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最悪 (3)

 一歩一歩の足取りが重い。いつも履いている革靴が、まるで鉛で出来ているかのように。のんちゃん堂に戻るまでのわずかな道のりを果てしなく感じながら、ひたすらトボトボと歩く“りん”は、やがて見えてきたのんちゃん堂の店舗の前に、手を振っている人影を見つけた。いうまでもなく沙紀と東子の二人だ。


「りん~!」

「おーいっ♪」


 今日は休日であるため、二人の出で立ちは私服であった。沙紀はローライズのタイトフィットジーンズ。そのせいで、ただでさえ長い沙紀の脚がさらに長く見えた。沙紀よりもグンと背の低い東子は、その背の低さを活かすかのようなミニスカートとハイニーソックスで、活発な女の子を演出していた。そんな二人が、元気なく歩く“りん”を出迎えた。何の事情も知らないだけに、いつもと同じ軽いノリだった。


「ちょっと! 何しょぼくてるワケ?」

「そうそう。アタシなんかもう今から楽しみでしょうがないのにっ♪」


 のんちゃん堂の焼きそばを心待ちにする東子が、涎を拭う仕草を見せて沙紀を笑わせる。だが、“りん”の表情は浮かないままだった。


「どうしたのよ、本当に……?」

「……」

「そういえば……のどかはっ?」


 東子の何気ない質問が和宏の胸に突き刺さる。言葉に詰まる“りん”を見て、沙紀が追い討ちをかけた。


「どこに行ったのよ? 一緒じゃなかったワケ?」


 沙紀と東子は何も知らない。しかし、かといって何からどう説明すればいいのかが和宏にはわからなかった。何しろ、和宏自身がキツネにつままれた気分なのだ。


「いや、さっきまで一緒……だったんだけどさ……」

「だった……? 今はどこにいるの?」

「……さ、さぁ?」


 沙紀と東子が、サッパリ要領を得ない“りん”の答えに首を傾げた。


「さぁってことないでしょうが」

「そんなこと言われてもさ……。突然ドライブに行くって……」

「はぁ? ドライブ? どういうこと? 誰と一緒なのっ!?」

「……さ、さぁ?」


 沙紀と東子が呆れ顔で“りん”を見る。“りん”は慌てて今日あった出来事を順を追って説明したが、何もわからないことに変わりはなく、沙紀と東子の顔には、みるみるうちに疑問符の色が浮かんでいった。


「なんかあやふやねぇ。さっぱりわかんないじゃない」

「その男の人って、何者なんだろう……?」


 もちろん、それがわかっていれば誰もこんなに苦労はしていない。三人は、一緒になって首を傾げるしかなかった。


「あ、あれ……栞じゃないかしら?」


 はるか遠くに人影を認めた沙紀は、二人にもわかるように指差しして見せた。その先には、息も絶え絶えになって走ってくる栞がいた。栞は“りん”の姿を見つけると、最後の力を振り絞るように“りん”の元まで全力疾走した。


「はぁはぁ……」

「だ、大丈夫? シオリン……」


 ずっと走ってきたのだろう……両手に持っている袋の中の卵のパックは全滅していた。だが、栞は構うことなく、息を整える時間も惜しいと言わんばかりに声を絞り出した。


「の、のんちゃんは……?」


 三人が、思わず顔を見合わせる。栞はのどかの昔からの友だちだ。のどかのことについて何か知っているに違いない……と踏んだ三人は、栞の息が戻るのを待つことにした。


「すいません……ずっと走ってきたので……」

「構わないわよ。それより……のどかがどうかしたワケ?」

「そうなんです! りんさん! のんちゃんはどこですか!?」


 珍しく取り乱しながら、噛み付くような勢いで栞が尋ねた。“りん”が正直に男と一緒に車に乗って行ってしまったことを話すと、栞は絶望したように肩を落とした。


「栞……アンタ、何か知ってるでしょ?」

「……」

「その男って何者なの? 私たちに教えなさい」


 そう言って、沙紀が切れ長の目を光らせた。沙紀の台詞に“りん”と東子も頷く。栞は、みるからに苦渋の表情を浮かべて唇を噛んだ。しばらく考え込んだ栞は、観念したように重々しく口を開いた。


