最悪 (2)
なんとなく見られているような気がする……和宏はそう思った。のどかと一緒にスーパーに入ってからフロアを一回りするまで、何度となく周囲からの視線を感じたからだ。そのことをのどかに話してみると、やはりのどかも視線を感じたという。だが、疑問は簡単に解消した。
(この間テレビで……)
(女の子が甲子園目指して……)
(ああ、あの娘が……?)
そんなヒソヒソ話があちらこちらから聞こえてくる。早い話が、先日のテレビの影響で“りん”の顔が学校以外にも売れてしまったということだった。
レジで支払いを済ませた“りん”たちは、人目から逃げるように店の外に出た。夕刻となり、傾きかけた太陽のオレンジがかった光が遠慮なく目に付き刺さってくる。その眩しさに“りん”はしかめた顔を作りながら、右手をかざして日よけを作った。
(こりゃ、マジでのどかみたいに帽子でもかぶってた方が正解だったかもな……)
人目と日差しを避けるために……そう思いつつ、“りん”は隣を歩くのどかの横顔をチラリと見た。右手に荷物を持ったのどかは、空いている方の手に持ったタオルハンカチで汗を拭っている。時間はもはや夕刻といっても差し支えなかったが、まるで春の爽やかさを吹き飛ばすように湿度が高くなっているせいで一向に不快指数が下がる気配はない。“りん”も荷物を抱えながら、ジンワリと額に汗が浮き出てくるのを感じた。
スーパーの広い駐車場を抜けて公道に出ると、あとはのんちゃん堂まで一本道である。二人がその道を歩き始めると、前方からマフラーの消音装置が壊れているのではないかと疑いたくなるような騒音とともに黒い車が近づいてきた。明らかに速度違反と思われるスピードであったが、その車は“りん”たちの前方五十メートル前くらいで急ブレーキをかけて止まった。
普段の街中では滅多に見かけない珍しい型のスポーツカーである。そんな車がすぐ前方に停車したことに“りん”とのどかは思わず首を傾げた。だが、そんな二人に構うことなく、耳を塞ぎたくなるような騒音を撒き散らしていた車はハザードが灯ると同時にエンジンが止まり、さっきまでの獰猛さが嘘のように大人しくなった。
相当な五月蝿さだっただけに、音が消えただけで、何の変哲もない公道が日本庭園のような静かさになったかのように和宏には感じられた。だが、おもむろに左ハンドルの運転席のドアが開いて静寂は簡単に破られた。降り立ったのは一人の男だった。身長は百八十センチを超えているであろう大柄な男で、明らかにスポーツをやっていたと思わせるガッシリとした体躯からは、その目つきの悪さも相まって後ずさりしたくなるような威圧感を放っている。一言でいえば“チンピラ”だ。
男は、気だるそうにタバコを口にくわえ、慣れた手つきで火をつけた。大きくタバコを吸い込んでは、愛車に寄りかかりながら煙を吐く。男の周囲は、盛大な煙とむせ返りそうなタバコのに匂いに包まれた。
傍若無人な振舞いは、近寄りがたさを強調する。和宏は、出来ることなら近づきたくないと思ったが、のんちゃん堂に帰るためにはこのまま進まなくてはならない。仕方なく“りん”は、男の立っている場所を避けるように歩道の端っこに寄った。
男と目を合わせないように、心臓をバクバクさせながら男の目の前を歩く。その時、のどかが“りん”にしがみつくように腕を取った。
(……!?)
