89 魔女の願い
「っ、ぐ……!」
「――――……」
ルイスの首の前には、小さな結界が展開されていた。
その結界が、ノアの剣を辛うじて止めている。
それでも震える剣先が、僅かにチョーカーへと食い込んで、そこからどす黒い色の血が流れ始めた。
クラウディアはただただ驚いて、ノアに尋ねる。
「ノア。……どうして」
動くなと命じたはずのノアが、その命令に背いてルイスに剣を向けたのだ。
ノアがこれほど明確な命令違反を犯したことは、クラウディアが誰かに危害を加えられそうになったときを除いて、ただの一度もない。
「いまは、私の身に危険が及んだ訳ではないのに」
「……」
本気で分からなくて口にしたのに、ノアは黙って眉根を寄せる。
その視線は自らの剣先と、それを押し留めようとするルイスの結界を睨み付けていた。
「……ノア君、君ならばこの感情を理解できるはずだろう……」
「……」
震える手を持ち上げたルイスが、結界によって寸前で止められた剣の刃を掴んだ。
「アーデルハイトさまがまだ生きているうちに、今度こそ、死ねないように作り替えておかないと……」
「…………」
「……君だって。……アーデルハイトさまを失うことに、怯えなくて済むようになるんだよ……?」
「……っ」
結界は軋む音を立てながらも、チョーカーの破壊を防いでいる。
剣の柄に両手を掛けたノアは、渾身の力で結界を破ろうとしており、それによって腕や剣が震えていた。
その上で、ノアは口を開く。
「……ふざけるな……」
「……っ?」
紡がれたノアの声は、深い怒りに満ちていた。
その静かな憤りは、クラウディアでも目を瞠るほどだ。ノアはひとつずつ、まるで刻み込むかのように、ルイスに向けて口にする。
「確かに俺だって恐ろしい。――姫さまは、ご自身の命と引き換えに守れるものがあるのなら、今世だって平気でそれをお選びになるだろう」
「……ノア」
クラウディアがその名前を呼んでも、いまのノアは顔を上げるそぶりすら見せなかった。
「俺だってお前と同じだ。このお方を失ったら、二度とまともになど生きていけない。世界のあらゆるものを遠ざけて、失意のままに過ごすと分かりきっている」
「っ、だったら……」
「……それでも!」
ルイスの声を振り払うように、ノアは短く息を吐き出した。
「……俺が俺自身の絶望よりも恐ろしいのは、何よりも、姫さまが絶望してしまうことだ」
「……!」
ルイスの目が、はっとしたように見開かれた。
「俺の人生がどれほど昏いものになろうと、二度とまともに生きていけなくなろうと、姫さまがそうならなければどうでもいい。このお方が満足したと笑って下さるのであれば、俺にどんな絶望が降り掛かっても構わない。――姫さまが、ただ生きていて下さるだけでは、駄目なんだ」
「……それは……」
剣を掴んだルイスの手や、剣先の僅かに食い込んだ首から、どんどん血が溢れてゆく。
「俺とお前は、同類じゃない」
ルイスの結界に剣を突き立てながら、ノアは紡いだ。
「……一緒に、するな……!」
「っ、君こそ……!!」
結界の放つ光が増す。肌のひび割れたルイスの手から、黒い蛇のような靄が上がった。
「本当の絶望を、知りもしないくせに……!!」
「く……!」
靄がノアに絡み付きそうになった、その瞬間。
「――!」
ルイスの首元を守る結界が、ぱりんと音を立てて割れ砕けた。
「……え……?」
剣先がチョーカーに食い込んで、ルイスが両目を大きく見開く。その剣を手にしたノアだって、驚いたように息を呑んでいた。
クラウディアの小さな両手が、ノアの剣を持つ手に重なっていたからだ。
「アーデルハイト、さま……?」
「……ありがとう、ノア」
この結界を破ったのは、クラウディアがノアの剣に注いだ魔力によるものだ。
「ノアが心配してくれた通り、私には弟子を殺すことがとても難しいわ。……それでも、シーウェルを最期の眠りにつかせる役割から、目を背ける訳にはいかない」
