219 本当の
一面に、白い百合の花が咲き乱れた。
咽せ返るような甘い香りと共に、聖堂の中が純白へと埋め尽くされる。それはまるで、月光に輝く雪原にも似た光景だ。
「!」
花のひとひらがノアに触れる。
すると真っ白な雪色は、その花から順に黒く染まり、ノアを中央に黒百合へと変化していった。
「支配の呪いを、いま解くわ」
その言葉は、ノアに向けて伝えたものではない。
静かに立ち上がったノアの首元から、先ほどまでの黒い靄は消えている。ジークハルトが顔を歪め、ノアに告げた。
「……どうしてお前なんだ。レオンハルト」
「…………」
掠れながら紡がれたその声に、はっきりとした怒りが滲んでいる。
「俺の欲したものは全部、本当はお前のものだった。……正当な王の座も、アンナマリーの兄だという立場も、一流の魔法を扱う力も……」
妹の名前を耳にしても、ノアの背中は動揺を見せない。
「アーデルハイトも、お前のものだ。お前ばかりが、それを手にしている……!!」
「ジークハルト」
クラウディアは手近な黒百合を摘み取って、それを口元にそっと寄せる。
「あなたはやはり、ライナルトに強く支配されているわね」
「なにを……」
「だって」
ノアの呪いを花びらに吸い上げ、黒く染まった百合の花は、彼らの瞳と同じ色だ。
「本当は、そんな子じゃあないでしょう?」
「…………!?」
夢の中で出会ったジークハルトが、クラウディアに話してくれたことからも明白だ。
「そもそもが、玉座への関心なんてなかったはず。アンナのことも、自分ではなくノアが本当の兄だと知ったなら、心を痛めるのが『ジークハルト』だったわ」
「君は、何を言って……」
「『レオンハルト』の為に身を引くことも、国民のために敵対する意思を固めることも出来る――あなたはまさに王族と言える、そんな考えを持った聡明な子よ」
「…………っ」
ジークハルトの強い視線が、初めてクラウディアに向けられた。
「……やめろ、アーデルハイト」
「ライナルトは、それをあなたから奪っている。……別の思考を植え付けていると、そう言った方が正しいかしら?」
「やめろ!!」
頭を押さえて叫んだ声に、黒百合の花がざわめいて揺れた。
「私が欲しいなどと感じるのも、ライナルトがそう支配したから」
「……違う」
こちらを振り返ったノアに向けて、クラウディアはまなざしで合図をする。
その上で、言葉ではジークハルトへの宣告を続けた。
「違わないわ。だってあなた、内心では分かっているでしょう?」
「…………っ!!」
「ノアに勝って私を手に入れても、そのあとの世界にあなたの意思なんて無い。ライナルトは今度こそ、あなたの全てを奪い去って――……」
「静かに、してくれ……!」
叫びと共に放たれた炎が、真っ直ぐクラウディアに襲い来る。
クラウディアは手にした黒百合を、炎に向けて杖のように翳した。焼き尽くされるかに見えた黒百合は、実際のところは炎に勝り、業火を容易く消し飛ばしてくれる。
「いまはまだ、話しても聞いてくれないようね」
そのことを残念に思いながら、『待て』をしていた臣下に告げる。
「――ノア」
「はい」
すべてを理解しているノアは、あるものを生成する魔法を使った。
警戒を見せたジークハルトが、ノアに向かって剣を構える。けれども現れたものを見て、訝しそうに顔を顰めた。
「短剣……?」
ノアが生み出したその武器は、おおよそ戦いには向かないものだ。
「そんなもの。一体何に、使うつもりだ」
「ジークハルト」
落ち着いていて低いノアの声が、静かに従弟へと紡がれる。
「俺は、お前の言葉に賛同する」
「!!」
眉根を寄せたジークハルトに、ノアは淡々とこう続けた。
「本来は、俺がお前になるはずだった。ライナルトに支配され、欲しくもない玉座に据えられて、自分の望みは何も叶わない」
「……黙れ」
「いつだって喉が渇いたようで、足りない感覚に苛まれている。姫さまを……」
短剣を手にしていない方の手で、ノアが再び首元に触れた。
「『アーデルハイト』を手に入れれば、支配による渇きから逃れられると信じて、戦うしかない」
「……黙れと、言っているんだ……!!」
ノアの言葉を聞きながら、クラウディアは緩やかに目を眇める。
(きっと、『レオンハルト』も……)
母が魔法で予知したうちの、いくつかの未来が重なったのがあの夢になるはずだ。
夢の中で出会った彼は、いつだって飢え切った獣のようで、それを必死に理性で押さえ付けているように見受けられた。
「だから、俺が断ち切る」
短剣を手に取ったノアの構えに、ジークハルトが目を見開く。
その柄は、ジークハルトの方に向けられていた。つまり剣先、銀色の光を放つ刃は、ノア自身の胸元へと突き付けられている。
「……何を、するつもりだ」
「姫さまの手を、煩わせるまでもない」
十年前に見せた魔法を、いまのノアは完璧に再現するだろう。
それが分かっているからこそ、クラウディアはそちらに手を貸さない。
(私はほんの少し、ジークハルトの動きを封じるだけ)
あとはきっと、ノアに任せるべきなのだ。
「少しだけ、辛抱していろ」
「……っ」
剣の先が、ノアの左胸へ一気に突き立てられる。
「――醜い鎖は、切ってやる」
クラウディアのそれと混ざったノアの魔力が、ぶわりと膨れ上がるのが分かった。




