91 魔女の願いごと(第2部・完結)
夕暮れ時のこと。
クラウディアが転移魔法で部屋に戻ってきたのと同じくして、扉がこんこんと軽くノックされたので、クラウディアはそちらを振り返った。
(ノアも帰って来たようね)
「どうぞ」と返事をして長椅子に掛ける。入室してきたノアは、こちらを見て一度驚いたようだ。
「……姫さま、どうして大人の姿に?」
「目が覚めたから、スチュアートに会いに行っていたの。頑張っている分の応援が必要でしょう?」
十六歳くらいの外見に変身したクラウディアは、クッションを抱き締めながら答える。するとノアが、なんとなく警戒したような顔で尋ねてきた。
「あの男に絵を描かせたのですか?」
「? まだよ」
「……」
ほっとしたように息をつき、ノアはクラウディアの方に歩いてくる。
「描かせる時は、必ず俺も同行させてください。くれぐれも」
「ふふ、分かっているわ。ノアの姫さまは、ノアに心配を掛けるようなことはしないもの」
「心にもないお言葉を……」
心にもない、というほどではないのだが、主観の問題なので言及はしないことにした。
「カールハインツは大丈夫だった?」
「それ相応にお疲れのようでしたが、問題はないかと」
「そう。治癒魔法でも掛けてあげようかしら」
「すでに提案してみましたが、そこまでではないと固辞されました」
「ノアは優秀ね。もちろん、カールハインツも」
クラウディアはにこにこと機嫌良く言ったあと、窓の外を見遣る。
「…………」
そして、ふっと目を細めた。
見えるのは、夕焼けに染まる空だ。
ラピスラズリのような深い藍色から、ルビーのように燃える赤色に移り変わっている。その空を眺めていると、ノアがクラウディアの足元に跪いた。
「……俺も、大人の姿に変えていただけませんか」
その願いを不思議に思ったものの、ノアからのおねだりは珍しい。
「ふふ。いいわよ」
そう微笑んでノアに触れ、ぽんっと音を立てて魔法を掛ける。
目の前に現れた大人姿のノアは、クラウディアを真摯に見つめていた。
「ノア? どうし――……」
「…………」
クラウディアは思わず言葉を止める。
長椅子に片膝を乗せたノアが、クラウディアをぐっと抱き寄せたからだ。
その腕の中に閉じ込められて、目を丸くする。
「……ノア」
「まずは、あなたからのお叱りをふたつ受けたいと思います」
クラウディアを抱き締めたノアが、耳元で囁くように口にした。
「ひとつめは、こうしてあなたに無断で触れていること。……後で、あなたに仕置きを賜りたく」
「……」
敢えてそれには答えることなく、クラウディアはそのままの姿勢で、そっと促す。
「……ふたつめは?」
「あのとき、俺にルイスと戦わないよう仰ったはずのご命令に背きました」
それを聞いて、微笑むように目を細めた。
「私を守るために、でしょう?」
「……」
ノアはきっと、クラウディアの躊躇を見抜いたのだ。
「あの子を死なせる役割は、私のものではなくてはいけないと考えていたの。あの子のための責任を、果たさなくてはならないと。……けれど、無様だったわね」
「姫さま」
「それでも、がむしゃらに動いてくれたノアの気持ちは嬉しかったわ。だから、お仕置きは無しよ」
額をノアの胸にくっつけて、目を瞑る。
「こうしてぎゅっとしてくれていることに関しては、どうしようかしら」
「……俺は」
仕置きを受けると言ったのに、ノアはクラウディアのことを離す気配がない。
それどころか、クラウディアの華奢な背中に回した腕に、ノアがますます強く力を込める。
「あなたが幸せで居て下さるためなら、なんでもする」
「――――……」
クラウディアに告げる言葉というよりも、それは誓いのようなのだった。
祈りと呼べるものかもしれない。
ノアは刻みつけるかのように、耳元で丁寧に一言ずつ、クラウディアに言葉を捧げてゆく。
「あなたが五百年前に負った傷も、これから負うかもしれない傷にも、俺が触れることすら烏滸がましいものかもしれません。――あなたと五百年前の弟子たちの間にあったものを、補えるとも思っていない。ですが、それでも」
ノアは、クラウディアを守るように抱き締めているはずだ。
けれどもそれでいて、まるでクラウディアに縋るかのように重みを預けて、こう懇願した。
「二年前の誓いの通り、俺はあなたを置いては行きません。絶対に」
「……ノア」
「ですからどうか、命じて下さい」
背中に触れていたノアの手が、クラウディアの髪を梳くように触れて囁く。
「傍にいろ、と」
「――――……」
クラウディアは、少しだけくちびるを結んだ。
けれどもそれを悟られる前に、ふっと柔らかな微笑みに変える。
(本当に、私に対していつだって真っ直ぐにいてくれるのだわ)
ノアは恐らく、自分自身を無力な存在だと感じているのだろう。
けれどもそんなことは有り得ない。クラウディアにとって、ノアがどれほどの救いになっているのかは、彼の想像している以上なのだ。
「命令なんて、しないわ」
「……姫さま」
少しだけ苦しそうな声のノアに、クラウディアは笑う。
「命じるのではなくて、お願いするの」
「!」
そして、ぎゅうっとノアを抱き締め返した。
大人の姿をしたノアの背中は広く、クラウディアをすっぽりと隠している。守ろうとしてくれていることを感じながら、クラウディアはその頬をノアに擦り寄せて、身を預けた。
そして、小さな願いを口にする。
「一緒にいてね。ノア」
「…………」
ノアはクラウディアの耳元で、その鼓膜に刻み込むように、掠れた声でゆっくりと紡いだ。
「あなたが離れろと仰っても、離しません」
「……ふふっ」
あまりにもはっきりと口にするものだから、クラウディアはなんだかおかしくて笑った。
笑ったはずなのに、胸の奥にはどこか懐かしさにも似た、寂しい感情がたゆたっている。
その想いを否定することはせず、五百年前に聞いた数々の声を思い出しながら、目を閉じた。
(……こうしていると、ノアの心臓の音がする……)
そのことを、クラウディアは確かに幸福に感じる。
あんまりに温かな気持ちだったから、しばらくのあいだずっとそうしていた。
ノアは何度もクラウディアの髪を撫で、大切に守るという意思を示しながら、いつまでも傍に居てくれたのだった。




