88 魔女の弱さ
嫌悪感に満ちた表情のノアが、ルイスを忌々しそうに睨み付けた。
「……見たことか。純粋に姫さまのために動いていた人間が、姫さまを拘束することに特化した魔法を考案するはずもない」
ノアとは同意見だったので、クラウディアは仕方のない気持ちで微笑む。
五百年ずっと作り込んでいた魔法だと話していた。
ルイスはきっと、長い年月で少しずつずれてしまったのではないのだ。
(私が置いて行った。……その瞬間からきっと、歪めてしまった)
そのことを自分自身に突き付けながら、それでもクラウディアは口を開く。
「五百年という月日が経つと、多くのものが変わってゆくの」
「嘘だ……嘘だ、アーデルハイトさま」
「私だって、アーデルハイトだった頃から不変な訳ではないわ。この体にはいまの両親から継いだ魔力が流れ、『クラウディア』として成長する。ノアの魔力も混じっている」
眷属契約を結んだクラウディアとノアは、ふたりでひとつの魔力貯蔵庫を使えるようなものだ。この二年、互いに貸し借りをしたことだってあり、その度に相手の魔力が混ざって溶け込んだ。
それはきっと、ルイスの知る五百年前のアーデルハイトとは異なっている。
恐らくは、違う人間のものだと呼べてしまうほどに。
「……変質してしまっていてもいい」
ルイスはぽつりと呟く。
「それでもいい。生きて、永遠に僕の傍に居てくださるのであれば、それで……」
「やめろ。これ以上姫さまに……」
「あなたが、あなたである限り!!」
「!」
新たな鎖が地面から湧き上がり、クラウディアは少し目を丸くした。
その鎖には、茨になった黒い靄が絡み付いている。
まるで意志を持った生き物のように揺らぐその靄の正体は、紛れもない。
「――呪いが姿を見せたわね」
ルイスの首元に嵌められたチョーカーも、鈍い光を湛えていた。
「アーデルハイトさまがアーデルハイトさまである限り、その本質は変わらない」
立ち尽くしたルイスが、ぶつぶつと呟く。
「魔力が変わってしまっていても、それに合わせてこの場で結界を修復すればいい……」
「やめろと言っている。お前のそれは結界魔法ではなく、姫さまの厭う呪いだ!」
「……ノア君は、本当に僕を止めていいの? だって、アーデルハイトさまの本質が変わっていない以上」
ルビーの赤からラピスラズリの青に移り変わるその瞳が、濁った光を宿してノアを見る。
「君もいずれ、置いて行かれる」
「姫さま!」
呪いを纏ったその鎖が、再びクラウディア目掛けて振り下ろされた。
(確かにこれは、厄介だわ)
彼の持つ強い願いは、『アーデルハイトを死なせないために支配すること』だ。
あの鎖に囚われれば、先ほどのような解除は出来ない。
鎖に魔力を吸われた影響もあって、魔力の流れが乱れてしまっている。
(いま魔法を使っては、あらゆる加減が難しいわ。……であれば)
クラウディアは目の前に結界を張り、鎖の攻撃を一度防いだ。
結界はすぐさま亀裂が入り、数秒のちに砕けてしまう。けれどもその一瞬さえあれば、目的のものは用意できた。
「!」
ノアが目をみはったのは、魔法でクラウディアが見慣れないものを手にしていたからだろう。
それは細身の剣だった。
刃も柄もすべて透明で、氷か硝子を削り出して作ったかのような、華奢な片手剣だ。
「剣術には、あまり自信が無いけれど」
魔法の柔軟な制御が不得手なら、魔力を剣にして戦えばいい。
そうノアに教えたのはクラウディアで、かつての弟子たちを指導したこともある。とはいえ自分で剣を手に戦ったことは、ほとんど無かった。
「……さあ、おいでなさい」
蛇のように蠢く鎖は、クラウディアの上からこちらを狙っている。
不快な黒い靄を纏うそれは、わざとクラウディアが作った隙を察知して、再び一斉に襲い掛かって来た。
「どうか僕の傍に、クラウディア……!!」
クラウディアはふっと息を吐く。
剣に魔力を込め、身を引いて、左から右へと思い切り薙ぎ払った。
「っ、姫さま!!」
時間が停止してしまったかのように、鎖の動きがぴたりと止まる。
直後に動いたのも鎖ではない。
その鎖よりも後ろにある、庭に面していた城の壁が、ず……っと音を立てて斜めにずれた。
「な……」
振り返ったルイスが、呆気に取られたような声を上げる。
クラウディアの放った斬撃が、魔法によって波及したのだ。斜めに切り裂かれた城の壁が崩れ、がらがらと落ちる。
「やっぱり、力加減が難しいわね」
