80 見知らぬ人間
【四章】
「『弟が居たことは、一度もなかった』……?」
数秒の絶句ののち、スチュアートの言葉を繰り返したノアは、うつむいたクラウディアを見遣る。
「アーデルハイトさま。これはもしや」
「…………」
クラウディアは、スチュアートの前にちょこんとしゃがみ込む。
そうして柔らかく微笑むと、スチュアートを気遣いながら囁いた。
「私はあなたを信じるわ。スチュアート・ヘイデン・クリンゲイト」
「……アーデルハイトさま……」
顔を上げたスチュアートが、銀色の瞳からぽろぽろと涙を零す。
「いままで誰にも聞いてもらえなくて、さぞかし辛かったでしょう? けれど、もう大丈夫」
彼の心を溶かすように、絡まった糸をほぐすかのように、やさしくやさしく語り掛ける。
「教えてくれる? 八年前からこれまでの間に、スチュアートが見聞きしたことを」
「……っ、はい……!! 話します、すべて、何もかも……!」
スチュアートは泣きじゃくりながら、何度も頷いた。
「……俺の聖女。アーデルハイトさま……」
そして、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
***
十歳までのスチュアートは、たったひとりの王子として期待され、重圧は感じつつもそう悪くない日々を過ごして居た。
国政の勉強はやりがいがあるし、それなりに優秀な魔法の才能もある。なによりスチュアート自身が魔法を楽しみ、得意な魔法は国防にも使える結界魔法だ。
父も母も、スチュアートを親として真っ当に可愛がり、時には厳しく指導してくれていた。
けれどもその日々が激変したのは、八年前のある冬の朝である。
『おはようございます。あにうえ』
『……は……?』
家族の食堂に通されたスチュアートは、当たり前のように話し掛けてくるその子供の存在に驚いて、ぽかんと口を開いた。
父やスチュアートと同じ、銀色の髪。
家族の誰とも同じではない、赤から青へのグラデーションを描く瞳。
三歳くらいの見知らぬ他人が、当然のように親しげな笑みを浮かべながら、スチュアートに『兄上』と話し掛けてくる。
スチュアートは一歩後ろに下がり、助けを求めるように父を見た。
『父上。この子は一体……』
『どうしたのだ? スチュアート。朝食を始めよう、座りなさい』
父はなんでもないような顔で、当たり前にあの子供を受け入れている。
スチュアートが急いで母を見ると、母は頷いた。
『ルイスが食卓に来ていて驚いたのよね。もう大丈夫よ、スチュアート』
『母上……!』
味方になってくれた母の微笑みに、スチュアートはようやく安堵する。
しかし、続いて母が紡いだ言葉に、再び耳を疑った。
『可愛いルイスは、もうすっかり元気になったわ』
『……母上……?』
冷たいものが、ぞくりと背筋を這い上がる。
『それに、お母さまもあんなにスチュアートを叱ってごめんなさい。スチュアートはルイスのお兄ちゃんとして、弟の面倒を見てくれていただけなのに』
『……何を、仰って……』
『ほうらルイス、兄上にお礼を言いなさい。あなたが病床に臥せっているあいだ、スチュアート兄上は毎日あなたのお部屋を訪ねて、手を握って励ましてくれていたのよ』
(……してない)
言葉を発することが出来なくなって、スチュアートは口をはくはくと開閉させた。
(俺は、手を握ったりしていない。こいつの部屋に行ってない。そんなことしない、だってこんな……)
ぎこちなく、母の向かい側に座った子供の方を見遣る。
恐ろしくて体が震えるが、確かめずにはいられなかった。
家族の席に座り、父も母も当然のように『お前の弟』だと語るものが、そこにいるのだ。
『ありがとうございます。大好きなあにうえ』
(――こんな『弟』、俺は知らない……!)
にこっと笑った美少年は、スチュアートの記憶の何処にも存在しない生き物だった。
そのことをスチュアートが訴え、食卓を共にすることを拒んでも、父と母は不思議そうにするばかりだ。
ルイスを恐れ、怯えて部屋へと逃げ帰ったスチュアートに、ルイスを抱きながら母は言った。
『私がスチュアートを叱りすぎたのかしら。「熱を出したのは、スチュアートが前日にルイスを遊ばせた所為」と責めてしまったから、そのせいで……』
(母上は本当に、あいつが自分の子供だと思っているのか?)
『なあに、あんなに仲が良い兄弟なんだ。スチュアートもそのうち、機嫌を直して出てくるさ』
(俺はずっと、生まれたときからひとりっ子だ。それなのに……)
どれだけスチュアートが説明しても、みんながルイスと呼ばれる子供を王子だと話す。
見知らぬ弟が恐ろしくて、スチュアートは徹底的に避け続けた。
『スチュアート殿下はすっかり自信を無くされてしまったわ。もう、何か月もお部屋に閉じ籠って……』
(違う、違う! 違うんだ……!!)
『いくら血を分けた家族とはいえ、あまり優秀すぎる弟君がいるというのが重圧になってしまうのでしょう。お可哀想に』
(血を分けてなんかいない。弟じゃない。『劣等感』以前の問題だ、得体の知れない人間が家族の顔をして潜り込んでいるんだぞ……!!)
けれどスチュアートの元には毎日、その『弟』が尋ねてくる。
『あにうえ』
ノックの音が聞こえる度に、どうにかなってしまいそうだった。
『あにうえ。今日もお食事をご一緒することは出来ませんか?』
『っ、近寄るな……!!』
『先日、あにうえのお庭の魔法を拝見しました。素晴らしい結界の出来で、とっても興味があります。是非とも僕に、教えていただきたくて』
『お前なんかが、俺のことを兄と呼ぶな!!』
だって、ルイスは『弟』ではないのだから。
(兄。兄だって? 俺にそんな呼び掛けをするな。どうせお前自身にも、俺の弟じゃない自覚があるくせに……)
弟を名乗るあの生き物が、一体何を考えているのか分からない。
愛される息子の座を奪われ、王位継承権一位を奪われ、王子としての生き方も奪われた。だからスチュアートは、一番楽な生き方を選ぶことにしたのだ。
(……伝説の魔女アーデルハイトさまなら、魔法で何でも出来て、俺をこの不可解な苦痛から解放して下さったんだろうな)
美しい魔女が、自分を救ってくれる。
そんな想像をすると、不思議と胸が軽くなるような気がした。
(もう、考えるのをやめよう。誰も俺を信じない、誰も俺の言葉を聞かない。だったらあいつが入ってこないよう結界を張って、その中に閉じこもって……そうだ、外の世界の絵を描こう)
そう決めて自分に言い聞かせた。
『……あいつのことを考えるな。耳を傾けるな。美しいもののことだけ考えていればいい……』
以来スチュアートは八年間、自室と与えられた庭に結界を張って生きてきたのである。
***
「…………」
クラウディアは、スチュアートの過去について耳を傾けながらも静かに思案していた。
すべてを話し終えたスチュアートは、両手で頭を抱えるようにしながら俯く。
「毎日数回、あいつが『部屋から出て』と俺の部屋をノックする度に、叫び出しそうになるのを堪えていました」
彼にとって、それはとてつもない恐怖だったのだろう。