「っ、あ……」
何か言おうとしたシーウェルの口から、こぽりと黒い血が溢れた。
チョーカーが澱んだ光を放ち、苦しむように脈を打つ。ルイスの体から溢れた黒い靄の蛇も、同様に雪の上をのたうち回った。
「私はあなたのしたことを、許すわけにはいかないの。師であった人間としての責任を、果たさせてもらうわ」
「アーデルハイト……アーデルハイト、さま……!」
「五百年もの妄執に及んだ凶行の果てに、こんな結末しかあげられない。……置いて行ってごめんね、シーウェル」
力無く伸ばされたルイスの手には触れず、代わりに跪いて頬に触れる。
「僕はあなたを、憎みたくなかった。大好きなだけでいたかった。それなのに、どうして……」
「……あなたは、私が自ら殺した唯一の弟子よ」
「!」
目を細め、やさしくやさしく彼に告げる。
「とてもひどいことをしているわ。だからどうか、私を許さないで。私を憎むことへの罪悪感など手放して、そうして眠って」
「アーデルハイトさま……」
「あなたを殺したのは私であることを、私も絶対に忘れないから」
そう告げると、ルイスがくしゃりと顔を歪めた。
幼子のようなその顔は、クラウディアにとって懐かしい表情だ。まったく外見が変わってしまったはずなのに、五百年前と何一つ変わらない。
「やっぱりあなたはひどい。……とてもずるくて、残酷だ」
ルイスはその手でクラウディアの手を掴むと、瞳を見上げて眩しそうに目を細める。
「……それでも、僕の光……」
呟くような声が溢れたその直後、銀のチョーカーに亀裂が走った。
「!!」
凄まじく大きな魔力が溢れ出し、突風のように吹き荒れる。
地面が大きく揺れ、反射的に目を瞑ったクラウディアの体を、ノアが咄嗟に抱き上げて庇った。
「くそ、この魔力は……」
「……シーウェルが魂を体に縛り付けていた、その反動ね」
ノアの腕の中に抱き締められながら、クラウディアは彼の上着を握り込む。
振り返ったルイスの体は、まるで壊れた氷像のように、ゆっくりと崩れ始めていた。
「あの体に魂はもう居ない。代わりに魔力や呪いがすべて、解き放たれて暴れている」
「被害を出さずに抑えきれますか?」
「そのためにこの結界内で『お茶』をして、カールハインツは外側に居てもらったわ。中の異常を察知して、すでに結界の補強と修復を始めている」
見上げた空は水色だが、あちこちに雷鳴のような閃光が走り始めていた。この空間を覆う結界の亀裂を、カールハインツが塞いでいるのだろう。
「脱出しましょう。転移します」
「……ええ。ありがとう」
ノアの言葉に頷いたあと、クラウディアは最後にもう一度、ルイスの方を振り返ろうとした。
自分が手に掛けたルイスの姿を、目に焼き付けておこうとしたのだ。そうしなければ許されないように感じた、そのときだった。
「姫さま」
「!」
ぎゅうっと強く抱き締められて、クラウディアの動きは妨げられる。
「……ノア」
「あの体に、あいつの魂は入っていないのでしょう?」
そう告げられて、僅かに目を丸くする。
「それならば、尚のこと。――ご自身を罰するかのように、辛い光景をご覧になる必要はありません」
「…………」
クラウディアは緩やかに目を瞑る。
そして、ぎゅうっとノアを抱き締め返した。
「転移して。行きましょう、カールハインツを手伝わないと」
「……はい」
温かい光に包まれながら、心の中で小さく唱えた。
(あなたが生まれ変わった未来での、幸福を祈るわ)
それは呪文の類ではない。
かつて伝説と呼ばれた魔女であろうとも、そんな大魔法など使えないのだ。自分の無力さに苦笑しながらも、クラウディアは願い続けることにする。
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