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44 従僕の宝物


 クラウディアの吐いた血を見たノアが、焦燥に満ちた声でクラウディアを呼ぶ。


「姫さま!!」

「――前を!」

「っ」


 クラウディアを背に庇ったノアが、振り下ろされた蛇の頭を剣で止めた。


 あの角度から叩き込まれて、剣が弾き飛ばされなかったのが奇跡のようだ。

 大きく剣を振って押しやるが、それと同時に天井からは、すべての黒い靄が落ちて来る。


「くそ……!!」


 どぷりと床に溜まったそれは、ゆっくりと蠢きながら、徐々に何かの形に変化し始めた。


 クラウディアは床にぺたんと座り込み、口元を押さえたまま荒く呼吸をする。後ろの子供たちからは見えていないはずだが、異常が起きたのは兄たちには気付かれたようだ。


「クラウディア!? おい、大丈夫なのか!?」

「君、体が……!! 魔力についていけなくて、限界なんじゃないか!?」


 兄たちの声がする最中も、ノアがぐっと顔を顰め、クラウディアに手を伸ばす。


「姫さま、下がって下さい! カールハインツさまが結界を壊すまで、俺が凌ぎます……!」

「……っ、ふふ!!」


 浅く息をつきながらも、クラウディアはなるべく悠然と笑った。


「へいきよ、ノア」


 黒い靄の塊は、巨大な心臓のように脈打っている。


 呪いに意思があるとしたら、生き物に憧れているのだろうか。

 蛇の形をはじめとして、なにがしかの生き物や魔物の形を作るところを、五百年前もたびたび目の当たりにした。


 この靄がいま作ろうとしているのは、背中に大きな翼を持つ、竜の姿だ。


「こんなもの、あとでいくらでも治せるわ。だからへいき、つづけるの」

「……見くびらないで下さい……!」


 立ち上がろうとするクラウディアに、竜へと剣を向けたノアが叫ぶ。


「あなたが辛くて苦しいのを、俺が分からないとでも思うんですか!」

「!」


 それを聞いて、心底不思議な気持ちになった。


(……だめ)


 すぐさま思考をノアから離す。こうしている間にも咳が出て、新しい血がどんどん零れていった。


(ノアの、言葉を、聞いてはだめ……)


 頭の奥がくらくらとする。ここで少しでも気を抜けば、そのまま意識を失いそうだ。


(いまはあの呪いに集中して、壊さなければ)

「俺が戦います。あなたはどうか、安全な結界の中に……!」

(竜の形を取った呪いは、疑似的に竜の性質を真似る。顎の下、竜の逆鱗がある場所に、エミリアねえさまから受け取った魔力を貯蔵している核があるはず)

「お願いです!! 撤退を」

(……子供たちと、ノアを守るために魔法を使うの。……あと一度、あれを焼き払って核を削ぐくらい、簡単でしょう……?)


 黒い靄は、瞬く間に竜の形を作り上げてゆく。

 時々どしゃりと輪郭が崩れ、呪いが床に飛び散るが、すぐに集まって蠢いた。


「姫さま……!! どうか」

(はやく)


 震える足で立ち上がりながら、なかば朦朧としつつ考えた。


(……私の体は、壊れてもいいから……)


 クラウディアが、黒竜と化しつつある呪いに手のひらを向けようとした、そのときだった。


「――……っ、姫さま!!」

「!!」


 大きな声がクラウディアを呼んで、霞んでいた意識がはっきりとした。


 目の前のノアに、強く手首を掴まれている。

 クラウディアは、いつも冷静に振る舞おうとするノアが、こんなに大きな声を出すのを初めて見た。


「はなしなさい」


 血に濡れた赤いくちびるで、ノアに告げる。呪いはいまだ形成途中だが、いつ動き出すとも知れないのだ。


「すぐにあの呪いをこわすから、いい子にしていて」

「ふざけるな」

「……ノア?」


 ノアは静かな怒りを滲ませ、クラウディアを見据えていた。


「俺はあなたの従僕です」

「……」


 ノアは怒っているはずだ。


 それなのに、どうしてこんなにも悲しそうに見えるのだろう。そう思いながらも、どこかぼんやりと彼を見上げた。


「あなたのために生きると誓った。あなたの傍に居て……! あなたが生きていてくれなければ、俺の生にはなんの意味もなくなってしまう」

「……わたしの弟子。おまえには、たくさんの可能性があるといったでしょう?」

「その可能性をすべて捨ててでも、あなたのために生きたいと願ったんです」


 真摯な声に、クラウディアは小さく息を呑む。


 本当なら、こんな問答をしている場合ではないはずだ。

 分かっているのに思考が揺らぎ、ぽつりと口にしてしまう。


「……だめ」


 我ながら、本当に幼い女の子のような声音だった。


「ぜったいに、だめ」

「姫さま」

「……死なせたくない」


 ノアのまなざしが、五百年前の弟子たちに重なった。


 二十人を超える愛弟子たちは、みんなクラウディアの大事なもので、自分よりも守りたい存在だった。


「たくさんいたわ。そのなかでも、大多数はちゃんと守れたの」


 でも、と小さくくちびるで紡ぐ。


「……でも、すべては守れなかったの」

「……っ」

「ひとりだって、ほんとうのほんとうに、死なせたくなかったの……」


 きっと今ここに居るノアも、クラウディアと同じ気持ちでいてくれるのだろう。


 クラウディアを死なせたくないと、そう願って戦ってくれている。だが、置いて行かれる側になるくらいなら、誰かを置いて行った方がずっといい。


 だからクラウディアは、笑みを浮かべて紡ぐのだ。


「わたしは、やりたいことしかしないわ」

「……だったら!!」


 ノアはホールに膝をついて、真正面からクラウディアを見据える。


「強欲なふりをするのなら、せめてすべてを選んで下さい」

「……?」


 クラウディアがこぼした血が、ノアの衣服を汚していた。


 その光景を、どこか他人ごとのように見つめてしまう。クラウディアよりもノアの方がずっと、クラウディアの血を見て辛そうな顔をしていた。


「あなたは何も、諦めなくていい」

「――!」


 そう言われて、こくりと喉を鳴らす。


「周囲の人々を守って、俺を死なせない道を選んで。その上で、あなた自身も生きる道を選ぶべきだ」

「……ノア?」

「俺を生かしておきたいのならば、自分自身も絶対に生き延びると約束してください」


 黒曜石の色をした瞳が、射抜くような強さで見詰めてきた。


「飼い犬が、あるじを亡くしてひとり、まともに生きていけるとでも思っているんですか」


 その言葉に、クラウディアは一度の瞬きを刻む。


「俺は生涯、あなたの従僕になる覚悟を決めています。だからあなたも、俺の主君で居続ける覚悟をしてください」

「……わるい子。わたしの手をはなして、言うことを聞いて……」

「駄目だ、逃がさない。――……俺が守る、何があっても」


 ノアの表情は拗ねているが、それ以上にとても切実だ。



「…………俺の王女だ」

「!」




 大切な宝物を眺めているかのように、そんな言葉を紡ぐ。


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