和宏は混乱した。なにしろ、怪しげな男に神経を尖らせているところへ、突然のどかの方から腕を組んできたのだ。のどかは、ベタベタと気安くスキンシップを取るタイプではない。和宏は、ドギマギしながらも真意を探ろうとしたが、麦わら帽子に阻まれて、のどかの表情は見えなかった。
“りん”は、しがみつくのどかと一緒に男の目の前を通り過ぎながら、視線のみを動かして、何気なしにチラリと男の顔を盗み見た。男の顔が視界の端っこに入った瞬間、和宏はハッと息を呑んだ。左目のすぐ下に、涙のようなアザがハッキリと見えたからだ。
幸いにも男と目が合うこともなく、次第に男との距離が開いていく。もう一安心だな……と、ホッと一息をつこうとした矢先だった。
「久しぶりだね」
そう男が“りん”たちに声をかけてきたのだ。低くくぐもった陰湿そうな声自体には、なんら外見とのミスマッチは感じられない。しかし、ざらついた声質は耳障りで、聞いた者に不快感を与える口調だった。
左目のすぐ下に涙のようなアザのある男……少なくとも、和宏の中にこんな男の記憶はなかった。もちろん“りんの記憶”の中にも、だ。となれば、のどかの知り合いか……? と和宏は思った。その時、のどかが急に立ち止まった。“りん”にしがみついたままの腕は、何かに怯えるように強く握られたまま。明らかに普通の状態ではないのどかに“りん”は
「のどか……?」
と声をかけた。だが、のどかはしがみついた手の力をさらに強めただけで何も答えなかった。
奇妙な静寂がどれほど続いたであろうか。男は火がついたままのタバコを投げ捨て、“りん”たちの方へ一歩を踏み出した。履いているローファーの靴音がアスファルトに響き、のどかの肩がビクッと跳ねる。まるで、獲物を狙う狼と足がすくんで動けないでいる子羊のように。
のどかは、しがみついていた“りん”の腕から慌てて手を離しながら、ゆっくりと“りん”の顔を見上げた。その表情は……予想に反して笑み交じりのものだった。
「ごめん和宏。あの人、昔の知り合いなんだ。ちょっと……あいさつしてくるね」
和宏は、戸惑いがさらに増していくのを感じた。つい先ほどまで、何かに怯え“りん”の腕にしがみついていたのどかとあまりに違いすぎたからだ。
「大丈夫……か? 顔色が真っ青だぞ……?」
「平気だよ。だから……ちょっと待ってて」
それだけ言うと、のどかは踵を返して男の方へと歩き出した。不安が消えることはなかったが、和宏は男の元に向かうのどかの背中を眺めるしか出来なかった。
「よく来たね」
男は、ニヤニヤと口元を歪めながら、目の前ののどかを嘗め回すような視線を向けた。白いワンピースが風に揺れ、スカートの裾がヒラヒラと踊る。通り抜けていく風は、のどかの外ハネしたクセっ毛を優しく撫ぜていったが、胸の内に溜まった苦々しい思いまでは持ち去ってくれなかった。
「どうしてこの街に……?」
大きくてクリクリした瞳で、のどかは精一杯睨みつけた。だが、男にとっては何も応えることはなく、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべるだけだった。
「テレビ……可愛らしく映っていたね。すぐにわかったよ。“あの時”のままだって」
やはり……という気持ちと、まさか……という相反した気持ちが交錯する。タイミングとしては、先のテレビ放映しか考えられない。しかし、画面に映ったのはほんの十秒程度であったことを考えれば、簡単に特定されるはずはない。そう考えたのどかを嘲笑うように男は言った。
「確かにボクがあのテレビを見たのは偶然だよ。どこかのパーキングエリアのテレビでたまたま見かけただけさ。だけど……ボクはちゃんと気付いた。きっと……それが二人の運命なんだ」
もし、少しでも時間がずれていれば見つかることはなかっただろう。運が悪かった……のどかにとっては単純にそういうことだ。たとえ偶然でも全国ネットのテレビに映ってしまったことも。その一瞬がたまたまこの男の目に触れてしまったことも。
「わたしに……何の用ですか?」
「良かったよ、早々にキミを見つけることが出来て。学校まで乗り込もうかと思っていたからね」
「止めてください!」
のどかが、思わず語気を強める。この男が学校にまでやってきてのどかを探し回り始めたら、他のみんなにどれほどの迷惑がかかるかわかったものではない。のどかの反応を楽しむように一瞥した男は再び口角を吊り上げた。
「その格好……変装のつもりかい?」
「……」
「いくら麦わら帽子を被っても無駄さ。顔が見えなくてもボクにはわかるんだから。だってボクはキミを……」
「わたしに何の用かって聞いてるじゃないですか!」
男の台詞を遮るように、再びのどかは普段と違った感情的な口調で語気を強めた。男は珍しいものを目にしたように口笛を吹いた。まるで小馬鹿にするような態度に、のどかはますます嫌悪感を覚えた。
「決まってるだろ? キミに会いに来たんだよ。とりあえず車に乗って海までドライブとしゃれ込もうじゃないか」
ニヤニヤと薄笑いを浮かべながらも、男の目は“ノーは許さない”という光を冷たく放っている。それは、自分の命令は絶対である……と思い込んだ狂気の目に似ていた。
「イヤだ……と言ったら?」
のどかが、声を震わしながら、目一杯の反抗心を剥き出しにして聞き返す。直前まで温和そうに笑っていた男の目が据わった。男の纏う空気がピリピリと突き刺すようなものに一変したのを見て、のどかは一歩後ずさりしながら身構えた。大きく愛らしいのどかの瞳が威嚇するように男の顔を睨み続ける。
「ククク……」
男は、唐突に笑い出した。ワンピースからのぞく白い足がかすかに震えている。反抗的な言葉を吐きながらも明らかに怯えている様子に満足した男は、再び薄気味悪い笑みを浮かべ、のどかの虚勢を愛でるように……しかし冷たく答えた。
「それなら……ボクはあっちの娘でも誘うとしようかな……」
そう言って、男は少し離れたところで様子を窺っている“りん”に視線を移しながら舌なめずりした。
(――っ!)
