28 第一王女の欲しいもの
「ふえ……。ひっく、う……」
アビアノイア国の第一王女、エミリアは、物陰でずっと泣きじゃくっていた。
その手には乾いた泥がこびりつき、爪の中まで黒く入り込んでいる。目元を拭うこともできず、隠れて泣いているその少女は、先ほどからひとりぼっちだった。
『……本当に、陛下に泥をぶつけるだなんて。なんということをしてくれたのですか、エミリア……!!』
頭の中でこだまするのは、エミリアを叱り付ける母の声だ。
『で、ですが、お母さま……! さっきも言った通り、あの子が私に』
『そのようなことは、もはやどうでもいいのです!!』
先ほどの母は、エミリアの嘘を信じてくれた。
それなのに、父に中庭を追い出された今となっては、母は一切の言葉を聞き入れてくれない。
『陛下は私たちに出て行けと。庭を出ろと……!! 正妃の私とその娘を差し置いて、あんな下賤の者が産んだ、汚らしい子供を残したのですよ!?』
『ひ……っ』
『エミリア、あなたがそもそもあんなことをしなければ……!!』
『ご、ごめんなさい……。お母さま、ごめんなさい……!!』
エミリアが謝っても、まったく母の耳には入っていないようだった。
『お母さま。だってね、私……!』
『失礼いたします、妃殿下。マグノニア国より、魔術師が商談に参りました』
『いま行きます。エミリア、あなたはここでしばらく反省しているように』
母はそう言い放つと、侍女と共に何処かへ行ってしまったのだ。
それからずっと、エミリアはこの裏庭で途方に暮れている。
(だって、お母さまが……。あの子を虐めて追い出せば、きっとお母さまが喜んでくださるって、そう思ったから……!!)
そのことを、母に伝えることが出来なかった。エミリアは悲しくて、ぐすぐすと泣き続ける。
(あんな子がいなければ。……クラウディアが、私の妹じゃなければ……)
お腹の底で、ぐらぐらと怒りの渦が巻き始める。
悲しさと憤りで、エミリアの心はぐちゃぐちゃだ。汚れた手では涙も拭えず、途方に暮れてしまう。
そのときだった。
「きゃあ……!?」
「!」
誰も近づかないはずの裏庭で、背の高い生垣の向こうから人影が飛び出す。
その人物も、エミリアに驚いて足を止めた。涙にぼやける視界の中で、エミリアは彼の正体に気付く。
「あなた、あの子の従者の……」
エミリアの前に立っていたのは、黒髪に黒い瞳を持つ、同い年くらいの少年だった。
実は先ほどから思っていたが、少年は随分と整った顔立ちをしている。王女であるエミリアから見ても、とても目を惹く外見だ。
はっきりとした二重の目元は涼しく、エミリアと同じくらい睫毛が長い。瞳の黒色は神秘的で、見ているだけで吸い込まれそうだ。その凛々しい顔立ちは、まるでどこかの国の王子さまであるかのようだった。
年齢は近いように見えるのだが、彼の方がずっと背が高い。それに、とても大人びて見えるのは、寡黙な雰囲気と冷静そうな表情の所為だろうか。
「驚かせてしまって、申し訳ありません」
少年が静かに頭を下げたので、エミリアは思わずどきりとした。
「べ、別に。お前なんかに驚かされたりしていないから」
「……ですが」
彼が物言いたげにしているのは、エミリアが泣いているからだと気が付いた。
恥ずかしくなり、慌てて俯く。もう、顔が汚れてしまっても良いと、泥まみれの手で涙を拭おうとしたときだった。
「目を擦ってはいけません」
「!」
少年が、エミリアの手首を掴んで止める。
「な……っ!! げ、下賤の従者のくせに……!! 私に触るなんて、許されないから!!」
「お許しを。ですが、泥だらけの手では怪我や病の元です」
だが、ハンカチはドレスの隠しポケットに入れていて、この手で取り出せばドレスごと汚れてしまうのだ。エミリアには他に涙を拭う方法はない。
少年は、少し迷う素振りを見せたあと、小さな声でエミリアに言う。
「……このことは、大人には内密にしていただけますか」
「え……?」
彼は言い、小さく魔法を詠唱したようだった。
少年が唱えたのは、ほんの短い単語だったように思う。
だというのに、少年の手には柔らかな光が溢れ、球体となってふわりと漂った。
「な、なに、これは……!? あなた、何する気なの!!」
「お静かに」
「っ!!」
冷静な言いように腹が立つ。けれども少年は、怯えるエミリアには見向きもせず、光の球を誘導する。
ふわふわ浮いてきたその光が、エミリアの両手を包み込んだ。心地よい温かさを持ったその光は、弾けるように一瞬で消えてしまう。
「……きれいになってる……」
自分の両手を見て、エミリアはぱちぱちと瞬きをした。
「あなたの魔法?」
「簡単な浄化です。その御手なら、ご自身のハンカチか何かを探せますか?」
「あ……」
それでようやく、少年が魔法を使った理由を理解する。
(まさか、私のため?)
心臓が、どきどきと早鐘を打ち始めた。
(魔法の詠唱。普通はすごく長い呪文を使わなくてはいけないのに、この子が小声で呟いたのは、何かの単語だけ。ひょっとしてこの子、すごく魔法が上手なの?)
少年はエミリアから離れると、目を伏せてから一礼した。
「……それでは、遣いの途中ですのでもう行きます。改めて、驚かせて申し訳ありませんでした」
「あ! ま、待って……」
エミリアが引き止める暇もなく、少年は再び駆けてゆく。
(あの従者……。確か、ノア、と言ったはず)
心臓の高鳴りは増す一方で、どんどん頰が熱くなる。
涙の止まったエミリアは、ノアが浄化してくれたその両手で、自らの左胸を押さえてから呟いた。
「素敵。……欲しい、あの子、ものすごく……」
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