最悪 (5)
夕闇に包まれた人気のない埠頭に、まるで人魂のようなヘッドライトが浮かび上がり、改造車特有のはた迷惑な騒音を響かせた黒いスポーツカーが船着場ギリギリまで入り込んできた。何もない波止場に車は止まり、エンジン音が消えると同時に運転席から大柄な男がのっそりと降り立つ。その右手にはコンビニ袋と懐中電灯があり、男……漆原は、その蛍光灯が合体した大きな懐中電灯を点けて、周りの倉庫群を照らした。目の前の倉庫に明かりが当たり、看板に描かれている“株式会社 漆”というロゴが浮かび上がる。
漆原は、のどかの座る助手席のドアを無遠慮に開けた。しかし、のどかは固い表情で俯いたまま、姿勢を崩すことなくピクリとも動かなかった。
「着いたよ、のどか」
そう言いながら、のどかの右腕を掴んでシートからムリヤリ引き剥がした漆原は、そのまま腕を引きずって倉庫の入口に歩いた。のどかは痛みに顔をしかめたが、男は全く気にしなかった。
夕闇の中、強い磯の香りがのどかの鼻をくすぐり、波止場に打ち寄せる波の音が絶え間なく響く。わずかに残る夕陽の赤が厚い雲に遮られ、海上はすでに暗闇に包まれていた。
倉庫の入口の鉄の扉を、漆原が力任せに開いた。重々しい音とともに扉が開き、充満していた鉄錆の匂いが辺りに広がった。漆原は、その匂いのきつさに鼻を鳴らしたが、懐中電灯で中を照らしながらズカズカと入っていった。
中は使われている様子もなく、置かれているのか捨てられているのか判別もつかない古臭い重機類と少しばかりの工具や鉄材などが放置されているだけだった。漆原は、のどかの腕を掴んだまま奥へと進み、一番奥の方に放置されたフォークリフトの荷台の上にのどかを座らせ、その隣に自分も腰を下ろした。
「ふぅ……、楽しかったね、ドライブは」
「……」
漆原は、蛍光灯に切り替えた懐中電灯を足元に置きながら、上機嫌でのどかに話しかけたが、のどかは何も答えずに表情を強張らせたままだった。漆原は、可笑しそうにのどの奥を鳴らした。
「ご機嫌ナナメだね。そろそろ晩ごはんでも食べるかい?」
そう言いながら、コンビニ袋に入ったパンを取り出し、のどかの鼻先に突きつける。だが、のどかは横に首を振って拒絶した。全く食欲など湧かなかったからだ。漆原は、小さく肩をすくめて自分一人だけでパンにかぶりつき始めた。
(どうしてこんなことになったんだろう……?)
のどかは、パンを貪る漆原を横目で見ながら、そんなことを考えた。漆原が現れた時に逃げていれば……、栞と一緒に別のスーパーに買い物に行っていれば……、いや、そもそもテレビなどに映らなければ……。色々な考えが浮かんでは消える。だが、最後に辿り着いたのは諦めの境地だった。
(この男のいうとおり、運命だったのかもしれない……。きっと……この男に見初められてしまった五年前のあの時に、もうこうなることは決まっていたんだ……)
逡巡を止め、諦めてしまえば楽になれる。余計なことを考えずに済むから。そう思いながら、のどかは静かに目を閉じた。
(もういいや……)
だって、わたしにはもう――。
目を閉じて、どれくらいの時間が経っただろうか。のどかは、スカートの上に何かが投げ置かれたのを感じて反射的に目を開けた。
(ライター……?)
漆原が投げてよこしたのは、髑髏の紋章が刻印された銀色のジッポーライターだった。気味悪く、かつ趣味が悪いライターだと……のどかは感じた。
「火をつけてよ……それで」
タバコをくわえながら、漆原が歪んだ笑顔でのどかを見る。のどかは、仕方なく火をつけたライターを漆原の口元に運んだ。漆原が一息吸うことでタバコの先端に明々とした火が灯り、細い紫煙が立ち上る。再び漂い始めたタバコの匂いに、のどかは顔に出さずに嫌悪感を覚えた。
漆原は満足そうに頷いていた。おそらく見初めた女性が自分にかしずいていることに満悦を感じているに違いない……と、のどかは思った。
「わたしを……どうする気なんですか?」
俯き加減のまま、のどかはわずかに震えた声で尋ねた。漆原は、鼻で笑いながら、タバコの煙をのどかの顔を目掛けて一気に吐き出した。煙にむせ、激しく咳き込むのどかに、漆原は冷たく言い放った。
「もう逃がさないからね……」
のどかの一家が行方をくらませてから五年間。諦めることなく探し続けて、今ようやく見つけたという自負が漆原にはあった。そして、その執念の強さと深さにのどかはおぞましさすら感じた。
「のどかは、ボクの理想の女性なんだ。だから……もう離さない。ずっと一緒だよ……これから……ずっと……」
そう言いながら、自らの『理想の女性』というフレーズに酔ったように漆原は薄気味悪く笑った。その目が、興味深そうにのどかの反応を見守っている。拒めばどうなるか……決して想像に難くはない。しかし、のどかは寸分の動揺すら見せなかった。
「わかりました」
「……あん?」
「それで貴方の気が済むのなら……」
のどかは、ソッポを向いたまま、そう言い放った。目を合わせなかったのは、せめてもののどかの抵抗だ。
