74 氷の敵
ぴりぴりとした淡い痺れが、爪の近くに留まっている。
(シーウェルの魔力が、私を拒んだ?)
クラウディアが目を細めると、その手をノアが優しく握り込んだ。
「……ノア」
「痛みは?」
そう尋ねる面持ちは、とても真摯で痛ましげだ。
クラウディアのことを心から案じ、気遣っているのが伝わってくる。大人の姿をしたノアの骨張った指は、滑らかなクラウディアの爪先をゆっくりとなぞるように撫でた。
「俺に、治癒の魔法が使えれば良いのですが」
彼の先祖であるライナルトも、治癒の魔法は不得手だった。
ライナルトやノアの持つ黒曜石の瞳は、属性として闇にあたるため、治癒や庇護などの光属性と相性が悪いのだ。
(しょげてしまったワンちゃんみたいだわ)
クラウディアはくすっと笑い、ノアの頭を撫でた。
「平気よノア。痛くはないし、仮に怪我をしていたとしても大したことではないわ」
「ですが」
黒曜石のようなノアの瞳は、真っ直ぐにクラウディアを見下ろす。
「――痛みを覚えたような、そんなお顔をしていらっしゃいました」
「…………」
クラウディアは、緩やかに目を細めた。
「ただ、さびしかったの」
「……俺がお傍にいます」
そう告げられて、思わずくちびるが綻ぶ。
「分かっているわ。だから平気」
二年前、『クラウディアと一緒にいる』と約束してくれた。
それを守ってくれるノアの手をきゅうっと握り、クラウディアはランタンを傾ける。
「上の階に行きましょう。他の姫君であれば、目覚めさせることが出来る子もいるかもしれないわ」
それからノアとふたり、ひとつひとつの階を確かめながら登る。
次の階に居たふたり目の姫は、肩のところで銀色の髪を切り揃えた、涼しげな容姿の美しい姫だ。
彼女からも同様に、シーウェルの魔力を感じる。それなのにやっぱりクラウディアを拒んで、目覚めさせることは叶わなかった。
三人目、四人目の姫も同様だ。
そして塔の九階、八人目の姫に辿り着いたあとも、状況は一向に変わらなかった。
「駄目ね。魔力の流れは読めるのに、掴むことが出来ないわ」
「結界ですか?」
「似ているけれど。厳密に言うと、異なるように思えるの」
少し考え込んだクラウディアを、ノアが視線で守るかのように見つめる。
目の前で眠っている十六歳ほどの少女は、ルイスたちの親戚にあたる公爵家の令嬢らしい。
半年前、彼女が眠ってしまったことを契機にして、この国の呪いの噂がクラウディアの耳に届いたのだった。
「クリンゲイト王家筋の少女たちは、みんないつも怯えているそうよ。次はいつ自分が『病』に倒れてしまうのか、分からないと」
「それが病ではなく、人形のように目覚めなくなってしまう呪いだということを知るのは……」
「国王陛下などの、限られた人なのでしょうね。それとこの塔にやって来て、寝具の支度などをしている世話係――……」
そのときだ。
「――……」
ノアの手がクラウディアを抱き寄せて、後ろに庇う。
それと同時、剣を出現させたノアの前に、ぱきぱきと音を立てながら氷が生成されていった。
「これは……」
瞬く間に天井に着くほどの大きさとなった氷塊を、クラウディアも見上げる。
それはただの氷ではない。
足に胴体、手に頭といった部位を持つ、無骨な氷像なのだ。
「氷の、ゴーレム」
クラウディアがくちびるで紡いだ瞬間、ゴーレムがこちらに向かって腕を振り上げた。
「当たれば相当な衝撃ね」
剣を構えたノアの背中に、クラウディアは声を掛ける。
「少し待って、ノア。結界魔法を掛けてあげるわ」
「不要です」
それからノアは、なんでもないことのように言い切った。
「――当たらなければいいだけの話なので」
そして、ゴーレムの間合いに飛び込んでゆく。
氷塊を繋ぎ合わせて作られた腕が、ノアを目掛けて振り下ろされる。ノアの身長よりも遥かに高い位置から、殴り付けるような一撃が降ってきた。
その打撃を、ノアはなんなく躱してみせる。
蛇行するように駆け、それと同時に左手をかざして、ゴーレムに一発の魔法を放った。
「『業火』」
石床に出現した陣から、ごおっと音を立てて火が噴き上がる。
ゴーレムは一瞬怯んだものの、すぐさまその炎を踏み潰した。巨大な氷像を炙ったところで、すぐに跡形もなく溶かせる訳ではない。
けれど、ノアの狙いはそこでは無いようだ。
(あのゴーレムに、知性はあるのかしら?)
次の瞬間、ゴーレムがはっとしたように顔を上げる。
弱点である炎に気を取られ、ノアから視線を外してしまった失態を、あのゴーレムは自覚することが出来ているだろうか。
ノアは石の床を蹴って跳躍すると、ゴーレムの腕に一度着地した。
ゴーレムが咄嗟に反応して、もう一方の手でノアを掴もうとする。もう一度跳び、それを何なく回避したノアは、ゴーレムの頭の前で剣を構えた。
そして、掻き切るようにして真横に薙ぎ払う。
頭を吹き飛ばされたゴーレムは、ノアを捕らえようとしていた不安定な体勢のお陰で、途端にその重心を崩してしまった。
どおん! と大きな音を立て、氷の像が倒れ込む。
その上に降り立ったノアは、手にしていた剣の刃を下にすると、それをゴーレムの背に突き立てた。
そこから細やかな亀裂が走り、ゴーレムは粉々に砕け散る。
「上手ね、ノア」
クラウディアがぱちぱちと拍手をすると、ノアはその剣を構え直した。
「いいえ、まだです」
「――ええ」
クラウディアはそちらに指先を向け、くるんと回す。
すると、それまでは石壁の一部にしか見えなかった物が剥がれ落ち、中から人間が現れた。
ゴーレムに知性はなく、操っていた者がいるのだ。
彼の持つ銀色の髪を見て、ノアがその名前を口にする。
「……スチュアート」
「ひ……っ」
ルイスの兄王子、氷の庭の主であるスチュアートが、頭を抱えるようにしてその場に座り込んでいた。




