さよならは突然に (1)
鼻をつままれてもわからないほどの真っ暗闇の中、和宏を呼ぶ声だけが聞こえてくる。決しておぞましい声ではなく、むしろ懐かしい声のような気がした。だが、返事をしようにも、まるで金縛りにあったように身体も動かない。
呼ぶ声は何度も繰り返された。そして、少しずつ……確実に近づいてくる。和宏は、そう感じた。
(これは……きっと夢だ……)
この非現実的な空間が、和宏を確信に導いた。以前にも同じような夢を見た記憶があったからだ。
この声は一体誰なんだ……と、耳を澄ます。その時、沙紀と東子の声が邪魔をした。
「そっちに行ったらもう戻れないって言ったでしょ」
「そうだよっ! だから、コッチにおいでっ♪」
二人の声は、すぐ隣から聞こえてきた。
(そういやそうだったな……)
和宏は、以前にも沙紀と東子が夢の中で同じことを言っていたことを思い出し、踵を返そうとした。しかし、身体はピクリとも動くことなく、逆に右腕にハンマーで殴られたような激痛が走った。
(痛っ!)
その痛みで、和宏は目覚めた。
意識を取り戻した和宏は、ベッドの上に横たわったまま、周りをキョロキョロと見渡し、大きく安堵のため息をもらした。そこは、いつもの見慣れた“りん”の部屋だった。
窓の外からはスズメの鳴き声が朝の訪れを歌い、階下からは“りん”の母親であることみの包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。なんて平穏な朝なんだろう……と、和宏は思った。まるで、三日前にあった悪夢など嘘であったかのように。しかし、右腕に走る痛みが、それは嘘ではなかったのだと無情にも告げていた。
突然目を覚まし、鉄パイプで“りん”に襲い掛かった漆原は、のどかを助けてホッとしていた“りん”を、ガードした右手ごと薙ぎ払った。地面に身体を打ち付けられた“りん”は、怒りで狂気に震える漆原の前に絶体絶命のピンチに陥った。だが、そこを救ったのは、まさに無我夢中で漆原の股間に手加減なしの蹴りを食らわせた沙紀だった。ほぼ執念だけで立ち上がっていた漆原にとって、二度目の股間への強烈な打撃はトドメに等しく、盛大に泡を吹いた漆原は今度こそ本当に気絶した。
もちろん、そのまま放っておいたのでは復讐を企ててくる恐れがあったため、栞はビデオカメラで撮影した動画の一部をメモリーカードにコピーし、倒れている漆原の脇に置いた。
拘束したのどかを蹴り飛ばす漆原、鉄パイプを振り回している漆原、口から泡を吹いて無様に失神している漆原。その一部始終が動画として収められているメモリーカードだ。こちらは、この動画をいつでも公開できる……そういう意思表示である。
もしネットで公開されてしまえば、それは瞬く間に世間に広がり、漆原一族の致命的なスキャンダルのネタになりかねない。もちろん一族だけでなく、プライドが高い漆原自身にとっても耐え難い大恥になるはずである。
事件当日から今日で三日目を迎えたが、漆原サイドからの接触は今のところ皆無だった。動画データを奪い返そうとする動きすらないのは、一般人でも動画をネットで拡散する方法がいくらでも存在することを熟知しているからだろう。つまり、これ以上波風を立てないのが、動画を公開されずに済む最善の方法だと漆原サイドが判断した可能性が最も高い……ということだ。
そう考えれば、事件はもう事実上の終焉を迎えたといって差し支えなかった。だが、傷跡は確実に残っている。“りん”は、ギプスで固められた自分の右腕をチラリと見やった。利き腕である右手首の骨折……全治三ヶ月。七月に行なわれる甲子園予選にはもう間に合わない。苦労して切り拓いた“甲子園への道”は、あまりにもあっけなく閉ざされてしまっていた。
◇◆◇
「オハヨー!」
二日間の入院を経て、朝、二日ぶりに学校に出てきた“りん”に対して、あえて明るく振舞っているのであろうクラスメイトたちが、次々にあいさつをして出迎えた。誰もケガのことを聞いてくることもなかった。前日のうちに、沙紀たちが“りん”のケガについてクラスメートたちに事前説明をしておいたからだ。原因は『四人でサイクリングをした際に転んだから』である、と。真実を語れば、話が大事になるだけでなく、のどかの過去までもが明るみに出てしまう。栞も、沙紀たちも、もちろん和宏も、それだけは避けたかった。
“りん”が席に着くなり、三年になって席が遠く離れてしまった沙紀と東子が、待っていたように“りん”をベランダに連れ出した。皆、教室の中でホームルームが始まるまでの時間を適当につぶしている。人のいないベランダは、人に聞かれたくない話をするのに最適だった。