「皆さんは……のんちゃんの友だち……ですよね?」


 間髪入れずに“りん”が力強く頷く。沙紀と東子も、何故わざわざそんなことを聞くのか……不思議に感じながらも頷いた。


「これからする話は、絶対に……絶対に誰にも洩らさないでほしいんです」


 眼鏡の奥から覗く栞の目が、いつになく真剣な光を放っている。聞いたら、もう後戻りは出来ない……と。三人は、栞の眼差しを受け止めるように、張り詰めた雰囲気とともに頷いた。“りん”の瞳、沙紀の瞳、東子の瞳……そのいずれにも三人の覚悟を見てとった栞は、静かに話し始めた。


「私とのんちゃんは小学校からのつきあいで、家もそれほど離れてなかったので、私たちはよく一緒に遊んだりもしてました」


 栞とのどかが以前からの友だちだったという事実は、和宏だけでなく沙紀たちもよく知っていた。三人は、何度も頷きながら先を促した。


「中学校も同じところに進学しました。私たちは、また三年間一緒だねって喜んでました。でも……」

「でも?」

「のんちゃん一家は、それからすぐに行方をくらませました」


 和宏の知る限り、その後はここに引っ越してきたはずなのだ。ただ、入学して間もない時期での引越しには、三人とも違和感を覚えていた。それを感じた栞は、気を持たせることなく核心に触れた。


「本当なら引っ越す必要なんかなかったはずなんです。()()()()()さえなければ……」

『あんなこと?』


 “りん”たちが、偶然にも声を揃えて聞き返すと、心なしか栞の表情の険しさがわずかに増した。


「あれは五月の……ちょうど今頃だったと思います。今日と同じように妙に蒸し暑い日でした」


 “りん”たちは、固唾を呑んで見守っている。栞が、ふと空に目をやった。照りつける夕刻の太陽の光はまだ眩しい。相変らずの湿度の高さに、栞はジワリと額に汗が染み出るのを感じながら、次の言葉を言い辛そうに……唇を噛んだ。


「のんちゃんは……あの男に乱暴されたんです」


 和宏も沙紀たちも、今ひとつピンと来ないでいる様子だった。それを察した栞は、表情に苦いものを浮かべつつ……さらに一言を付け加えた。


「意味……わかりますよね――?」


 和宏の背筋に、ゾワリと嫌なものが走った。テレビドラマやマンガでは珍しくない話だ。しかし、現実に知り合いが“そういう目に遭った”と聞かされると、やはり衝撃の度合いが違った。


「ちょ、ちょっと待ってよ! おかしいじゃない! なんでそんな犯罪者がこんなとこを堂々とうろついてるワケ? そんなの……」


 ありえないでしょうが……と、いつもの調子で続けようとした沙紀を、栞が遮った。


「事件にはならなかったんです」

「ど、どういうこと?」

「あの男の名前は“漆原うるしばら圭輔けいすけ”といって、地元ではある有力代議士の末っ子なんです」

「漆原……?」

「はい、あの“左目の下に涙のようなアザ”がある男の名前です」


 和宏は、あの男にアザがあったことを思い出した。確かにあのアザは特徴的であり、おそらくは同じようなアザの持ち主は日本中を探しても二人といないだろう……と和宏は思った。


「ちょっと待って! 漆原って……今なんとか大臣やってる……アレ?」


 東子が、何気に失礼な物言い(アレ呼ばわり)をした。現在、与党の有力者であり、すでに複数回の大臣経験があることから、ことあるごとに新聞では次の首相候補に名前が挙がる大物政治家だ。


「そうです。スキャンダルが怖いから、多少の事件はムリヤリ揉み消すということで地元では有名なんです」

「そんな……マンガや出来の悪い小説じゃあるまいし……っ」

「今どきそんなことあるのかしら……?」

「もちろん、ただの噂ですから真偽のほどは不明ですが、みんなそう思っているのは事実です。多分、あの漆原も、そう思われていることを知っていて、わざと傍若無人に振舞っているのかもしれません」


 和宏は、傍若無人という物言いに納得した。確かにそういう男だったからだ。


「のんちゃん一家は、それがあった後にすぐ引っ越したんです。行き先は誰も知らなかったと思います。私にも黙っていなくなっちゃいましたから」


 “りん”は、思わず唸り声を上げた。つまり……逃げたのだ。地元の有力者に睨まれては、商売など出来るわけがないし、今後どのような仕打ちを受けるかわからない。そして何より、父の大吾がそんな目に遭ったのどかの身を案じたのが最大の理由だろう……と、和宏は思った。


