表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/229

89 魔女の願い



「っ、ぐ……!」

「――――……」


 ルイスの首の前には、小さな結界が展開されていた。


 その結界が、ノアの剣を辛うじて止めている。

 それでも震える剣先が、僅かにチョーカーへと食い込んで、そこからどす黒い色の血が流れ始めた。


 クラウディアはただただ驚いて、ノアに尋ねる。


「ノア。……どうして」


 動くなと命じたはずのノアが、その命令に背いてルイスに剣を向けたのだ。

 ノアがこれほど明確な命令違反を犯したことは、クラウディアが誰かに危害を加えられそうになったときを除いて、ただの一度もない。


「いまは、私の身に危険が及んだ訳ではないのに」

「……」


 本気で分からなくて口にしたのに、ノアは黙って眉根を寄せる。

 その視線は自らの剣先と、それを押し留めようとするルイスの結界を睨み付けていた。


「……ノア君、君ならばこの感情を理解できるはずだろう……」

「……」


 震える手を持ち上げたルイスが、結界によって寸前で止められた剣の刃を掴んだ。


「アーデルハイトさまがまだ生きているうちに、今度こそ、死ねないように作り替えておかないと……」

「…………」

「……君だって。……アーデルハイトさまを失うことに、怯えなくて済むようになるんだよ……?」

「……っ」


 結界は軋む音を立てながらも、チョーカーの破壊を防いでいる。

 剣の柄に両手を掛けたノアは、渾身の力で結界を破ろうとしており、それによって腕や剣が震えていた。


 その上で、ノアは口を開く。


「……ふざけるな……」

「……っ?」


 紡がれたノアの声は、深い怒りに満ちていた。

 その静かな憤りは、クラウディアでも目を瞠るほどだ。ノアはひとつずつ、まるで刻み込むかのように、ルイスに向けて口にする。


「確かに俺だって恐ろしい。――姫さまは、ご自身の命と引き換えに守れるものがあるのなら、今世だって平気でそれをお選びになるだろう」

「……ノア」


 クラウディアがその名前を呼んでも、いまのノアは顔を上げるそぶりすら見せなかった。


「俺だってお前と同じだ。このお方を失ったら、二度とまともになど生きていけない。世界のあらゆるものを遠ざけて、失意のままに過ごすと分かりきっている」

「っ、だったら……」

「……それでも!」


 ルイスの声を振り払うように、ノアは短く息を吐き出した。


「……俺が俺自身の絶望よりも恐ろしいのは、何よりも、姫さまが絶望してしまうことだ」

「……!」


 ルイスの目が、はっとしたように見開かれた。


「俺の人生がどれほど昏いものになろうと、二度とまともに生きていけなくなろうと、姫さまがそうならなければどうでもいい。このお方が満足したと笑って下さるのであれば、俺にどんな絶望が降り掛かっても構わない。――姫さまが、ただ生きていて下さるだけでは、駄目なんだ」

