29 忘れ得ぬこと
【六章】
その人物が、夢の中で度々思い出すのは、彼が幼かったころの忘れ得ない記憶だ。
裸足で歩く石畳は、凍り付くほどに冷たかった。雪の降る中、全身が動かせないほどに冷え切って、とにかく空腹で仕方がなかった。
(俺はこのまま、ここで死ぬのか)
そう考えて立ち止まる。
気力だけで命を持たせていたから、それが折れれば何もかも終わりだ。冷たい街の中、誰も立ち止まる大人はいなくとも、そんなことは分かり切っていた。
(……どうでもいい。何もかも、どうでも、ここで終わっても……)
すべてを攫って行くような、抗いがたいほどの眠気が襲ってくる。
冷え切った煉瓦の壁に身を凭れさせ、ゆっくりと目を閉じようと考えた。彼女の声が聞こえてきたのは、ちょうどそんなときだ。
『――起きて! ねえ君、起きて、しっかりして!』
ひどく大きな声がして、顔を顰める。
このまま眠ってしまいたかったのに、少女は大声でわめき続け、無遠慮に体を揺すってきた。
『ねえ、分かる? これ、スープ、あったかいの……』
『う……』
『起きて。お願い、飲んで、お口を開けられる? ……そう、上手、少しずつでも飲んで……!!』
くちびるに押し当てられた器から、温かいスープが流れ込む。
舌先に触れたその味は、これまでに食べた何よりも旨かった。そのスープも、野菜くずの欠片しか入っていない、簡単に塩で味付けしただけの代物だったのに。
『よかった……。少しは体が温かくなった? そうしたらこっちにおいで。荷馬車の後ろだけど、雪が止むまで一緒にそこで寝よう。凍えないで済むから』
そう言った少女は、もちろん知り合いでもなんでもない。
初めて見る顔なのに、なんの疑いもない笑顔で、こちらに向けて手を伸ばしたのだ。
『……いまのは、君のスープだったんじゃ……』
『私はいいの! 上手に歌えたご褒美で、いっぱいご飯を食べたあとだから!』
そう言って笑った少女のお腹は、きゅうっと空腹の音を立てた。
彼女はぱっと腹を押さえたあと、イエローサファイアのような金色の瞳で、こちらを見て恥ずかしそうに笑う。
ミルクティー色の髪が、冷たい風にふわりと揺れた。
『へへ……本当にいいの。あなたが今夜死なずに済んで、明日の朝おはようって笑ってくれるなら、それだけで私はお腹いっぱいだもん!』
『……』
『さあおいで! 私はドロテア、歌を歌っているの。あなたの名前は?』
『……俺の、名前は……』
あの夜のスープほど温かく、かけがえのない味がする食べ物のことを、カールハインツは他に知らない。
一国の筆頭魔術師となり、それなりの財を得て、食べるものに困ることもなくなった。
けれどそれでも、二十年前に口にした、塩味しかしないスープのことが忘れられないのだ。
***
その夜、アビノイア国筆頭魔術師であるカールハインツは、国王フォルクハルトに拝謁していた。
「よくぞクラウディアをこの城に連れて来たな。カールハインツよ」
謁見の間で玉座に腰を下ろしたフォルクハルトは、いつもより機嫌が良さそうだ。
だが、表面上そのように見えるときがもっとも危険な状態なのだと、カールハインツは知っている。
「無垢ではあるが、なかなか聞かん気も強いようだ。この一か月ほど、あれが体調を崩していたというのは、恐らく偽りなのだろう?」
「いいえ、断じてそのようなことは。……少なくとも、私が面会させていただいた際は、ひどい高熱にお苦しみでいらっしゃいました」
「ははっ」
カールハインツのついた嘘を、フォルクハルトは一笑に付す。
「クラウディアの瞳は、ごく淡い金だったな? 瞳の色は魔力の性質を表すが、濃淡は大まかな強さを測る目安にもなる。あの淡さでは、魔力無しとの判定も頷けるという、お前の報告通りだが……」
フォルクハルトの赤い瞳に、映り込んでいる灯りが揺れる。
「よもや、見たままを信じている訳ではあるまい?」
「……陛下」
「お前もクラウディアに騙されているなどと、つまらぬことは言ってくれるなよ。――もっとも、恐らくクラウディアには、私やお前を欺き切れるという思いはないようだがな」
それについても、概ねは同意だ。
(……クラウディア姫殿下は賢いお方だ。とても、長らく幽閉され、教育すら放置されてきた六歳の少女とは思えないほどに)
聡明で深く物事を考え、大人びた視点で世界を見ている。大胆で恐れを知らない振る舞いにも、勝算があってのことなのだという説得力があった。
(鑑定をさせていただいたことはないが、あのお方は間違いなく、膨大な魔力を有していらっしゃる。私などは足元に及ばず――あるいは、陛下ですらも。そしてクラウディア姫殿下は、そのことを周囲には秘匿している)
この一か月、塔の近くに宿を構え、折に触れてクラウディアたちの様子を見て来た。
彼女たちが近隣の村で、なんらかの事件を解決して回る際は、カールハインツがそれを手伝ったこともある。
しかしその際、クラウディア自身は無力な王女を演じ、その功績は従者のノアやカールハインツのものであるとして村人に報告していたのだ。
鑑定においても、クラウディアは水晶の前で偽装をし、その反応を隠し切った。
あの場にいたほとんどの人間が、その変化には気が付かなかっただろう。
けれど、日頃から自身の膨大な魔力を制御し慣れている人間は、どうしても感じ取ってしまうのだ。
カールハインツはあのとき、魔力の変動が起きたことをはっきりと理解した。
そうなればもちろん、歴代国王の中でもっとも優秀な魔術師であると言われるフォルクハルトにも、クラウディアの魔力を感知できただろう。
(クラウディア姫殿下は、ご自身が強力な魔術師であるという点を、誰よりもお父君に隠したかったはずだ。……だが、隠し通せないことも、恐らくは覚悟していらっしゃった)
そう考え、目を伏せる。
(ご自身がどのような目に遭おうとも、あの村を余計な災禍へと巻き込まないために、すべてを分かった上で王城にいらしたのだ。……当然、私も覚悟するべきだろう)
それでもカールハインツは、まずは言葉を選んでおく。
ここで下手な答えをしては、クラウディアに不都合が生まれる可能性があるからだ。
「姫殿下が魔力をお持ちの可能性については、私でも確証を得ることは出来ませんでした。その段階で滅多なことを申しては、さまざまな問題に繋がりかねませんので、事前にお伝えするわけにもいかず」
「は。迂闊に『実際は魔力があるように見える』などと口にすれば、私がそれを元に正妃を離縁し、マグノニア国との同盟決裂を進めると考えたか?」
「……陛下へのご報告が遅れたことを、心よりお詫び申し上げます」
「ならぬ」
「!」
フォルクハルトは、冷め切った声音でカールハインツに告げた。
「――許すわけが、ないだろう?」
ガーネットの色をしたその瞳は、完全に瞳孔が開いている。
「臣下の身分でありながら、私に物事を隠そうとしたのだぞ。国家への反逆とも取れる愚行、筆頭魔術師ともあろうお前が、みすみす犯してみせるとは。なあ? カールハインツよ」
フォルクハルトは、ゆったりとした声で言い放つ。
「私に殺されても仕方がないことを、お前はしでかしてみせたよな?」
「…………」
カールハインツに向けられるのは、物や家畜を見るまなざしだ。