「どう、ケガは?」
「うん、まぁ……ちょっと痛いけど」
「仕方ないわよね。当分は不自由だと思うけど、何かあったら私たちに言いなさい。大概のことはやってあげるわよ」
「そうそう! 遠慮しないでねっ♪」
“りん”のケガに一抹の責任を感じているのであろう……二人とも、意外なほど“りん”に優しかった。和宏の無念さを、沙紀も東子もよく知っている。だからこそ、和宏にとっては二人の心遣いが重くもあり嬉しくもあった。
(そういえば今朝、またあの夢を見たんだよな……)
和宏は話を変えるために、以前と同じように夢の中に沙紀と東子が出てきたことを話そうとした。だが、その必要はなかった。ちょうどその時、栞が会話に加わるためにベランダに出てきたからだ。
「おはようございます、りんさん!」
「あ、ああ……おはよ」
相変らず元気な栞に、沙紀と東子が『待ってました』とばかりに尋ねた。
「で、のどかは学校来てた?」
しかし、E組の教室に確認をしてきたばかりの栞は、静かに首を横に振るだけだった。
「いえ、今日も来てませんでした……」
「……おかしいわねぇ」
沙紀が腕組みをしながら、本気でわからないというように首を傾げた。昨日も、そして今日も、のどかは登校していないのだ。
のどか自身にケガがなかったことは、沙紀たちがちゃんと確認している。きっと事件のショックを引きずっているのであろう……と和宏は結論付けようとした。しかし、栞の報告の続きは、そんな結論をひっくり返すものだった。
「のんちゃん堂も閉まったままですし、お家にも誰もいないんですよねぇ……」
「病院に行ってるんじゃないのっ?」
「いえ、それが……、お父さんはあの事件の次の日に退院したそうです」
「……ええっ!?」
元の予定よりも早い退院だ。しかも、家に誰もいないとなれば、父親の大吾ともども行方をくらませていることになる。
ただでさえわからない話がさらにわからなくなりそうだった。“りん”は、キツネにつままれたような表情で首を傾げた。沙紀と東子も同じような表情で首を振っていた。
「あの後ののどか、別に変な様子なかったわよね?」
沙紀が、確認するように呟いた。東子も栞も、同感と言わんばかりに頷く。
「あの後、のどかはどうしたんだ?」
「ちゃんと一緒に病院出たよっ♪」
あの事件の直後、三人はのどかと一緒に気を失った“りん”を病院に運び、“りん”の母親であることみが駆けつけてきたのと入れ替わりで病院を出たのだ。
「ちょっと元気なくて、いつもどおりってわけじゃありませんでしたが……」
「そりゃあ……あんなことがあった直後だからな」
「だからアタシたち、ちゃんとのどかの家まで送って行ったもん!」
ふーん……と、“りん”は鼻を鳴らした。
「あ、でも……」
栞が思い出したように言うと“りん”たち三人の注目が栞に集まった。栞は、その時の状況を思い浮かべながら続けた。
「私が『またね』って言った時、のんちゃんが『さよなら』って言ってました」
「それが何か変なワケ?」
「いえ、ちょっと言い回しに違和感があっただけです。のんちゃんって、大体いつもは『じゃあね』とか『またね』って返してくるのに……」
「そういえば、神妙そうに『ありがとう』って言ってたね……」
「もう! やめてよ! 大体、あんな状況じゃ神妙になるのも当たり前でしょうが!」
沙紀が、苛立ちを隠すことが出来ずに声を荒げた。当たり前といいながら、不安を拭えずにいる……そんな感じだった。“りん”もまた、不安げに顔をプイと逸らすことしか出来ないでいる。東子と栞は、そんな二人を見て、気まずく黙り込んだ。
四人の沈んだ空気を刺激するように始業のチャイムが鳴り、ほぼ同時に出席簿を抱えた担任が入ってきた。めいめいに散らばっていた生徒たちがガタガタと席に着き、ベランダに出ていた四人も各々の座席に戻った。それを待ち構えていたようにホームルームが始まったが、担任の話の中身など和宏の頭の中には一向に入ってこなかった。
沙紀たちの話を頭の中で何度も反芻しながら、和宏はボンヤリと窓の外を眺めた。
(さよなら、か……)
思い返せば、確かに『またね』と手を振るのどかの姿しか思い出せない。だが、それは“もう本当に会えないのではないか”……という不安を肯定する証左である。そんな不安を追い払おうと、和宏は強く首を振った。
スッキリしない心の中とは対照的に、窓の外には雲ひとつない澄んだ青空が広がっていた。和宏は、ため息とともに頬杖をつきながら
(どこに行っちまったんだよ……のどか)
と、心の中で呟いた。
――To Be Continued