予想外の男の台詞に表情を凍りつかせたのどかは、咄嗟に振り返って“りん”の方を見た。“りん”は、急に振り返ったのどかに気付き、キョトンとした表情で当惑している。距離的に“りん”のところまで会話が聞こえるはずはないのだから、当惑するのも無理のない話だった。
のどかは、もう一度ニヤついた男の表情を窺ったが、やはり冗談かどうかを見抜くことは出来なかった。しかし、この男は“やる”と決めたことは躊躇なく実行するタガの外れた男であることをのどかは知っている。それがたとえ“犯罪”だとしても、だ。
「ボクは別にどっちでもいいんだよ。確か名前は“萱坂りん”だったよね? 彼女もボクの好みだし」
男は、相変らず楽しそうに……しかし薄気味悪い笑みを浮かべていた。のどかは、背筋が凍りつくのを感じた。
◇◆◇
“りん”は、男とのどかが会話を約十メートル程度離れたところから窺っていた。比較的静かに話を交わしているように見える二人だったが、決して昔の知り合い同士が旧交を温めている感じではなく、むしろ緊迫感が溢れているように感じられた。しかも、時折“りん”の方に視線を向けてくるところを見ると、一体何の話をしているのか……気になるところであった。
(ん、終わったか……?)
ヤキモキしている“りん”の元に、のどかが一人戻ってきた。とりあえずは無事であったことに和宏は胸を撫で下ろしたが、その表情はこわばり、顔色も青ざめたまま。しかも、のどかの第一声は、和宏にとって信じられないものだった。
「ごめん和宏。わたし、これからドライブに行くから」
和宏は、思わず「は?」と素っ頓狂な声で聞き返した。だが、のどかの無理に感情を押さえつけている様な抑揚のない表情は変わらなかった。“りん”の足元に置いたままの買い物袋を手に取ったのどかは、そのまま車に向かおうとした。
「ま、待てよ! なんでいきなり……っ?」
突然ののどかの豹変に呆然となった和宏だったが、辛うじてのどかの後姿を呼び止めた。だが、振り返ったのどかは相変らず無表情だった。
「彼……昔の知り合いでね。これから海までドライブに行こうって誘ってくれたんだ。だから、和宏はもう今日は家に帰ってほしいんだよ」
「は……はぁ?」
「それと、悪いけどみんなには今日は中止って伝えておいてくれないか。埋め合わせは……きっとするから」
降って湧いたような話が予期せぬ方向に進んでいくのを感じた和宏は、焦りながらも食い下がった。
「アイツ……いや、あの人が知り合い? 本当に……?」
あの男を見た時ののどかの反応は尋常ではなく、明らかに怯えていた。少なくとも、ドライブに行こうと誘われて軽々しく同意するような親しい間柄には思えなかった。そんな怪訝な表情を察し、のどかは和宏を安心させるように笑いながら答えた。
「あはは。大丈夫だよ。本当に昔の知り合いだから」
「でも……なんかこう……」
「大丈夫だったら! 疑り深いなぁ、和宏は」
のどかが、場を取り繕うように笑う。素直にのどかの言葉を信じるならば、なんということはない話だ。だが、和宏の感覚があの男を疑っている。どこか得体が知れず、危険な匂いがする。和宏は
「一緒に行こうか? それなら……」
と持ちかけた。その瞬間、のどかの表情が怯えとともに再び凍りついた。
「……駄目」
「……え?」
「来ないで……」
「で、でも、念のため……」
いつになく頑ななのどかに、なおも“りん”は食い下がろうとした。その時だった。
「ついて来るなって言ってるんだ!」
そう怒鳴り上げたのどかは、もう“りん”と目を合わせずに男の方に歩いていった。そして、男と一緒に車に乗り込むと、車はまた騒々しいエンジン音をばら撒き始めた。すぐにホイールスピンの音が不愉快なコーラスのように響き、急発進した車は瞬く間に遠ざかっていった。
春の終わりを感じさせる夕日が、“りん”の影を長く伸ばしていた。薄らとオレンジ色がかった辺りの風景が物悲しくもある。だが、そんな感傷に浸っている気持ちの余裕が今の和宏にはなかった。
初めて聞いたのどかの怒鳴り声。幸い近くには通行人がいなかったが、いれば確実に振り向かれたであろう大きな声だった。そして、なぜのどかがそんな大声を上げたのか……何も心当たりがなかった。
和宏は、のどかが乗った車が消えていった方角を呆然として眺めながら、たった今目の前で起きたことを頭の中を整理するだけで精一杯だった。
――To Be Continued




