218 欲と願い
「っ、く……!!」
声を押し殺したノアが、自身の首を絞めるように掴む。
「俺たちは、この支配に抗えない」
ノアを見下ろしたジークハルトが、再びその手に剣を出現させた。
「ライナルトの血が流れるこの体で、逃れることは出来ないんだ」
「――――っ」
「さあ、アーデルハイト……」
苦しむノアを前にして、ジークハルトがこちらを振り返る。
「君に、結婚を申し込みたい」
「……あら」
クラウディアはくちびるで微笑みを作りつつ、敢えて楽しそうにこう答えた。
「思い出したわ。ライナルトも時々冗談のように、私にそんなことを願ったわね」
「ははっ。ひどいことを言うんだな、分かっていた癖に」
ジークハルトのこめかみに、汗の雫がひとつ伝う。
「俺の願いも、ひとつだけだ。アーデルハイト」
「……聞いてあげる。続けてご覧なさい?」
「ただ、君を手に入れたい」
クラウディアは、ジークハルトの父親を壊した魔女だ。
けれども黒曜石の双眸には、クラウディアに対する強い恋情が見える。目の前で苦しむノアのことなど、排除すべきものとしか捉えていない。
「十年前のあの日、庭園から見上げた君の姿は、何よりも本当に美しかった……!」
「…………」
クラウディアは、ゆっくりと目を閉じる。
「呪いとは、強い願いなの」
「……アーデルハイト?」
剣を手にしたままのジークハルトが、クラウディアを不可思議そうに見上げた。
「そして願いとは、紛れもなく欲のこと。欲を願いに変え、その願いを呪いに変える、そんな忌まわしき魔法があるわ」
クラウディアはことんと首を傾げ、ジークハルトに尋ねた。
「ライナルトが、各地に呪いの魔法道具をばら撒いたのは、私やあなたたちを支配する呪いを育てるため?」
「……さあ」
クラウディアから目を逸らしたジークハルトは、再びノアのことを見下ろす。
「どうだろうな?」
切先が、荒い呼吸を繰り返すノアの、強い光を持つ眼前に向けられた。
「これで終わりだ、レオンハルト。俺は君を排除して、アーデルハイトを手に入れる」
「……姫さまを……」
掠れた声を絞り出して、ノアが少しずつ言葉を紡ぐ。
「手に入れることなど、出来るものか」
「……あまり思い上がるなよ。レオンハルト」
ジークハルトのその声音に、彼らしくない苛立ちが混じった。
「必死で抗っているようだが、無駄に終わる。ライナルトの呪いによる支配は、俺たちを決して逃すことはない」
「…………っ」
「何度も。……何度も逃れようとしても、全てが無駄に終わる……」
発せられたのは、何処か小さな声であるようにも聞こえた。
けれどもすぐさま払拭される。ジークハルトはにこやかなふりをして、足元のノアにこう続けた。
「お前はもう、アーデルハイトを守れない」
「…………」
「その立場は、ようやく俺のものになるんだ」
会話の形にすらなっていない、一方的な言葉たちばかりだ。
けれどもジークハルトは、血を分けた従兄に言い聞かせるように、ゆっくりと口にするのである。
「ごめんな。……諦めて屈してくれ、レオンハルト」
「…………お前、は」
深く俯いて息を吐いたノアが、依然として掠れた声で言う。
「姫さまのことを、なにひとつ知らない」
「――――……」
そのとき、聖堂内の空気が静まり返った。
「……自分が、傍に居たからと言って」
剣を握ったジークハルトの右手へ、何かを堪えるような力が籠る。
「一体それがなんだと言うんだ? 足りないものは補えばいい。これから何十年、何百年と連れ添う中で、アーデルハイトのすべてを知ってゆくだけだ」
「お前に、そんなことが、出来るはずもない」
「……なんだって?」
浅い呼吸を繰り返すノアが、ここで珍しく笑みを浮かべた。
「姫さまが、ただ俺に守られるだけの、そんな姫君に見えているのか?」
「…………」
「俺の主君は、愛情深いお方だ。……今はわざわざ、俺に、守らせてくださっているだけであり……」
ノアの顎から伝った汗が、ぽたりと赤い絨毯に落ちる。
「本来ならばご自身のお力のみで、あらゆるものを排除できるお方」
「……まさか」
ジークハルトは目を見開き、再びクラウディアを仰ぎ見た。
「ましてや今は、長い仮死の眠りからお目覚めになり、魔力の満ちた魂と器を取り戻されたばかりだ」
「アーデルハイト、君は……!」
「…………」
会話を差し向けられたクラウディアは、にこりと微笑む。
「時間稼ぎをありがとう、ノア。お前は本当に、私の良い子ね」
「……あなたの従僕の身であれば、当然のこと」
「お陰でじっくりと分析できたわ。ライナルトが使う『呪い』の構成が、どのようなものであるか――……」
クラウディアはゆっくりと、ふたりに向かって手を翳す。
「あとでいっぱいご褒美をあげる。『呪いを注がれても抵抗しては駄目』と命じた、悪いご主人さまからの罪滅ぼしよ」
「そんなものは、必要、ありません」
手の甲でぐっと汗を拭い、ノアが顔を上げる。
「それよりも、俺に見せてください」
少しだけ見せた生意気さは、『レオンハルト』の面影だろうか。
あるいは傍らのジークハルトに向けて、無意識に見せ付けているのだろうか。
ノアこそが、唯一クラウディアに向けて我が儘を言える、可愛い飼い犬であることを。
「これまでのような『器』の制約が無い、本当のあなたの全力を」
「……ふふっ!」
きっともう、クラウディアが魔法を使って眠くなることは、二度とない。
そんなことをはっきりと感じながら、無詠唱の魔法を発動させる。
「叶えてあげる。可愛いノア」
「っ、アーデルハイト……!!」




