最悪 (6)
「ひ、ひょっとして……あの車……じゃないかしら……?」
四人の中で最も視力の良い沙紀が、すっかり暗くなった埠頭に著しく相応しくない黒いスポーツカーが止まっているのを遠目から見つけた。ずっと全速力で自転車を漕いできた三人……特に、後に東子を乗せていた沙紀は、さすがに息も絶え絶えだった。自転車を降りた“りん”たちは、息を切らしながら車に近づいていった。
「これだ!」
「間違いないですね……」
和宏も栞も、漆原の車を見たことはあったが、さすがにナンバーまでは覚えていない。とはいえ、普段めったに見かけることのない型の同色のスポーツカーが、偶然こんなところにもう一台ある方が逆に不自然である。漆原の車と考えるのが妥当だった。
「ということは……この中か……!?」
“りん”は、一番近くに立つ倉庫を見上げた。暗闇の中ではあったが、その看板からは辛うじて“株式会社 漆”というロゴが見て取れる。“のどかはここにいる”……と四人は確信した。
「そ、それじゃあ……い、行くわよ、みんな」
勇ましく号令しようとした沙紀であったが、緊張して必要以上に力が入っているのは一目瞭然だった。
「落ち着いていきましょう。合図どおりに動いてください。さっき打ち合わせた手はずを絶対に忘れないでくださいね」
「わわ、わかってるわよ、それくらい!」
栞は、一向に肩の力が抜けないでいる沙紀と不安げな表情を隠さない東子に心配は募らせた。しかし、もう一刻の猶予もないとあれば、上手くやってくれる……と信じるしかなかった。栞は、改めて“りん”の方に向き直った。
「りんさんは……大丈夫ですか?」
自転車に乗っている間、一言もしゃべることなく、ずっと先頭を走り続けていた“りん”が、ここに来てひどく思いつめた顔をしていることに栞は一抹の不安を感じたが、それはただの杞憂であった。
「大丈夫。行こう!」
緊張しているというよりも、何かを心に決め使命感を帯びている表情のように栞には感じられた。少なくとも“りん”の口調には確実な心強さがある、と。
四人は倉庫の入口に取り付き、“りん”の目配せを合図にして、力一杯重い扉をこじ開けた。鉄を擦り合わせるような重低音とともに扉が動く。栞は、東子の家から持ってきた懐中電灯で前方を照らした。倉庫の奥の中央……蛍光灯の明かりを中心に二つの人影がボンヤリと浮かび上がる。そこを栞の懐中電灯の光が捉えた。いうまでもなく漆原とのどかだった。
「のどかっ!」
明かりに照らし出されたのどかは、漆原に両手を後ろ手に拘束され、地べたに座らされていた。“りん”の声が倉庫の中に響き、のどかは驚きとともに顔を上げた。倉庫の入口辺りにボンヤリと浮かんだ“りん”と栞の顔を見つけ出す。のどかは、二度三度と首を振りながら、心底信じられないといった面持ちで言葉を失っていた。
「なんだ、キミたちは……?」
漆原が、機嫌の悪そうな声でぶっきら棒に問いかける。のどかを縛り上げ、これからという時に入った邪魔だ。漆原にしてみれば、腹立たしい以外の何者でもなかった。
「のどかから離れろ!」
“りん”の声に反応した漆原の舌打ちがのどかの耳に届いた。この意図しない状況に、漆原は間違いなく苛立ちを感じていた。これ以上漆原の怒りを買えば、どんな行為に及ぶかわからない…と、考えたのどかは大きな声で叫んだ。
「どうして来たんだ!」
暗闇の中、入口近くに仁王立ちしている二人……“りん”と栞に、のどかは力の限りの声を投げかけた。
「漆原は危険なんだ! 近づかない方がいい! だから……っ」
そこまで言った時、漆原の足がのどかの腹を蹴飛ばした。一回転したのどかの小さな身体は、うつ伏せで地面に突っ伏した。
「五月蝿いよ。逆らうなって言ってるのにさぁ……」
漆原は、明らかに不機嫌な表情で吐き捨てた。だが、のどかはそれでも諦めなかった。
「ダメ……だよ。早く逃げて……、絶対に関わり合いになっちゃ……」
両手を拘束され、蹴られた腹を抑えることも出来ずに、のどかは力を振り絞るように言葉を紡ごうとした。だが、それを遮ったのは和宏だった。
「もう……いいよ」
「……え?」
「もう何も言わなくていいって言ってんだよ!」
“りん”の声が、のどかの二の句を押し留める。黙り込んだのどかに、和宏は畳み掛けた。
「『早く逃げろ』? 『関わり合いになるな』? なめんな! それで『はい、わかりました』って引き下がるとでも思ってんのか!?」
ただでさえ反響する倉庫の中に、凛とした“りん”の声が響き渡った。その迫力に、のどかのみならず、漆原も、栞たちも息を呑んでいた。
「絶対に助けてやる! だから……」
ゴチャゴチャ言わずに大人しく助けられろ――!
