211 欠けた王女
ノアの指先からは、先ほど結界に触れた際に出来た傷から、赤い雫が滴っていた。
クラウディアの白い肌を穢すのは、本来ならば許され難いことだ。
それでも、その赤く濡れた親指の腹で、クラウディアのくちびるに触れる。
「姫さま」
死化粧として施された鮮やかな紅が、血の色によって暗く濁った。
「あなたに分け与えて頂いたものを、お返しいたします」
目を開けて、十年前に目の当たりにしたクラウディアの魔法を思い出しながら、滴る血を通して魔力を込めた。
「ですから、どうか――――……」
そうして、魔力が溢れ出す。
「……っ」
クラウディアの体が光に包まれ、反射的に目の前へ手を翳した。
一瞬の間に、金色の輝きが棺を満たし、ノアの視界を塗り潰す。
やがて光が消えた場所には、かつて魔法で見た姿と同じ、ひとりの女性が横たわっていた。
「……姫殿下」
先ほどまでここにいた、十三歳のままのクラウディアではない。
少し背が伸び、体の曲線が豊かに描き出された、十六歳の姿で眠っている。
それはまるで、仮死によって止まっていたクラウディアの時間が、ここで一度に流れたかのようだ。
(だが……)
ノアはすぐさま手を伸べて、クラウディアを抱き起こす。目覚めて微笑むはずの主君からは、瞼を開ける気配がしない。
その体は脱力し、肌は雪のように白いままで、相も変わらず人形のようだ。
「…………っ」
無礼を承知で首筋に触れる。
そこには血潮の温かさも、脈打つべき小さな音もしない。
(――心臓が、動いていない)
つい先ほど、ドロテアの紡いだ言葉が脳裏を過ぎる。
『それで、上手くいくかどうかは、分からないわ』
「…………姫さま」
そのとき、地響きのような凄まじい衝撃と共に、結界の壊れる音がした。
(……レミルシア国か)
クラウディアの亡骸を抱き寄せたまま、ノアは聖堂の天井を見上げる。
目覚めないクラウディアの亡骸は、やはりそのくちびるだけが鮮やかに、血の色を輝かせているのだった。
***
「――これがカールハインツ殿からの報告だ。クラウディア」
「…………」
レオンハルトの不意を突いて転移したクラウディアは、ジークハルトから一枚の紙を受け取った。
「ありがとう。ジークハルト」
湯浴みの直後に転移した所為で、ミルクティー色の髪はまだしっとりと濡れている。
ジークハルトが作り出してくれた上着を、ナイトドレスの上に羽織ったクラウディアは、長椅子に腰を下ろして報告に目を通した。
「それにしても、君が魔法を使えるなんてな。その上で僕の隠れ家をあっさり見付け、転移してくるとは思わなかった」
「ふふ。ほんのちょっぴりの魔力さえ取り戻せば、これくらいは簡単だわ」
「簡単、ね」
返事の代わりに微笑みを浮かべて、クラウディアは最後まで文を読み切る。
よく見慣れたカールハインツの書き文字は、こんな事実を綴っていた。
『呪いにより滅びた砂漠の国、シャラヴィアの宮殿内に、仰った像が見付かりました』
(……やはり、こちらの世界にも、女神像がある)
カールハインツに探させた女神像は、クラウディアが仮死の魔法で眠りに就く前、国王アシュバルの治める国で見たものだ。
最初はノアが見付け、クラウディアに対して、『何処か姫殿下の面影を感じさせる像』だと報告をしてきた。
(ノアはあの像を、私の母さま……『ドロテア』という女性を基に、作られたものかもしれないと感じたそうだけれど)
確かにあれは、クラウディアに関わった人物をモデルにしたものだ。
けれども残念ながら、それはノアの推察した母ではない。
(あの女神像は、私の前世『アーデルハイト』の姿をしていた)
そしてその像は、シャラヴィア国に呪いの魔法道具をもたらした人物が、運んできたものだと聞いている。
(――呪いの魔法道具を世界中にばら撒いていた存在の目的は、やっぱり私ね)
そのことを、薄々どこかで予感していた。
そしてあの像を目にしたとき、それは確信に変わったのだ。ノアにそれを伝えなかったのは、クラウディアが仮死の眠りに就いているあいだに、無茶な行動をさせないためである。
(この世界でも、元の世界でも変わらない。アーデルハイトを探し出す手配書のつもりか、宣戦布告か……いずれにせよ)
カールハインツの報告をゆっくりと折り畳み、立ち上がる。
(早く目を覚まして、直々にお話しをしてあげなくちゃ)
クラウディアは、その紙をやさしく暖炉に焚べた。
「……レオンハルトはいくら言っても、私のことを『クラウディア』と呼んでくれないの」
「……?」
脈絡のないその会話に、ジークハルトが首を傾げる。
「ただの意地悪か、興味がないのだと思っていたけれど。……思えば、そんな頑なさは全く持ち合わせていなさそうなあなたも、私をアーデルハイトと呼んだわね」
「……それは」
「大丈夫、ちゃんと分かったから。私……」
クラウディアは、にこりと微笑んで彼に尋ねる。
「この世界では、今世も『アーデルハイト』と名付けられているのではないかしら?」
「……その通りだ。クラウディア」
気遣わしそうに向けられたその返事に、クラウディアはとても納得した。
(私の『クラウディア』という名前は、母さまからの言伝なのだわ)
そう思うのには、理由がある。
(クラウディア……いまの時代、アビアノイアを始めとする国々においては、輝かしい意味を持つ名前)
けれど、アーデルハイトの生まれ変わりであるクラウディアにとって、少しだけ違った響きに聞こえていた。
(この名前は、五百年前の私が生まれた国では、『欠けている』という意味を持つ……)
今世の母が、クラウディアにこの名を付けたこと。
それが、前世で生まれた国においては、この時代と違った意味を持つこと。
それらは果たして、偶然なのだろうか。
(もしも今世の母さまが、私と同じ『五百年前の生まれ変わり』だとしたら?)
クラウディアを守るための周到さは、魔術の腕だけで説明できるようなものではない。
(たとえば、前世のお母さまの生まれ変わりが、今世の母さまで……もう一度、私を産んだのだとしたら)
この世界では『アーデルハイト』でありながら、実際には『クラウディア』と付けられた名前にも、『欠けている』意味があるのかもしれない。
(呪いの魔法道具をばら撒いて、私を狙う人間。その敵からも、『アーデルハイトから欠けているクラウディア』であれば、身を守れるという伝言の可能性は……)
クラウディアは、自らのくちびるに指先でそっと触れた。
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