199 懇願
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「――レオンハルト」
夢にも似た異なる世界の中、依然として目覚める方法を探しているクラウディアは、自身を捕らえている青年の名前を呼んだ。
「ねえ。レオンハルトったら」
「……」
「レオンハルト?」
お行儀悪くも執務机に座ったクラウディアの隣で、レオンハルトは黙々と書類をこなしている。先ほどから何度呼びかけてみても、一切顔を上げない。
「……もう」
クラウディアは片側の頬を丸く膨らませて、分かりやすく抗議を示してみせる。
「駄目じゃない。お名前を呼ばれたら、ちゃあんとお返事をしないと」
「…………」
「そうじゃないと……」
クラウディアは振り返り、執務室の入り口、その付近に控えた文官たちを見遣って言った。
「あなたの臣下たちに頼んで、お外に連れ出して貰うわよ?」
「……アーデルハイト」
レオンハルトの苛立った声音が、文官の身体を強張らせる。クラウディアは彼らを安心させるべく、にこりとやさしく微笑みかけた。
「レオンハルトが怖くてごめんなさい。お叱りは全部私が引き受けるから、怯えないで?」
「文官たちを誘惑するな」
機嫌が悪そうに言い捨てられて、クラウディアはレオンハルトを見下ろした。
「あら、私は上機嫌で過ごしているだけよ? 裾の短いドレスで机に座って、伸び伸びと脚を組んでいるのだって。こうしたいからしているという他に、理由は無いわ」
「…………」
「気掛かりだと言うのなら、お部屋に戻してくれて構わないわよ?」
ルームシューズを脱いだ素足のつまさきで、レオンハルトの脇腹をちょんとつつく。
「それもこれも、あなたがこうして四六時中、私を傍に置いて離さない所為だわ」
「……目を離すと何をするか分からないのだから、仕方がないだろう」
数日前、クラウディアが城の窓から飛び降りて以降、厳しい監視体制が敷かれていた。
寝室も一緒にされてしまい、レオンハルトが公務に出るときも、こうして同室に待機させられている。その上にほとんど相手をしてくれないのだから、クラウディアは手持ち無沙汰で仕方がなかった。
(ジークハルトに接触した所為……だけではないわね)
クラウディアが改めて思うのは、ノアと正反対の振る舞いをしてみせるこのレオンハルトが、やはりノアと同じ人物なのだということだ。
(育ち方が違っただけの、同一人格。魂も考え方も性格も同じ、多少歪んだところで変わらないわ)
たとえばクラウディアの肩には今、レオンハルトによって生成された、白い毛皮の上着が掛けられている。
突き放したような言葉遣いでも、冷たい態度を取っていても、その気遣いは変わらないのだった。
(反抗期を迎えたノアだと思えば、どんな横暴を働かれたって可愛いものだけれど。とはいえ、ずっと一緒なのは都合が悪いわね)
数日前にジークハルトとカールハインツに依頼した調べ物は、そろそろ果たされている頃だろう。しかしレオンハルトの目があっては、彼らと接触することは難しい。
(せめて欠少しでも魔法が使えれば、監視の中でも機会を作れるけれど……)
クラウディアの魔法は相変わらず、少しも形を成す気配が無い。
そんな訳でクラウディアは、無駄だと分かっているにもかかわらず、先ほどからレオンハルトへ訴え続けているのだった。
「ねえレオンハルト、退屈だわ。あなたが遊んでくれないのなら、お部屋に戻ってお昼寝がしたいの」
「駄目だ。許可はしない」
「……こんなに可愛くおねだりしているのに……」
敢えてしょんぼりしてみせると、レオンハルトは僅かに眉根を寄せる。やはり、根本的な性根の部分は、クラウディアのノアと変わっていない。
「……はあ……」
(あら。露骨に溜め息をついたわね)
黒曜石の瞳が、執務机に座ったクラウディアを見上げる。
そしてこのときレオンハルトは、思ってもみない言葉を紡いだ。
「――頼むから、俺の傍に居てくれ」
「!」
その瞬間、クラウディアは目を丸くする。
レオンハルトは視線を逸らし、何処かばつが悪そうな表情で、渋々とこんな風に付け足した。
「……俺がお前に懇願すれば、言うことを聞くんだろう?」
「……ふふっ」
あまりにも不本意そうなその言葉に、思わず笑みが溢れてしまった。
「不合格ね。だって、『可愛く』が抜けているもの」
「うるさい。あまりにも言動が目に余るようなら、魔法で強制的に眠らせるぞ」
そんなクラウディアたちのやりとりに、文官たちが戸惑いながら顔を見合わせる。
けれども監視の対策は、早々に講じる必要がありそうだ。
***
「――なんと言ってもレオンハルトったら、私のお風呂にまでついてくるのだものね」
「……浴場の中には入っていない……」
昼間の一件から数時間後、たっぷりとお湯の張られた湯殿の中で、クラウディアはのんびりと手足を伸ばしていた。
乳白色のお湯は少し熱めで、冷えた体を温めてくれる。五人は寝泊まり出来そうなほど広いお風呂には、入り口についたてが置かれていた。
「振り返ったら駄目よ? レオンハルト」
「誰がそんな真似をするか」
レオンハルトはついたての向こう側で腕を組み、こちらに背を向けて立っている。
その誠実さも、やはりクラウディアの可愛いノアと同じだった。
「……本当のことを、話してあげましょうか」
「…………」
ちゃぷんとお湯を波立たせて、クラウディアは湯殿の淵に頬杖をついた。
「私、ここではない別の世界から来たの」
レオンハルトは、反射的にこちらへと顔を向けようとしたらしい。
しかし、僅かに肩が動いただけで、結果としては一瞥すらも向けてこない。クラウディアはくすくす笑いながら、湯の中へ伸ばしていた脚を、人魚のようにゆっくりと曲げた。
「だから、九歳までのあなたを知っているわ。あなたがどんな経験をして、何を大事に思っていたかを」
「…………」