狼狽するのどかを、必死に拒否するのどかを、あるいは泣き出すのどかを想像していた漆原は、一時呆気に取られた。これで、誰にも迷惑を掛けることはない……全てはのどかの悲壮な覚悟であり、それで全てが丸く収まる……そのはずだった。だが、漆原の反応は、のどかの予測の斜め上をいっていた。
「なにソレ?」
「……っ」
「ボクをバカにしてるつもり?」
のどかは、ハッと息を呑んだ。漆原の口調が明らかに変わったからだ。ニヤつきが消え、もともと悪い目つきがゾッとするような視線とともに据わっている。ユラリと立ち上がった漆原の全身には、殺気すら篭っていた。
「ボク、他人にバカにされるのは大嫌いなんだよね」
バカになんてしていません……と答えようとしたのどかの口から、肝心の声が出てこない。漆原の豹変ぶりに足が震え、身体から力が抜けそうになる。漆原は、フォークリフトのそばに無造作に転がっていた直径三センチ、長さ一メートル程度の鉄パイプを手に取って、一歩のどかに近づいた。
「その澄ました顔がムカツクんだよ……。どいつもこいつもボクをそんな目で見やがって……っ」
きっと歪な人生を歩んできたのだろう。漆原家は、政治家を輩出するだけでなく、いくつもの会社も経営している。そんな恵まれた一族として生まれたにもかかわらず、日々兄弟たちとデキを比較され、一族のつまはじき者になってしまった漆原は劣等感の固まりだった。そんな歪んだ感性の持ち主である漆原の癪に、のどかは障ってしまったのだ。
「そんな顔は見たくないんだよ……。その可愛い顔が泣き叫ぶところが見たいんだよ。ひざまずいてさぁ……鼻水ダラダラ流してさぁ!」
持った鉄パイプを二度三度と力任せに振り回す。次第に漆原の感情がエスカレートしていく様がのどかにもわかった。だが、ここは閉鎖された空間……倉庫の中である。逃げ場はない。のどかは、力が抜けてしまいそうな足を踏ん張りつつ一歩ずつ後ずさったが、ついに壁際まで追い詰められた。今にも襲い掛かろうとしている漆原が、何かを思いついたようにふと足を止めた。
「ひょっとして、自分を犠牲にして誰かを助けよう……なんて思ってる?」
「……っ!」
図星に、一瞬のどかが言葉に詰まる。漆原は、まるで精神異常者のような甲高い声で笑い始めた。
「フヒヒ……ヒャハハ……! やっぱりそうか! じゃあ周りからやってやるよ。誰からがいい? 家族? それとも……」
お友だちを同じ目に遭わせてやろうか――?
血走った漆原の目から感じられるのは、狂気と明らかな本気。全身の血が逆流するような感覚に、のどかは逆上しながら右肘で漆原に殴りかかった。だが、漆原はその右肘を簡単に受け止めた。
「なに? 肘使う護身術なんて珍しいね。ああ……悠人に習ったって言ってたっけ?」
左手でのどかの右肘を掴んだ体勢から、のどかの右腕を背中越しに捻り上げる。巧妙な関節技に、のどかは激痛の悲鳴を上げた。
「でもさ……これでもボクは空手の有段者なんだよね」
漆原が、悪魔のような形相でギリギリと捻り上げる力を込めていく。のどかは、動けぬ体勢のまま痛みに耐えるしかなかった。
「もうキミには何もしないよ。ただ……家族も、友だちも……徹底的に追い込んでやる。キミの涙が枯れるまで……ね」
漆原が楽しそうに笑い、覆しようのない絶望感がのどかを襲う。自らの身を差し出せば、それで全ては終わる……そう思っていた。しかし、この悪魔のような男は、それで飽くことを知らなかった。この男とは絶対に分かり合えない、別の生き物だと感じ、のどかは震え……そして戦慄した。
のどかの瞳からポロポロと無意識の涙がこぼれていく。それが痛みに耐えかねた涙か、それとも自分の無力さを嘆いた涙なのか……は、のどか自身にもよくわからなかった。だが、その涙を見た漆原は異常なまでに興奮していた。
「あーはっは! 泣け! もっと泣けよ!」
勝ち誇ったような漆原の甲高い笑い声が、だだっ広い倉庫の中に虚ろに響く。ここには自分たちの他に誰もいないことはわかっているだけに、殊更大きな声だった。
誰にも迷惑をかけないようにするための選択が逆効果になってしまうなど、一体誰が予想できただろうか。それでも、自らの浅はかさに対する罪悪感が、のどかの心を埋め尽くす。ギリギリと締め上げられる痛みに耐えかね、口をついて出そうになる言葉を意識して飲み込み、その言葉を口にしてはいけない……と、のどかは強く強く唇を噛んだ。
『一緒に行こうか』と言ってくれたのに、本当に心配してくれていたのに、その言葉と気持ちをすでに拒否してしまったのだから。そして何より、その身を案じるのなら、ここに来させてはいけないのだから。それは心の底からわかっているはずだった。
『え……あ……、その……芯が強くて、どんな苦難も最後には乗り越えられる人だと……思います……』
テレビのインタビューを受けてとっさに出た台詞は、間違いなく和宏に対するのどかの本音だった。もしかしたら、今、目の前にある悪夢さえ、和宏ならば乗り越えてしまいそうな……そんな気さえした。
だから、激痛によって次第に意識が朦朧としてくる中、のどかは心の中で和宏の姿を思い浮かべながら、言ってはいけないはずの”その言葉”を口にしてしまっていた。
助けて――と。
――To Be Continued




