58 白銀の庭
「……氷雪のお庭」
そう呟いた呼気が、ほわっと白く染まる。
傍らのノアも、一緒に周囲を見回した。いまの季節は春だというのに、中程度の広さがあるその空間は、一面の白と銀色に覆われている。
どうやら元々は薔薇園だったようだ。
けれども茨の木々も、綻んだ赤い薔薇の花も、みんな凍らされていた。
鎧のような氷の中からは、瑞々しいままの花々が、じっとこちらを見詰めているように見える。
「魔法で、この庭を冬に留まらせているのね」
クラウディアの傍らで、ノアが短い呪文をひとつ詠唱した。その魔力は、白い毛皮のマントに変化してゆく。
ノアがクラウディアの背に触れると、春の薄いドレスを纏っていたクラウディアの肩には、滑らかでふわふわとしたマントが掛けられた。
クラウディアは自然にそれを纏ったまま、真っ白な雪の庭を歩き始める。ノアが周囲を警戒しつつ、クラウディアに尋ねてきた。
「この庭を維持しているのは、相当な魔法の使い手では?」
「そうね。でも、繊細なのだか大胆なのだか分からないわ」
クラウディアは自分たちの足跡を振り返る。大きな男性の足跡と小さな女性の足跡、雪についたそのくぼみがみるみるうちに修復されていくのを見て、ノアが顔をしかめた。
この雪の庭には、足跡のひとつも残っていない。
けれどもそれは、クラウディアたちが最初に足を踏み入れたからではなく、『残された足跡が消える』という仕組みになっているからだ。
「このお庭に、人の気配は無いけれど……」
「お気を付けください。いまの俺たちのように、気配を遮断する魔法を使っている可能性もあります」
この二年で、ノアは随分と場慣れしてきた。クラウディアは微笑んだあと、さくさくと雪を踏みしめて進む。
降り注ぐ春の陽光が、雪原や氷漬けの花々を輝かせた。
はあっと吐き出した白い息さえも、きらきらとダイヤモンドのような瞬きを帯びながら消えてゆく。
「美しい庭だわ」
「――……」
瞬間、先を歩いていたノアが、右手を翳すようにしてクラウディアを制した。
ノアが警戒した理由は、クラウディアにもよく分かる。
薔薇園の端にある城壁には、その壁面をいっぱいに使った、大きな絵が描かれているのだ。
硝子のように繊細なそれは、クラウディアも思わず目を奪われるほどの芸術品だった。
平らな壁に描かれた絵であるはずなのに、まるで現物がそこにあるかのような立体感だ。暖かそうで柔らかそうで、ほのかに輝いているようにさえ見える。
こんなに美しいにもかかわらず、ノアが警戒してみせたのは、その絵のモチーフが理由だろう。
「……美しいお姫さまたちが、眠っている絵ね」
「……」
描かれた姫君たちは、目を閉じたままだ。
ノアはその絵を睨み付けながら、クラウディアを背中に庇ったまま口を開いた。
「魔法によって作られたものでは、ないようですが」
「そうね、誰かが描いたのだわ。この壁面いっぱいに、彼女たちの絵を」
「一体誰が、なんのために?」
「これほど美しいのだから、普通なら芸術品として考えるべきでしょうけれど……」
そこまで言い掛けたあと、クラウディアとノアは同時に一点へと目を向けた。
悲鳴が響いたのは、その直後だ。
「っ、うわあああ!?」
「…………」
この庭に、主が帰って来たらしい。
当然のように前に出たノアが、クラウディアを庇って剣の柄に手を掛ける。クラウディアはそんなノアの背中に触れ、後ろからひょこっと顔だけ出した。
「……あらあら?」
雪の上には、ひとりの男性が蹲っている。
髪色はどうやら銀髪だ。成人男性としても長身だが、どうやらひどく痩せていた。あれほど丸くなった体勢では、それくらいしか分からない。
「な……なんで俺の庭に他人がいるんだ……!? 有り得ない。こんなことは……!!」
ノアは眉根を寄せたまま、クラウディアに告げる。
「お下がりください。魔法で気配を消していて、直前までこちらに存在を悟らせませんでした」
「ええ。大したものだわ」
普段なら、こうした無断侵入に近い調査をするときは、魔法でこちらの気配を遮断する。
もちろんこれは、姿を消すような魔法ではない。姿を見られてしまっては隠せないからこそ、クラウディアたちは周囲の気配に気を配り、誰かが近付いてきたら身を隠すのだ。
けれどもこの『庭の主』は、ほとんど完璧に気配を消していた。
そのお陰で、こちらの姿が見られてしまうまで対処が取れなかったのだ。
念のため、八歳の王女クラウディアと従僕のノアとしての姿ではなく、大人の姿を取っておいて正解だった。
「『レオンハルト』」
クラウディアは、ノアの本名で彼を呼ぶ。
ノアという名前は、クラウディアが付けた新しい名前だ。そんなノアが大人の姿をしているときは、偽名の代わりに『レオンハルト』と呼ぶことが多い。
「ひとまず、この方にごめんなさいをしないとね」
「……はい」
ノアはいつでも剣を抜けるようにしながらも、蹲った男の方に歩いていく。
「申し訳ございません。我々は諸事情で旅をしている者ですが、転移魔法に失敗しこちらに迷い込んでしまったようです」
こんなときのために用意している言い訳は、この二年でかなり充実してきている。けれども庭の主は、ノアの言葉に顔を上げる気配もなく、頭を抱えたまま震えていた。
「……んで。一体なんで……? 結界を張ったはずなのに、なんでこの庭に他人がいるんだ? ……あっ、待てよ、いやそうか……!!」
「……?」
そして男性は、そこだけ妙にはっきりとした声で断言する。
「それもこれも、すべて俺が生きる価値もない愚鈍な存在で、雑魚すぎるからなんだ……!」
「………………」
その瞬間のノアの表情には、『どうしてその結論で自信に満ちているんだ』と言いたげな、いささか引き気味の感情が滲んでいた。