“りん”の声の残響が消えると、倉庫の中は無人になったかのようにシンと静まり返った。当ののどかは、地べたに座り込んだまま、完全に言葉を失いポカンと口を半開きにしている。一堂に会しながら誰も一言も発しない奇妙な静寂を打ち破ったのは、漆原の狂ったような笑い声だった。
「ひゃははぁ! 面白いじゃないか! でも、ここは社有地だよ。不法侵入で全員警察にしょっ引いてもらおうか?」
勝ち誇った顔で、漆原は“りん”と栞に人差し指を突きつけた。だが、栞は動じることなく一歩前に出て答えた。
「漆原さん。今私が手に持っているもの……何かわかりますか?」
なぜこの辺の娘が自分の名前を知っている? ……という疑問が、漆原の頭の中に一瞬浮かんだが、栞が手に持っている“もの”を見て、そんな疑問は一気に吹き飛んだ。
(ビデオカメラ……!?)
左手に懐中電灯、右手にビデオカメラ。漆原が暗闇に目を凝らすと、ビデオカメラには小さな赤ランプが転倒しており、現在録画中であることが見て取れた。
「ふ、ふふん。バカにしないでほしいね。こんな暗がりでまともな絵が撮れるはずないじゃないか」
普通のビデオカメラでは、弱々しい懐中電灯が照らすだけの暗がりでは光量が足りないため何も映らない。少なくとも人の顔の判別など絶対に無理だ。漆原の知識は、一般論として正しかったが、今回の場合においては違った。
「では、このビデオカメラには『赤外線投光機構』という装置が搭載されているのはご存知ですか?」
「……なにぃ?」
「このビデオカメラには、暗闇の中を撮影するための『赤外線暗視モード』という特殊モードがありまして、暗視撮影が可能なんです。ですから……ハッキリと映ってますよ。たった今、左目の下に涙の形をしたアザのある男が無抵抗な女の子を蹴り飛ばしたところがハッキリと……」
小娘がっ……と、漆原は小さく毒づいたが、思い直して、努めて優しい口調で栞に話しかけた。
「ククク……、それじゃあ、警察を呼ぶのはナシにしてやるよ。その代わり、そのビデオカメラを置いていくんだ」
「お断りします」
漆原の額の血管が、忌々しさとともにピクリと動いた。表情からも笑みが消え、おもむろに鉄パイプを握り締める。そして、怒りに任せて栞の方に歩き出した漆原の注意は、明らかにのどかから離れた。栞は、これを好機と捉えて叫んだ。
「沙紀さん! 東子さん! 今です!」
栞の合図と同時に、倉庫の入口から壁際に沿って左右に展開していた沙紀と東子が、持参していた強力日照ライトを漆原に向かって投射した。暗闇に慣れた目に、まるで太陽のような強烈な光を浴びた漆原は唸り声とともにうずくまった。
「今だ! のどか! こっちに走れ!」
一瞬、何が起きたかわからずに立ち遅れたのどかだったが、“りん”の声に反応して走りだした。のどかの履いているサンダルの靴音が倉庫の中にリズミカルに響く。その靴音を頼りに、漆原もまた、のどかを追い始めた。
なんとか漆原を出し抜いたのどかだったが、両手を拘束されているため全力で走れないのどかと、まだ視力が回復していないながらもやみくもに突進してくる漆原とでは走るスピードが全く違った。二人の差は、みるみるうちに縮まっていく。このままでは、追いつかれるのは時間の問題だった。
「りんさん、来ました」
「わかってる……」
“りん”は、スカートのポケットから海藤のサインボールを取り出し、セットポジションの構えを取った。“りん”の目が、必死で走るのどかと鬼のような形相をした漆原を追う。和宏は、今すぐに助けに飛び出したい気持ちを抑えて、ジリジリとチャンスを待った。
