217 従弟
空中を、壁を、床を滑るように這いながら、その手がクラウディアに触れようとする。その指でクラウディアの喉を掴み、食らおうとしているのが如実に分かった。
(……私を魂ごと奪おうとする、闇魔法……)
クラウディアは確かめることにする。
指先を動かさず、ノアにもひとつの合図をして、その場から動かないようにまなざしで告げた。その直後のことだ。
「――――……」
クラウディアに触れた影の手が、ぱんっと音を立てて爆ぜる。
「……何?」
ジークハルトが眉根を寄せ、壇上に座るクラウディアを見上げた。
「母さまが警戒していた通りね。私の中にあるアーデルハイトの魔力を、そのまま支配する魔法……」
「……君という器には、魔力がすでに満ちているはずだ。それなのに、何故……」
「もちろん、見ての通りにいっぱいよ。だけど、私にその魔法は通用しないわ」
クラウディアは左胸に手を添えると、ジークハルトににこりと微笑んだ。
「私の中には、ノアの魔力が混ざっているもの」
「……レオンハルト……!!」
クラウディアに行動を許されたノアが、すっと静かに歩み出た。
主君の敵であるジークハルトを前にしても、何処か悠然とした余裕が見える。剣を手に緩やかな構えを取ったその背中を見て、クラウディアは微笑んだ。
(本当に、美しい男に成長したものね)
彼はクラウディアのよく知るノアでありながら、夢で会った『レオンハルト』の持っていたような、孤高の雰囲気も纏っている。
ジークハルトは無理やりに口の端を上げ、歪んだ笑みを浮かべた。
「――お前には、もう、会いたくなかったな。レオンハルト」
「…………」
ノアと同じ色の双眸が、皮肉っぽく眇められる。
そこにいるジークハルトという青年の姿に、かつての魔法学院で会ったころの、太陽のような眩さは見付けられない。
「どいてくれ。俺は」
ジークハルトの右手にも、魔力の揺らぎと共に剣が生まれた。
「アーデルハイトを、手に入れる……!」
ジークハルトが踏み出した一歩が、ノアの間合いの中に踏み込む。
「――――……」
その瞬間、ノアがジークハルトの刃を薙ぎ払った。
剣尖が空を切る凄まじい音を、ジークハルトがすぐさま躱す。刃を返すノアの動きには、一切の無駄がない。
「……っ、はは……!!」
ジークハルトとノアの剣が、ぶつかりあって音を散らす。一度、二度と剣が交わされ、その度に聖堂へ音が響いた。
「六年前と、同じだな、レオンハルト……!」
「…………」
けれどもあの時と違うのは、ふたりが成長したことだけではない。
(お互いに、剣術と魔術を混ぜながら戦っている。あの子たちのどちらもが、最も得意とする戦術……)
どちらも闇魔法の使い手だ。九歳のノアに出会ったばかりの頃、クラウディアはこんなことを教えていた。
『ノア。お前の魔力はね、攻撃特化の性質を持っているの』
瞳の色は、魔法の性質を表している。黒曜石の瞳を持つ魔術師は、闇魔法の使い手だ。
『攻撃力は最上級だわ。その代わり、瞬間的に発動させたり、柔軟に形を変えるのが苦手なのよ』
『なら、どうすればいいんだ』
『簡単なこと。戦闘時は常に発動させておいて、形状を変えなければいいと思わない? ――たとえば、魔法で剣を作っておいて、その剣を使って戦うの』
そんな方法を話したのは、ノアが初めての相手ではない。
五百年前、最も近しく傍にいた魔術師を見て、すでに同じことを試させていたのだ。
『――どうかしら? ライナルト』
『……ああ。こうして剣を用いることで、戦術が効率化されたのが分かる』
黒曜石の瞳を持つ『最初の弟子』は、心から嬉しそうに微笑んだ。
『さすがは、アーデルハイトだ』
ライナルトは恐らくジークハルトにも、同じ方法を伝えているのだろう。
ジークハルトの長剣が、ノアの喉元へ真っ直ぐに迫った。ノアは一切それに怯まず、ジークハルトの片目を狙う。
互いの剣を弾き、その度に魔力が迸って、ふたりの周囲を取り巻いた。炎の渦がノアに襲い掛かるのを、氷の大蛇が喰らい付いて止める。魔術と剣術の噛み合った攻防が、クラウディアの膝下で繰り広げられていた。
(ジークハルトの成長には、目を見張るものがあるわ)
すべての動きを観察しながら、クラウディアは思考を巡らせる。
(幼い頃のジークハルトはもちろんのこと、魔法学院で見た『ルーカス』のときよりも……夢の中の彼の振る舞いとも、まるで違う)
クラウディアが眠りに就く三年前、レミルシア国の当時の王、つまりはジークハルトの父が死んだ。
かの国はそれから三年間、大喪の儀を行うことを名目とし、国を閉ざして沈黙したのである。
(この三年で、ジークハルトに何かしたわね。だって……)
前世を度々思い出すのは、ジークハルトの振る舞いが、あまりにもライナルトに似ているからだ。
(似ているというよりも、ライナルトそのもの。『レオンハルト』に対しては、それほど感じなかったのに)
ノアよりもジークハルトの方が、ライナルトに魂の性質が似ている。そのことが影響しているのか、大喪の儀が原因か、それを予想することは難しい。
聖堂の床から噴き上がった炎が、ノアとジークハルトを分断する。ジークハルトは畳み掛けるように、炎をノアへと向かわせた。
(……それでも)
猛る炎は、それ自体が脅威になるだけではない。ジークハルトの姿を隠し、ノアにとっての死角を生み出す。
(ノアだって、この三年でとても強くなったわ。何より……)
「――遅い」
重心を低くしたノアが、一気に踏み込む。
炎への結界を張る速度も、剣を操るその技巧も、クラウディアすら目を見張るものだ。
「……レオンハルト……!!」
(……私の傍にいるノアは、誰にも負けない)
ジークハルトの手にした剣が、矢のような速度で弾き飛ばされた。
後方に放り出された剣を、ジークハルトは振り返らない。そのままノアへと手を翳し、結界を張るような素振りを見せる。
「く……っ!」
それでもジークハルトは間に合わない。
ノアの剣が、血を分けた従弟の頭上へと振り下ろされた、そのときだった。
「――――!!」
何かを察知したノアが、後ろに退く。
「……これは」
「ノア」
からん、と床に落ちたのは、ノアが持っていたはずの剣だ。
「っ、は」
絞り出すような笑い声が、ジークハルトのくちびるから溢れた。
「ははは、は!」
「……っ」
ノアが咄嗟に喉元を押さえ、片膝をつく。ノアの周囲に湧き上がった黒い靄に、クラウディアは目を細めた。
「覚えのある、魔法だろう?」
「……ジーク、ハルト」
「お前が子供の頃、散々苦しめられてきた呪い……」
先祖であるライナルトに乗っ取られたジークハルトが、まったく同じ血を引くノアを見て、低い声音でこう紡ぐ。
「あの奴隷契約よりも、更に強力な、支配の魔術だ」
ジークハルトの喉元には、まるで首輪のように巻き付く、真っ黒な紋様が浮かんでいた。




