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92 海に沈む旋律

【プロローグ】




「――『ここ』は今から五百年前、伝説の魔女アーデルハイトさまによって造られた場所なのですよ」


 前を歩く老婦人の紡いだ言葉に、クラウディアは顔を上げた。

 こつこつと靴音の響く廊下は、ずっと果てまで続いている。落ち着いた色合いのドレスを纏ったその老婦人は、柔らかな声音でこう続けるのだ。


「アーデルハイトさまは仰いました。幼き才能を守ることは、それを導く者の絶対的義務であると」

「…………?」


 クラウディアがそっと小首を傾げれば、後ろを歩いているノアが視線を向けてくる。改めてノアの顔を見なくたって、クラウディアには表情が想像できた。


 ノアはきっと、何か物言いたげな顔をしているのだ。老婦人はそれに気付かず、長い廊下の途中で紡ぐ。


「優れた人間は時として疎まれ、虐げられてしまうことがあります。偉大なるアーデルハイトさまは、そのことに大層胸を痛めていらっしゃいました」


 魔法による結界を潜り抜けるため、この廊下は実際よりもずっと長く見える。それこそ、先が見えないほどにだ。


「だからこそアーデルハイトさまは、この『魔法学院』をお造りになったのです」

(……『魔法学院』ね)


 その青い窓を見上げながら、クラウディアは心の中で考えた。

 長い廊下も、たくさんの窓から青色の光が差し込む光景も、五百年前に確かに見たものだ。


(本当に、懐かしい場所だわ)


 クラウディアがそんな心境になっていることを、この老婦人は知る由もないだろう。

 アーデルハイトが生まれ変わっている事実も、その生まれ変わりこそがクラウディアであるという事実も、きっと気が付くはずがない。


 こちらを振り返った老婦人は、クラウディアに向けてこう尋ねた。


「クラウディア姫殿下は、十歳であらせられましたね?」

「はい、先生!」


 明るく返事をしたクラウディアは、にこっと無邪気に笑ってみせる。そうすると、今日もノアによって丁寧に梳かれたミルクティー色の髪がさらりと揺れた。


 十歳になったクラウディアは、相変わらず小柄で華奢なままだ。

 けれども確実に身長は伸び、睫毛もより長くてふわふわになった。顔立ちは亡き母にますます似てきたようで、幼い可憐さの中にある美しさが増してきている。


「ここには姫殿下と同じ年代の生徒たちが、数多く学んでいます。互いに高め合い、友情を育みながらの生活は、掛け替えのないものとなるでしょう」

「私、ここでお勉強をするのがとっても楽しみです! ね。ノア?」


 クラウディアがくるんと振り返れば、後ろを歩いていたノアが目を伏せた。


「はい、姫殿下」


 同世代の少年よりも背が高いノアは、十三歳という年齢よりも大人びた雰囲気を纏っている。


 体格はまだまだ成長途中だが、均整の取れたしなやかな筋肉がついており、鍛錬の成果が窺えた。その振る舞いや表情は、一流の従僕らしく落ち着いている。


「短期入学とはいえ、歴史あるこちらの学院で過ごされる日々は、姫殿下にとって素晴らしいご経験となり得るでしょう。護衛としてお力になれることを、光栄に感じております」

「クラウディア姫殿下は、良き従者をお持ちなのですね」

「えへへ。ノアは私の、とーっても自慢の従僕ですから!」


 クラウディアは元気いっぱいに答えながら、窓の方へと目をやった。


「ここでノアと一緒にお勉強できるのが、ほんとうに楽しみ! それに」


 この窓から見える光景は、夏の眩しい陽射しが降り注ぐ校庭などでは無い。

 木々の揺れる中庭でも無ければ、整然と並んだ石造りの校舎でも無い。


 窓の外に広がるのは、真っ青な海中の光景だ。


 色鮮やかな魚の群れが、窓の外を泳いでゆく。海面から射し込む陽光が、海の底にある白い砂に光の揺らぎを落としていた。

 銀色をした泡の粒が、海草の間から海面に昇る。遠くから迫ってくる黒い影を、クラウディアは微笑みながら眺めた。


「『海の中にある魔法学院』だなんて、すごく素敵だわ!」

「…………」


 近付いてきた一頭の鯨が、ゆっくりと窓の近くを泳ぎ始める。


 それはまるで、凱旋のパレードに追従する騎士のようだった。

 海の中を泳ぐ魚たちはクラウディアに付き従い、その歩みに合わせながら進んでゆく。老婦人がそれに気付かないうちに、クラウディアは鯨たちに小さく手を振った。


「この学院に通うほとんどの生徒が、各国から集まった高貴なる血筋の方々です。皆さま優秀ですから、高め合うご友人がきっと見付かりますわ」

「お友達、たくさん出来ると嬉しいです! ……あれ?」


 クラウディアはことんと首を傾げ、その小さな耳を澄ませてみる。


「どこからか歌が聞こえますね。とっても綺麗で、透明なお歌……」


 その言葉に、老婦人はぴくりと肩を跳ねさせた。彼女はクラウディアを振り返らず、歩を進めながらこう答える。


「きっと、鯨が歌っているのでしょう」

「わあ、鯨さんはお歌を歌うのですか?」

「海の底で日々を過ごしていると、陸では聴くことの出来ない音色がたくさん聞こえて参りますわよ。……寮への到着が予定より遅れていますわね、急ぎましょう」


 クラウディアは静かに微笑んだあと、心の中でそっと考えた。


(『人魚』がこの学院に居ることを、この教師は気付いているかしら。……まあ、どちらでも良いのだけれど)


 クラウディアはノアを振り返ると、無邪気な少女のふりをして言った。


「私がもっと小さい頃だったら、ノアに抱っこして運んでもらえたのに」

「……姫殿下」

「ふふ! ノアったら、困ったお顔!」


 ころころと笑い声を上げたあと、小さな声でノアに囁く。




「『船を攫う歌』の出所を、早く確かめないとね。……これ以上、行方知れずの人間を出し続ける訳にはいかないわ」

「――――姫殿下の、お命じになるままに」




 クラウディアは『いい子』と微笑んで、また歩き始める。老婦人が不思議そうに振り返ったが、企みごとの気配などおくびにも出さない。


「海の中にある学院での、一ヶ月間のお勉強。……歌い出したいくらいに楽しみです、スヴェトラーナ先生!」


 クラウディアは五百年前、自らが『アーデルハイト』として築いた学院の廊下を歩く。





 その海の底には、美しい歌のような旋律が、穏やかに流れ続けているのだった。




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