39 呪いと子供たち
その瞬間、手にしていた四つの風船の紐を、無意識に手放してしまっていた。
捕らわれていた風船たちが、ふわりと空に浮かんでゆく。クラウディアの手から逃れ、漂うように泳ぎ始めた空には、きらきらと星が瞬いていた。
五百年前の濁った空など、お伽噺の嘘のようだ。
「……救った……」
こうまで真っ直ぐな言葉を口にできるのは、それこそノアがまだ子供だからだろうか。
それとも、彼の生粋のやさしさなのだろうか。
クラウディアは、自分がどうあっても手に出来ないものを持っているノアが眩しくて、目を細める。
「……わたしが?」
そんなはずはない、と。
否定するつもりだったのに、くちびるが無意識に尋ねてしまった。
するとノアは、迷わずに答える。
「言ったでしょう。俺だって、あなたに救われた人間のひとりだ」
「…………」
クラウディアは、ノアのくれた迷いのない肯定を、とても不思議な心地で見詰めた。
黒曜石の色をしたノアの瞳が、クラウディアを労わるようにすがめられる。ノアは、まだ子供でしかない手をクラウディアに差し伸べた。
「そのお召し物では、庭は冷えます。――中へ」
「……」
その手をそっと繋ぎ返し、クラウディアは歩き始める。
お腹の辺りが、ほわほわと不思議に温かいような心地がした。
それと同時に、かつてのアーデルハイトだったとき、人々から向けられた言葉を思い出す。
『――何故です、偉大なる魔女アーデルハイト。あなたともあろうお方が、あの国に負けるはずなどないでしょう……!!』
『早く、早く、助けてくれ!! 魔女なんだろう、歴代始まって以来の天才なんだろう!? 息子たちの目を覚まさせてやってくれ。自分が何をしているかも分からずに、兄弟で殺し合っているんだ……!!』
『あなたが呪いを防げなかった。あなたが呪いを蔓延させて、あなたが殺したようなものだ……!!』
クラウディアとして転生してから、アーデルハイトの記憶を取り戻すまで、クラウディアの頭の中にはずっとこんな声がこだましていた。そのことを、今になって思い出す。
その声よりもはっきりと、先ほどのノアの声が思い出された。
『……俺はあのとき紛れもなく、あなたが起こした行動によって、呪いの苦しみから解放されました』
クラウディアは、歩きながらそっと目を伏せる。
「ノア」
「後にして下さい。いまはともかくホールに戻って、何か温かい飲み物を……」
「わたしが庭におりてきたのは、おまえとはなしをするためではなかったの」
そう告げると、クラウディアの手を引いていたノアが足を止めた。
「ほんとうは、まっていたの。正妃がわたしに仕掛けてくるにあたって、『良心』をきちんともっているのなら、くらやみを好んでくると思って」
「……姫さま?」
「めじるしに風船をもってみたけれど、とうとうおそってこなかったわね。おとながいない、まっくらやみで、ほかの子供から離れている……こんな絶好の条件なのに、この庭でわたしを殺さないなら、刺客はきっとおとなではないわ」
「!」
クラウディアが言わんとすることを、ノアもどうやら察したらしい。
「それでは、つまり」
「その状況は、なるべくかんがえたくなかったけれど。もしも今夜、わたしをころそうとする人間がいるとしたら、それはここにいる……」
クラウディアが言葉を紡いだ、そのさなかのことだ。
「――――……!!」
――ばつん! と大きな音を立てて、何かが弾けるような音がした。
あちこちに吊るされていた魔法のランタンが、一斉に炎を消したのだ。
中庭は暗闇に包まれて、ノアが咄嗟にクラウディアを庇う。クラウディアは小さな声で詠唱し、ひとつの魔法を展開させた。
「『保護』」
「……っ」
ホールに続く扉の向こうからは、子供たちの悲鳴が上がった。
「姫さま。これは……」
「……残念ね」
心の底からそう思い、呟いた。
真っ暗な闇に浸されたのは、クラウディアたちのいた中庭だけではない。ナイトパーティーの行われていたホールからは、暗闇に怯える子供たちの泣き声が聞こえてくる。
「ちいさなこどもをころすのに、ちいさなこどもを巻き込むだなんて」
クラウディアの言葉と共に、ノアが前方へと視線を向けた。
中庭はもともと、ホールよりも灯りが乏しくて薄暗かった。そのお陰ですぐに暗闇に慣れて、いくらかは辺りの様子がわかる。
中庭からホールに戻るための硝子扉には、ひとりの少女が立っていた。
彼女が庭に降りてこなかったのは、夜の暗闇が怖かったからだろうか。『刺客』の役割を言い付けられたが、何も出来ずにいたのだろう。
それでも、出さなくても良い勇気を出して、作戦を決行したらしい。
「……きゅうにまっくらになったから、びっくりしちゃった!」
クラウディアはそんな彼女に向け、無邪気なふりをして声を掛ける。
「ね。だいじょうぶ? ここは暗くてこわいから、いっしょにホールにかえりましょ」
「……」
「姫さま……」
クラウディアを呼ぶノアの声に、彼女はぴくりと反応する。
もしかすると、ナイトパーティーで誰かに見せたかったのだろうか。少女は昨日見たときよりもずいぶんとおめかしをしてきたようだ。
母親と同じ赤色の髪に、黒色のリボンが可愛らしい。
彼女が纏うそのドレスは、瞳よりも暗い色をした紫だ。上品で、年齢以上に大人びたそのドレスは、ある種の覚悟を思わせる装いだった。
その胸元には、銀色の首飾りが揺れている。
そしてクラウディアは、半分血の繋がった彼女の名前を呼ぶのだ。
「ね。エミリアねーさま」
「……あなたなんか……」
エミリアは、まっすぐにクラウディアを睨みつけた。
アメジストの紫色をしたその瞳は、強い魔力を物語る色濃さだ。その中に燃えている感情は、はっきりとした嫉妬と怒りだった。
「妹じゃない。あなたみたいな、魔力もない下賤の血の娘が……!」
「ノア、ホールの中へもどるわよ。これは広範囲にえいきょうを及ぼすものだわ、ちいさなこどもがなによりも危ない」
「分かりました。……姫さま、あの首飾りはまさか」
「……ずいぶんと、懐かしいものをみせてくれたものだわ」
相変わらず、見た目だけは美しい。
その首飾りは、一見すれば繊細な銀細工のようだった。
型取られているのは葉のついた薔薇だ。銀色で小さなその花が、エミリアの胸元で揺れている。
先ほどまでは、作製時に込められた魔力が尽きて、空っぽの首飾りだったのだろう。
どれほど禍々しい道具であっても、魔力がなければ普通の装飾品と変わらない。傍まで持ち込まれていたとしても、気が付けないのが忌まわしいところだ。
そんな首飾りに、エミリアが魔力を注いだのである。
首飾りからは、穢れた魔力の残り香が漂っていた。並の魔術師ではきっと、気付くことすら出来ない程度の痕跡だ。
しかし、クラウディアにははっきりと分かった。
「――あれこそが、呪いのこめられた魔法道具よ」
紫色をしたエミリアの瞳が、憎悪に満ちた目でクラウディアを見据えている。
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