60 従僕のおねだり
ノアがクラウディアを抱き寄せたのと同時に、転移魔法が発動する。
氷を纏ったスチュアートの指は、クラウディアに触れることはなかった。
「――――……」
目を開けたとき、クラウディアは用意された賓客室にいる。
正しくは、転移したノアの腕に抱き留められていたのだった。
「……あの絵は、スチュアートが自ら描いた物のようね」
腕の中にすっぽりと納まったまま、クラウディアはノアに告げる。
「弟のルイスには及ばなくとも、スチュアートもそれなりの魔法の使い手だわ。私たちに直前まで気取らせなかったことと言い、あの庭を維持していることと言い……」
「……」
「ノア?」
いつまでも離そうとしないので、クラウディアはノアを見上げた。
すると間近で視線が重なる。黒曜石の色をした瞳には、あからさまな憤りが滲んでいた。
「……あの男」
ノアは、スチュアートが手を伸ばそうとしたクラウディアの手首をそっと手に取る。
とても清廉なものに触れるかのような、それでいてなんらかの感情を押し殺すような、丁寧さと強引さの入り混じった触れ方だ。
「姫さまに、触れようとしました」
「…………」
その言葉に、クラウディアはくすっと笑う。
「心配しなくていいの」
大人の姿をしたノアに向けて、小さな子供を諭すように言い聞かせた。
「どこにも怪我は無いわ。分かるでしょう?」
「お怪我などもってのほかです。ですがそれ以前に、あの男が姫さまに触れる可能性があったことすら、許す訳には参りません」
もう片方の手は、クラウディアの背に回されて離れない。
ノアからしてみれば、華奢で柔らかなクラウディアの体は、壊れそうな細工にでも見えているのだろう。
「主君を危険な目に遭わせてしまったことは、俺の失態です。今より、あの男の元に戻ってやり直すことをお許しください」
「私のノアは、とってもお利口だったのに? 一体何をやり直すと言うのかしら」
「姫さまは今後もあの男に接触なさるおつもりでしょう。であればあの男がもう二度と妙な気を起こさぬよう、事前によく思い知らせておく必要がある」
黒曜石の瞳には、静かで深い憤りの炎が燻ぶっている。
ノアは、クラウディアを抱き留めるように腕へと閉じ込めたまま、真摯なまなざしで告げた。
「――あなたは、俺の王女です」
「……」
その視線には、眩しいほどに強い意志が込められている。
クラウディアが命じれば、ノアは自分の持つ膨大な魔力と魔法の才を費やして、世界ですら滅ぼそうとするだろう。
それが一国の王子であれ、クラウディアの敵ならば消す気でいるのだ。
「姫さま」
低音だがどこか甘えるような声音で、ノアがクラウディアを覗き込んだ。
「どうか俺に、あなたの許可を」
「ノア」
ノアの懇願を、クラウディアはじっと見つめてみる。そのあとで小さく笑い、ノアの頭に手を伸ばした。
それから特別に甘くてやさしい声で、この忠実な従僕を叱る。
「だぁめ」
「…………」
よしよしと黒髪の頭を撫でると、ノアはあからさまに不服そうな表情を作った。
つい先ほどまでは、努めて冷静に振る舞おうとしていたはずだ。それなのに、今でははっきりと苦い顔をしていた。
「私たちは侵入者で、スチュアートはこの国の王子よ。気になる点は多々あれど、いまの段階で追い詰めるのは時期尚早だわ」
そう言うと、ノアは俯いた。
「お前は普段は大人びているのに、私のことになると幼いわね」
「……それは」
けれどもそれで当然だ。ノアはまだ十一歳なので、年齢相応な方が良いに決まっている。
「可愛い従僕。そのおねだりはまだ許可を出せないわ。我慢なさい」
「姫さま」
「お返事は?」
「…………」
よしよしと撫で続けながら見守っていると、ノアはやがてぐっと何かを噛み殺すように眉根を寄せ、目を閉じた。
「姫さまのお命じになるままに」
「いいこ」
ノアの顎に指を添えて、自分の方を向かせながら微笑む。
「ふふっ。けれど、あんまり叱らないでおこうかしら。私を守ろうとしてくれたのだものね」
「……お願いですから、ここで上機嫌にならないでください……」
ノアは言い、クラウディアの背に回していた腕を解いてしまった。
少し冷静になったのか、今更気まずそうな顔をしている。よくよく見れば、耳も少しだけ赤くなっていた。
「……お体を抱き締めてしまい、申し訳ございませんでした」
ノアにとって、子供姿のクラウディアを抱っこするのは平気なことだが、大人の姿のクラウディアには近付き過ぎないようにしているらしい。
「私のためでしょう?」
「そうであっても、姫さまを軽々しく腕の中に閉じ込めるのは、軽率だったと自省しています」
(まあ。私の方をまったく見なくなってしまったわ)
クラウディアはくすくすと笑いつつも、この忠誠心溢れる従僕に伝えた。
「スチュアートのことを再調査するのは、お前の言う通り決定事項だわ。けれどそれも後のこと、いまは何よりもお昼寝ね」
「承知しました。ではひとまず、八歳のお姿にお戻りください」
ノアに頼まれて、クラウディアは黒曜石の瞳を見上げる。
「ノアはまだ、大人になったり子供に戻したりする魔法が使えないものねえ」
「高度ですから。……ですが、すぐに使えるようになってご覧に入れます」
「楽しみにしているわ。あふ……」
もう眠たいクラウディアは、大人の女性の姿のまま、小さなあくびを手で隠す。
「お外に出ちゃったから、寝台にすぐ入るのはお行儀が悪いかしら……。……眠くてお風呂は無理だから、ノア、私の体に浄化の魔法を掛けて……」
「ですから。俺に浄化をさせたいなら尚更、大人の姿は解除を……姫さま!!」
そしてクラウディアは、ひとまずの魔力回復をはかるべく、晩餐に呼ばれている時間までたっぷりのお昼寝を楽しんだのだった。
***
「……聖女。あれは、間違いなく聖女だ……」
クリンゲイト国第一王子でありながら、王太子ではない身のスチュアートは、雪の庭でぽつりと呟いた。
庭に浮かび上がった扉、結界の外と繋がる出入り口からは、ノックの音とルイスの声が聞こえてくる。
「兄上。……兄上、ルイスです。先ほどの続きですが、今夜こそお部屋から出ていらして、よかったら一緒に晩餐を……」
「……うるさいな」
スチュアートは、淀んだ目を扉の方に向けた。
「兄。兄だって? 俺にそんな呼び掛けをするな。どうせ……」
すぐさま頭が痛くなって、スチュアートは顔を顰める。
「……考えるな。耳を傾けるな。美しいもののことだけ考えていればいい……そうだ、俺の聖女!」
伝説の魔女、アーデルハイトと同じ名を持つ女性のことを思い出して、深く息をついた。
「あんなに綺麗なものが、この世界にあるなんて。……あの美しさを、せめて俺の手元に留めておきたい……」
「兄上」
ルイスの呼び掛けには返事をせず、スチュアートは壁に描いた巨大な絵を見上げる。
そして、そこに描かれた女性たちを見詰めた。
「俺の手元に、美しい聖女を留めておくには――……」
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2章へ続く