「……姫さま……」
ノアが呆れた顔をした。
切り裂かれた鎖がぼとぼと落ちて、雪の上でもがき苦しむように暴れた。それは頭を落とされた蛇のようで、ひどく醜い。
再びどしゃりと膝をついたルイスは、荒い呼吸を繰り返しながら手を伸ばした。
「まだです。……まだ僕は、あなたを許せな……」
起き上がれずに、雪に沈む。
クラウディアは手にした剣の先を下げると、さくさくと白い雪を踏み締めて、ルイスの前に立った。
ルイスは少しでも楽に息をするためか、それともクラウディアを見上げるためなのか、どうにか仰向けに身を返す。
細くて白いその喉元は、やはり肌の表面がひび割れて、朽ち果てる寸前の陶器人形のようだ。
首に輝く銀色のチョーカーは、ルイスの体へ根を張るように絡み付いている。
(無理矢理に引き剥がすことすら、きっともう叶わない)
クラウディアは、目を細めてそれを見下ろした。
(呪いの魔法道具を壊すためには、シーウェルの命ごと破壊しなくては……)
ルイスははっと息を吐き、震える声で呟く。
「どうして僕たちを、置いて行ったのですか」
「……シーウェル」
迷子になった幼子のように、泣き声の混ざった言葉を紡いだ。
「……ああして居なくなるくらいなら、一緒に死なせて欲しかった。……あなたを犠牲にしたのだと、僕たちはそれを、悔い続けて……」
(……それは)
クラウディアは、小さなくちびるをきゅうっと結んだ。
(あなたたちを、私のために失いたくなかったから)
だからあのとき、置いて行く側になることを選んだ。
(これは、私への罰ね。……魂を定着させるシーウェル自身の魔法に、呪いによる反動が絡まっていて収拾が付かない。このままシーウェルの体が崩れれば、魂は永劫に囚われて、転生もせずに苦しみ続ける……)
魔法道具のチョーカーが、脈動して鼓動を刻んでいた。
(助からないならば、せめてまともに終わらせる方法を。……それすらも間に合わなくなる前に……)
クラウディアは、透明な剣を携えたまま彼を見下ろす。
(――私が、シーウェルを殺さなくては)
そう思い、指先に力を込める。
けれどもルイスの声が、クラウディアに五百年前の日々を思い起こさせた。
「……アーデル、ハイトさま……」
「…………」
ひとりぼっちの魔女だったアーデルハイトは、王女として国や世界を守るため、いつもさびしい森の中で暮らしていた。
そこにひとり目の弟子が訪れ、傍に居てくれるようになる。二人、三人と増えてゆくうちに、大切なものはどんどん増えた。
その日々がとても温かく幸せだったことを、いまでもはっきりと覚えている。
『アーデルハイトさま!』
(……シーウェルは、いつも部屋に閉じこもって遅くまで勉強をしている、努力家で頑張り屋さんの弟子)
城の片隅に閉じ込められ、不気味だと迫害されて暮らしていたところを、出会ったその夜に連れて帰った。あの頃はまだ弟子も六人ほどしかおらず、その上にシーウェルが怯えるので、当夜は六人全員で一緒に眠ったのだ。
翌朝目を覚ましたシーウェルは、寝癖だらけのくしゃくしゃな髪のまま、嬉しそうに笑っていた。
(私のひとつ年下で、素直だけれど頑固なところがあって)
根の詰め過ぎを少し叱ると、あのころのシーウェルは、決まって真っ直ぐな目でこう答えた。
『どれほど勉強しても足りなくて。どんな努力も厭いたくありません、だって僕は』
クラウディアはゆっくりと剣を振り上げる。
『一日も早く、アーデルハイトさまのお役に立ちたいのです』
「…………」
思い出の中にいるシーウェルの姿は、いま雪の上で荒い息をついているルイスとはまったく違っていた。
それでも確かにこの子供は、アーデルハイトだったクラウディアの愛弟子だ。
「っ、かは……!!」
(体が先に朽ちては、間に合わなくなる)
「許せない……。僕たちよりも先に逝くという、死よりも残酷な結末を与えたあなたが」
(その前に、シーウェルを殺して魔法道具を壊すの)
「っ、アーデルハイトさま……!!」
クラウディアは目を瞑る。
(――これは、私の弱さね)
そして瞼を上げ、手にした剣の切っ先を、一気にルイスの喉へと振り下ろした。
「……!」
その瞬間だ。
クラウディアの振るった剣よりも先に、ルイスに突き立てられた刃がある。
がきんと鈍い音を立てたとき、クラウディアは小さな声で名を呼んだ。
「……ノア……?」
クラウディアの言い付けを破ったノアが、剣をルイスの喉元に突き下ろしている。