のどかが“りん”の方にどんどん近づいてくる。そして、そのすぐ後には漆原の影が見え隠れしている。“りん”は、漆原がのどかに追いつこうとする瞬間を見切りつつ叫んだ。
「伏せろ! のどか!」
そう叫びながら、左足を上げてクイックモーションに入る。その意味を理解したのどかは、合図と同時に地面に向かって倒れ込んだ。
“りん”は、アンダースローから全力の直球を投じた。こんな非常事態にあっても、いつもと変わらぬ美しいピッチングフォームで。放たれたボールは、ギリギリで倒れ込んだのどかの髪をかすめ、その直後に迫っていた……今にものどかを捉えようとしていた漆原の“股間”を直撃した。
「ぎはぁっ!」
漆原の右手にあった鉄パイプが、乾いた音とともに床に転がる。その場に倒れこみ、獣のような奇声を上げながら、もんどりうって苦しむ漆原。しかし、すぐに動きが乏しくなり、やがて動かなくなった。あまりの痛みに悶絶したのだ。栞たちは、倒れている漆原を遠巻きに警戒したが、動き出す気配はなかった。
「これは……気絶してるみたいですね……」
栞が、ヒキガエルのようにひっくり返った漆原の姿をビデオカメラで撮影しながら様子を窺う。時折ピクピクと身体を震わしているため、少なくとも死んではいないはずだが、かなりダメージは深そうだった。
沙紀と東子が、点いたライトを持ったまま、のどかに駆け寄っていく。それよりも早くのどかの元に駆けつけた和宏は、その小さな身体を抱き起こした。
「和宏……?」
「あぁ……もう大丈夫さ」
のどかの両手を拘束していたのは、両親指をひとまとめに巻きつけられた針金だった。血流が止まり、青紫に染まった指先が痛々しかった。“りん”は、優しく丁寧に針金を外していった。全てが外し終わって、ようやくのどかは身体の自由を得た。のどかは、拘束のなくなった両手を一瞥してから“りん”の顔を見た。
「……」
のどかの視線が“りん”のそれと合う。だが、のどかの口からは、もどかしいほどに言葉が出てこなかった。そんなのどかを珍しそうに笑いながら、和宏は
「だから言っただろ? 『絶対に助けてやる』って」
と言って、得意げに親指を立てた。その時だった。
「きゃあ!」
「えっ!」
沙紀や東子の悲鳴が上がった。まるで不死身の殺人鬼のように立ち上がった漆原に、栞たちは完全に虚を突かれた。再び鉄パイプを握った漆原は、そのまま迷わずに“りん”に殴りかかったのだ。
漆原の足元は怪しくふらつき、完全にグロッキーであることが窺い知れたが、これ以上ないほどの恥をかかされたことによる逆上がそれを上回っていた。何が起きたのかわからずに振り返ろうとした“りん”の側頭部を、手加減なく振り回された鉄パイプが襲う。鉄パイプが空気を切る音に抜群の反射神経で反応した和宏は、咄嗟に右腕で頭部をガードした。だが、漆原の鉄パイプは、その右腕の上からお構いなしに叩き付けられた。
“りん”の身体が吹っ飛ばされ、そのまま地面にもんどりうって倒れ込む。その一部始終が、最も間近にいたのどかの瞳に焼きついたが、まるでサイレントムービーのように、なぜか一連の音だけはのどかの耳に残らなかった。ただ一つ……
“りん”の右腕が折れた音を除いては――。
身体をしこたま床に叩きつけられた“りん”は、全身がバラバラになりそうな激痛の中、おぼろげに見た。何かを叫びながら、駆け寄ってくる栞と東子を。さっきの一撃で力尽きたかのようによろめく漆原の姿を。そんな漆原の股間を、無我夢中で蹴り上げる沙紀を。茫然自失としたまま、ピクリとも動かないのどかを。そして、和宏の意識は、さざ波が引くように静かに失われていった。