「……それは……」


 剣を掴んだルイスの手や、剣先の僅かに食い込んだ首から、どんどん血が溢れてゆく。


「俺とお前は、同類じゃない」


 ルイスの結界に剣を突き立てながら、ノアは紡いだ。


「……一緒に、するな……!」

「っ、君こそ……!!」


 結界の放つ光が増す。肌のひび割れたルイスの手から、黒い蛇のような靄が上がった。


「本当の絶望を、知りもしないくせに……!!」

「く……!」


 靄がノアに絡み付きそうになった、その瞬間。


「――!」


 ルイスの首元を守る結界が、ぱりんと音を立てて割れ砕けた。


「……え……?」


 剣先がチョーカーに食い込んで、ルイスが両目を大きく見開く。その剣を手にしたノアだって、驚いたように息を呑んでいた。


 クラウディアの小さな両手が、ノアの剣を持つ手に重なっていたからだ。


「アーデルハイト、さま……?」

「……ありがとう、ノア」


 この結界を破ったのは、クラウディアがノアの剣に注いだ魔力によるものだ。


「ノアが心配してくれた通り、私には弟子を殺すことがとても難しいわ。……それでも、シーウェルを最期の眠りにつかせる役割から、目を背ける訳にはいかない」

「っ、あ……」


 何か言おうとしたシーウェルの口から、こぽりと黒い血が溢れた。

 チョーカーが澱んだ光を放ち、苦しむように脈を打つ。ルイスの体から溢れた黒い靄の蛇も、同様に雪の上をのたうち回った。


「私はあなたのしたことを、許すわけにはいかないの。師であった人間としての責任を、果たさせてもらうわ」

「アーデルハイト……アーデルハイト、さま……!」

「五百年もの妄執に及んだ凶行の果てに、こんな結末しかあげられない。……置いて行ってごめんね、シーウェル」


 力無く伸ばされたルイスの手には触れず、代わりに跪いて頬に触れる。


「僕はあなたを、憎みたくなかった。大好きなだけでいたかった。それなのに、どうして……」

「……あなたは、私が自ら殺した唯一の弟子よ」

「!」


 目を細め、やさしくやさしく彼に告げる。


「とてもひどいことをしているわ。だからどうか、私を許さないで。私を憎むことへの罪悪感など手放して、そうして眠って」

「アーデルハイトさま……」

「あなたを殺したのは私であることを、私も絶対に忘れないから」


 そう告げると、ルイスがくしゃりと顔を歪めた。

 幼子のようなその顔は、クラウディアにとって懐かしい表情だ。まったく外見が変わってしまったはずなのに、五百年前と何一つ変わらない。


「やっぱりあなたはひどい。……とてもずるくて、残酷だ」


 ルイスはその手でクラウディアの手を掴むと、瞳を見上げて眩しそうに目を細める。


「……それでも、僕の光……」


 呟くような声が溢れたその直後、銀のチョーカーに亀裂が走った。


「!!」


 凄まじく大きな魔力が溢れ出し、突風のように吹き荒れる。

 地面が大きく揺れ、反射的に目を瞑ったクラウディアの体を、ノアが咄嗟に抱き上げて庇った。


「くそ、この魔力は……」

「……シーウェルが魂を体に縛り付けていた、その反動ね」


 ノアの腕の中に抱き締められながら、クラウディアは彼の上着を握り込む。

 振り返ったルイスの体は、まるで壊れた氷像のように、ゆっくりと崩れ始めていた。


「あの体に魂はもう居ない。代わりに魔力や呪いがすべて、解き放たれて暴れている」

「被害を出さずに抑えきれますか?」

「そのためにこの結界内で『お茶』をして、カールハインツは外側に居てもらったわ。中の異常を察知して、すでに結界の補強と修復を始めている」


 見上げた空は水色だが、あちこちに雷鳴のような閃光が走り始めていた。この空間を覆う結界の亀裂を、カールハインツが塞いでいるのだろう。


「脱出しましょう。転移します」

「……ええ。ありがとう」


 ノアの言葉に頷いたあと、クラウディアは最後にもう一度、ルイスの方を振り返ろうとした。


 自分が手に掛けたルイスの姿を、目に焼き付けておこうとしたのだ。そうしなければ許されないように感じた、そのときだった。


「姫さま」

「!」


 ぎゅうっと強く抱き締められて、クラウディアの動きは妨げられる。


「……ノア」

「あの体に、あいつの魂は入っていないのでしょう?」


 そう告げられて、僅かに目を丸くする。


「それならば、尚のこと。――ご自身を罰するかのように、辛い光景をご覧になる必要はありません」

「…………」


 クラウディアは緩やかに目を瞑る。

 そして、ぎゅうっとノアを抱き締め返した。


「転移して。行きましょう、カールハインツを手伝わないと」

「……はい」


 温かい光に包まれながら、心の中で小さく唱えた。


(あなたが生まれ変わった未来での、幸福を祈るわ)


 それは呪文の類ではない。

 かつて伝説と呼ばれた魔女であろうとも、そんな大魔法など使えないのだ。自分の無力さに苦笑しながらも、クラウディアは願い続けることにする。




***

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