22 最悪の的
名前を呼ぶと、ノアはクラウディアを振り返った。
「姫さま。お怪我や汚れは?」
「わたしはへいき。それよりもノアだわ、どろまみれ」
「俺はどうとでもなります。……それよりも」
視線を前に戻したノアが、目の前に立っている少女を見据える。
ふわふわとした赤髪のその少女は、この場にいる女の子たちの中で、誰よりも上等なドレスを纏っていた。
しかし、その両手には、泥で作った塊が握られている。
「……当たらなかったの? ふうん、つまらない」
「お、おい、エミリア……!」
ヴィルヘルムが呼んだ『エミリア』という名前も、クラウディアは事前に聞いていた。
(これが、私の姉)
エミリアは、真っ直ぐにクラウディアを睨んでいる。
(……そして、あの正妃にとっての、唯一の子供ね)
王都を訪れるにあたり、クラウディアの住まう塔の中で、カールハインツはさまざまなことをクラウディアに話した。
カールハインツは、クラウディアの中身がアーデルハイトであることを知らない。
しかし、普通の少女ではないことにはもちろん気付いており、ある程度は包み隠さずに話してくれるようになっているのだ。
『ヴィルヘルム殿下、エーレンフリート殿下の母君は、国王陛下の第二妃であるカサンドラさまです。カサンドラさまは、ご病弱でいらっしゃるものの、妃殿下がたの中でもっとも陛下の寵愛が深いお方ですね』
『では、せいひはどう?』
『……正妃殿下におかれましては、私の口からは』
カールハインツが顔を伏せ、言葉を濁したことで、おおよその状況は把握する。
恐らくは、父王に正妃への愛情はない。そして、それが城内に知られている程度の扱いを受けているのだ。
『せいひは、どこからおよめに来たひとなの?』
『お生まれは、大国マグノニアの姫君でした。我が国アビアノイアとは長年の同盟関係にあります』
『ふうん……』
跪くようにして膝をついたカールハインツは、改めて顔を上げる。
『正妃殿下にもお子さまがいらっしゃり、そちらがエミリア姫殿下です。ご年齢は、エーレンフリート殿下と同じ八歳で、クラウディア姫殿下の姉君にあたります』
『その子も、たくさんのまりょくをもっているのかしら?』
『恐らく、歴代の姫君の中では、これまでで最多であらせられたかと。……もっとも、クラウディア姫殿下を除けば、ですが』
目の前にいる赤髪の王女エミリアは、すうっと目を細め、冷めた表情でクラウディアを見ている。
そして、口を開くのだ。
「下賤の子が、どうして今更この城に来たの?」
「こら、エミリア! 駄目じゃないか。そんな泥をどこから……」
「そうだよ。いきなり投げつけるなんて」
「うるさい。兄さまたちは、静かにしていて」
「うぐ……」
エミリアの淡々とした言葉に、ふたりの兄は口を噤む。
エミリアは、アメジストのような紫色の瞳を、静かな怒りに燃やしていた。
「言っておくけど、ここにいる全員があなたのことを大嫌いだから。魔力も無い、そんな汚らわしい存在は、泥まみれがお似合いなの」
「……」
クラウディアは、ノアの後ろからエミリアを見上げた。エミリアはそれを受け、ますます冷たい表情を向けてくる。
「なに。私に意見するつもり? それとも、恐ろしくていまにも逃げ出したいのかしら」
「…………」
エミリアは、僅か六歳であるクラウディアが、怯えて泣くものと思ったらしい。
けれどもクラウディアは、しばらくエミリアを見つめたあと、ぷいっと顔を背けて無視をした。
「な……っ」
「ノア、ノア、いたくない?」
「姫さま」
クラウディアはノアの上着を引っ張り、彼にこちらを向かせる。
「おようふく、べしゃべしゃ。かわいそう……」
「問題ありません。このくらい、洗えばどうにでもなる」
「じゃあ、おせんたく、いこ! ね、ノア、はやく!」
ノアの手を取り、ぐいぐい引っ張って歩き出すと、エミリアが無表情のままぶるぶると震え始めた。
「……無視。私を無視。下賤の娘が?」
「ノア、ここもね、きをつけて。ころんだらだめよ?」
相手をする気はないのだと、クラウディアは視線でノアに告げる。
(ふたりの兄たちとは違って、私への嫌悪の形成に根深いものがあるわ。私はどうせ明日には塔に帰る。こんな悪意の相手をするのも、面倒だもの)
周りには聞こえないように、言葉にも出してそれを説明した。
ノアは迷わずに従って、クラウディアを庇うような位置を歩く。クラウディアたちが、生け垣によって仕切られた庭の向こうに行こうとした、そのときだ。
「待ちなさい……!!」
先ほどのように、エミリアが泥を持つ手を振りかぶった気配がする。
けれど、今度はノアも動かない。その泥がクラウディアへ当たらないのは、明らかだったからだ。
その代わりに、投げつけられた泥の塊は、生け垣の向こうから現れた男性にぶつかった。
「――――!!」
その瞬間、子供たちの顔色が青くなる。
現れた人物の纏う服は、白地に金色の刺繍がされたものだ。その下部、膝の辺りで潰れた泥の塊が、上等な布地を染める。
(あら。まさか、この人物に当たるなんて)
「……」
その男性は、自身の足元を見下ろした。
俯く仕草で、金色の短い髪がさらりと揺れる。ガーネット色の赤い瞳は細められ、見るからに不機嫌そうな、冷え切った表情を作り出していた。
顔立ちは至って美しく、どこか中性的な雰囲気を帯びている。
「あ……」
エミリアの声が震えたのは、少し離れた場所にいるクラウディアたちにもよく分かった。
「ごめん、なさ……」
(この男ね。フォルクハルト・マルクス・ブライトクロイツ)
それは、カールハインツに聞いていた名だ。
(――この国の王で、私の父親)
父王フォルクハルトの、ひどく冷たい瞳に見下ろされて、クラウディアはにこっと微笑んだ。