「でも、どうしてまた今頃になって……?」

「それはきっと……この間のテレビじゃないかと……」

「え?」

「テ、テレビって、あんなわずかしか映ってなかったのに……っ!」


 映ったのはわずか十秒程度である。沙紀と東子は、信じられないとばかりに首を振った。


「きっと運が悪かったんです。たったあれだけ……偶然映っただけで、漆原の目に入ってしまうなんて……」

「それにしても……どういう男なの、その漆原って人。五年も経ってるのに、まだ追いかけてくるなんて」

「のんちゃんがいなくなって、しばらくの間、漆原はのんちゃんの行方を一生懸命捜したそうです。実は、漆原はのんちゃんをすごく気に入っていて、ずっと前から狙っていたらしいんです」

「狙ってた?」

「はい。後から聞いた話なんですが、結構前からのんちゃんに目を付けていたらしいんです」

「結構前って……その時のどかは中学生になったばかりだったんだろ?」

「ええ、ですから小学生の頃からです」

「ロリコンね」

「変態さんだねっ!」


 沙紀と東子が素晴らしいタイミングで突っ込みを入れる。二人の呼吸は、こんな時でも抜群にピッタリだった。


「でも、その頃はお兄さんがいましたから……」

「ええっ! のどかってお兄さんいたの!?」


 沙紀と東子が、大げさに驚いてみせた。和宏にとってはすでに知っている話であったが、沙紀と東子にとっては初耳の話だった。


「はい。すごく人望のあるお兄さんで、とっても人気者でした。のんちゃんと一緒にいることも多かったので、漆原ものんちゃんに手を出し辛かったんだと思います」

「そのお兄さんって……今どこにいるの?」


 栞が、首を横に振りながら答える。


「もう……いません。病気で亡くなられましたから」

「……!」


 兄・悠人が死んだことでのどかを守る防波堤がなくなり、そこにつけこむように漆原はのどかに執拗に付きまとうようになったのだろう。兄を失い、打ちひしがれるのどかに。

 和宏は、その男……漆原のことを、ハッキリと理解した。一言で言えば“クズ野郎”だ。


「なんでのどかは……そんなヤツと一緒に行ったんだ……っ?」


 悔しさに任せて地団太を踏む。そんなクズだと知っていれば、絶対に一緒になんか行かせなかったのに……そう思うと、和宏は自分のバカさ加減に腹立たしさを感じた。


「それはわかりませんけど……何か脅されたとか……?」

「どういう理由で脅されるっていうのよ?」

「そんなこと私に言われても……」


 栞は、眉間にしわを寄せて困った顔をした。こうしている間にも、のどかの身が危険なのは明らかだった。いても立ってもいられなくなった和宏は、突然駅の方へ走り出した。


「ちょっとりん! ドコ行くのよ!?」

「決まってるだろ! のどかを探すんだ!」

「落ち着いてください、りんさん! 探すってどこを探すんですか!」


 栞の言葉に、和宏はハッと我に返った。冷静になってみれば当たり前だった。どこに行ったのかわからないのだから、探しようがないのだ。“りん”は、地面を革靴で蹴り上げながら振り返った。


「じゃあ、どこを探せばいいんだよ!」


 “りん”の顔からは、必死さがよく伝わってくる。だが、三人はその答えを持っていなかった。


「け、警察に電話するとか……っ?」

「バカね。のどかは自分で車に乗っちゃってるんだから警察が動くわけないでしょ。それよりお父さんに知らせるべきじゃないかしら?」

「でも、お父さん入院中だよね……っ?」


 沙紀と東子がない知恵を一生懸命振り絞るが一向に名案は浮かんでこない。無慈悲にも刻一刻と過ぎていく時間。誰も口を開くことが出来ずに、雰囲気の重苦しさだけが次第に増していく。


「あの……」


 栞が、何かを思い出したように声を上げると、“りん”たちが飛び掛らんばかりに栞の方を見た。


「ちょっと私……調べてみたいことがあるんです……」


 調べてみたいこと……? と、三人は首を傾げた。それでも“りん”の拳には思わず力が込められた。今はどんなことでもいい……ただ手がかりがほしかった。



 ――To Be Continued

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