感を嗅ぎ取った。


「家族三人全員?」

「うん」


 和宏は、のどかの顔を不思議そうに凝視した。和宏の中で燻っていた違和感が一気に膨れ上がったからだ。


 のどかのいう思い出とは、“悠人”の思い出(もの)なのか、“のどか”の思い出(もの)なのか――?


 もし“悠人”の思い出だとすれば、“家族三人”ではないはずだった。ある“大切な人”が抜けていることを和宏は知っている。そして、もし“のどか”の思い出だとすれば……なおのこと不自然だ。和宏の身に例えるなら、“りん”の思い出を和宏が楽しそうに語るようなものなのだから。

 和宏は、のどかに確かめるべきだと思った。その答えが全てを解き明かすだろう……とも。


「なぁ、のどか?」

「……?」

「のどかの……、いや……」


 ()()()()()って……どんな人なんだ――?


 和宏の渾身の質問に、のどかが戸惑いながら首を傾げた。


「な、なんだい、急に?」

「いいから答えて」


 和宏は、有無を言わせず、のどかに答えを促した。のどかと、悠人の世界の“悠人”の家族構成には決定的な違いがある。のどかの答え次第では、それがハッキリするはずなのだ。のどかは、当惑しながらもキッパリと答えた。


「よく覚えていないんだ。お母さんはわたしが小さい頃死んじゃったから……」


 やはり……という思いが、和宏の中を駆け巡る。同時に、一体なぜ……という疑問もまた湧いた。違和感はモヤモヤした形で残っている。それが何を意味するのかは和宏自身にもわからない。それでも確かめないわけにはいかなかった。


「あ、あのさ……」

「なんだい?」


 眉間にシワを寄せた“りん”の顔を見て、のどかの表情には色濃い当惑が浮かんでいる。だが、和宏は構うことなく核心を突いた。


「確か、悠人の世界の両親って……()()()()()()()()って言ってたよな?」


 以前……この場所でのどかの正体を明かしてくれた日、その時の話では、今ののどかの家庭は“りん”と同じ片親だが悠人の世界では違う……と間違いなく言っていた(「俺、りん」第116話参照)のだ。先ほどののどかの答えは、何かに綻びがあることを教えている。悠人の世界では両親が健在だったという話が本当ならば、悠人のどかに母親の記憶がないはずがないのだから。

 和宏は、確かに矛盾を指摘した。だが、当ののどかは和宏の目の前で大きく目を見開いたまま立ちすくんでいる。そののどかの存在が、一瞬だけ虚ろに揺らめいたように和宏には感じられた。



 ――To Be Continued

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