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65 記憶の潮騒




「そうして欲しい時は命令するわ。だから、それまではお利口に『待て』をしていてね」

「…………」


 ノアは歯痒そうに目をすがめたあと、小さく息をついた。


「先ほど、ルイス殿下からのお遣いがありました。『今日は楽しかった、近いうちにまた』と」

「……あら」


 意外な提案に、ぱちりと瞬きをした。


「ひょっとして、お忍びのお誘いかしら」

「……恐らくは」

「ルイスに悪い遊びを教えてしまったようね。責任を取らなくちゃ……ふわあ」


 手近のぬいぐるみをぎゅっと抱き寄せつつ、クラウディアは思案した。ノアの方は、少しだけ不服そうな表情だ。


「お見合いは継続なさるのですか?」

「ふふ。その体裁がなければ、クリンゲイト城に何日も留まれないでしょう?」

「……ルイス殿下は、姫さまをお気に召されたようですが」

「そうねえ……」


 ノアには何も話していなかったのだが、見ていて何かを察したのだろう。


(お昼のお忍びで『お話し』をして以降、ルイスが私に向ける表情も明らかに変わったもの)


 それまでのルイスも優しかったが、それはあくまで『年上として、自分よりも幼い子供を相手にする』という振る舞いの一環だった。

 けれど、それが明確な変化を見せたのである。


 クラウディアが転んでしまわないよう、手を繋ぐだけでなく足元にも気を配ってくれる。クラウディアがお礼を言うと、とても幸せそうに笑ってみせるのだ。


「安心して……きっとそのうち、結果が出るから……むにゃ」

「結果?」

「んん……」


 緩やかな瞬きを重ねつつ、ノアに告げる。


「この城に漂う魔力は、やっぱりどこか歪だもの……。呪いの気配を感じるのに、巧妙に覆い隠されているわ」

「姫さまでも、明確には分からないのですか?」

「呪いの主は、よほど結界魔法に長けているのね……。でも、ここが渦中なのは、間違いなくて……あふ」


 いよいよ本格的にうとうとしてきた。魔力は十分に満ちてきているものの、八歳の子供としては随分と小柄なこの体には、お昼寝が必要なのだ。


「ルイスに、もちろんまた遊びましょうとお返事をしておいて。ノア」

「……姫さまのお命じになるままに」

「いいこ」


 クラウディアはにこりと笑ったあと、目を閉じてくうっと寝入るのだった。


「…………」


 シーツに散らばったクラウディアの髪を、ノアの指がそっと掬う。

 けれどもその指は、たった一度だけ大切そうに梳いたあとで、すぐに離れた。


 主君に触れてしまったノアは、自分自身の手のひらを睨み付けるように見下ろしたあとで、力強く握り締めるのである。




 ***




「――そろそろ目覚めろ、アーデルハイト」

「……?」


 アーデルハイトが緩やかに目を開けてみると、そこは穏やかな砂浜の海辺だった。


 浅瀬には、白色の椅子が置かれている。アーデルハイトは、海に浸かったその椅子に座って、そこでまどろんでいたらしい。


 爪先を濡らすのは、瑠璃を溶かしたかのような青色の海だ。

 押しては返す波の中、アーデルハイトの纏っていた白いドレスの裾が、潮風をはらんでクラゲのように揺れていた。


 それらをぼんやりと眺めていると、すぐ傍からもう一度呼び掛けられる。


「アーデルハイト」


 アーデルハイトは振り返り、波打ち際に立っている青年を見遣った。


「……ライナルト」


 黒い髪色に黒曜石のような瞳の青年は、アーデルハイトの一番弟子だ。


 彼の方が年齢もひとつ下だが、身長はアーデルハイトよりもずっと高い。

 肩幅も広く、しっかりとした体格で、通りすがる女性たちは誰もが振り返るほどに精悍な美貌を持っている。


 ざぶざぶと波打ち際を歩いてきたライナルトは、アーデルハイトを見下ろしてふっと笑った。


「まだ覚醒しきっていないのか? お前にしては随分と、無防備な表情をしている」


 そう言って、アーデルハイトをエスコートをするかのように手首を取る。

 それに身を任せて立ち上がりながら、アーデルハイトはあくびをした。


「……夢を見ていたわ。もう少しだけ眠ろうかしら」

「おいおい、日が暮れるまで午睡を楽しむつもりか? お前が起きていてくれないと、他の弟子たちが退屈がってうるさい」

「お前がみんなの兄弟子でしょう? ライナルトはお兄ちゃんなのだから、よく面倒を見てあげて」

「偉大なる魔女アーデルハイトさま。それは荷が重すぎるというものだ」


 ライナルトは片手間に椅子を消しながら、アーデルハイトが転ばないように導いて歩く。


「シーウェルが篭りっきりで研究をしている。どれだけ呼んでも出てこないんだ、せめて治癒魔法を掛けてやってくれないか」

「私が行って、出て来るように声を掛けようかしら?」

「いいや、お前が言うのは逆効果だ。あいつはお前に少しでも認められたくて、それで躍起になっているんだからな」


 シーウェルという名の弟子は、数年前にアーデルハイトが拾った青年だ。


 出会ったばかりのあのころは、少年と呼ぶべき年齢だった。

 いまでこそすっかり身長も伸びて、大人の青年らしき外見になったものの、あの頃から癖が変わらない。


「お部屋に閉じこもるのは相変わらずね。シーウェルは自分を追い詰めすぎだわ。今のままでも素晴らしい魔法の腕を持っているし、頑張り屋さんなのだから、もっと自信を持たせてあげたいのだけれど」

「そう言ってやるな、アーデルハイト。シーウェルを含め、お前の弟子である俺たちが道を極める理由は、お前の役に立てる存在になりたいが故なのだから」

「……」


 白い砂浜には、ふたり分の足跡が点々とついている。目を細めたアーデルハイトに対し、ライナルトは言葉を重ねた。


「あいつは迫害されて生きてきた。見出してくれたお前に恩を返すのに、どんな努力も惜しまないさ」

「根を詰めすぎて、ずっとお部屋から出て来ないほどに?」

「熱心さゆえに引きこもりがちになるのは、どうか許してやってくれ」


 遠くで波の音がする。


(随分と、懐かしい夢を見ているものね)


 アーデルハイトの生まれ変わりであるクラウディアは、そんなことを静かに考えながら、懐かしい声に耳を傾けた。


「きっと、じきに素晴らしい成果を披露してくれるさ。あいつの、結界魔法の才能があれば」

「……ええ、そうね。楽しみだわ」


 けれどもシーウェルの魔法の完成形を、クラウディアはとうとう見ることがなかった。


 この弟子たちを遺したまま、ひとりで死んでしまったからだ。

 それを後悔したことはない。だが、弟子たちがどんな風に過ごしたのかを知る手段が無いことだけは、唯一の心残りだとも言えるのだった。


 懐かしくて愛おしい弟子たちの名は、クラウディアとして生きる命の中で、時折ふと耳にするだけなのである。


 たとえば魔導書の片隅に。

 国々の王の名に。

 弟子たちの面影を感じ取ったとき、クラウディアの胸中には、さまざまな感情が波のように去来するのだった。




***




 クリンゲイト国に来て三日目、お忍びの翌日となる午後のこと。


 クリンゲイト国王やメイドなど、周囲を取り巻く大人たちは、クラウディアとルイスの様子を見て驚いたらしい。


 それもこれも、ルイスがクラウディアに接する際の振る舞いが、昨日に引き続き変化していたからだ。


「クラウディア。こちらにおいで」


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