198 転移
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聖堂に立ち尽くしたノアは、たったいまクラウディアの父王が語ったことを、心の中で反芻していた。
(……レオンハルト)
首筋に滲んだ嫌な汗が、雫となって肌を伝う。
とうの昔に捨て去った名前だった。だが、どれほどクラウディアから授かった『ノア』を大切にしようとも、忘れることは決して無い。
(……俺が、父から与えられていた、昔の名……)
それと同じ名前を持つ者が、クラウディアの生母を追っていた。
その事実が何を意味しているのか、ノアは思考を巡らせる。会衆席に腰を下ろしたフォルクハルトは、クラウディアの眠る棺を見遣ってこう続けた。
「これ以上の仔細は朧げだ。あの女がどんな手段を使ったのか――クラウディアを産むまでの日々を、どう過ごしたのかも」
フォルクハルトは忌々しげに、それでも単純な嫌悪だけには見えない表情を浮かべる。
「ドロテアはその後、私とクラウディアに魔法を掛けたのだろう。あの女によって封じられた私の記憶は、恐らくドロテアが計算した通りの順序で、定められた条件を契機に戻っている」
「……そのお話を聞いて、納得いたしました」
長らく沈黙していたカールハインツが、普段と変わらない表情で口を開く。
「クラウディア姫殿下がお生まれになってから六年もの間、陛下は一切の関心を示されることなくお過ごしだったはず。ですが十年前、陛下は突如我々に、クラウディア姫殿下のいらっしゃる塔への視察をお命じになられました」
その出来事であれば、ノアもよく知っていた。
何しろそれは、ノアがクラウディアと契約を交わし、最初に魔法を使ったときの一件だ。
「長らく遠ざけられていたクラウディア姫殿下を、何故急に気に掛けられたのか……あの当時は、他国との戦争のためだと仰っていましたが」
「我ながら、取ってつけたような理由ではあるが――あの女は、私が段階的に記憶を取り戻すよう仕組んでいたようだからな」
恐らく当時はフォルクハルト自身にも、何故いまになってクラウディアが気に掛かったのか、論理的な説明が出来なかったのだろう。
「ノア」
「…………」
国王フォルクハルトとカールハインツの視線が、同時にノアへと向けられる。
ノアは瞑目し、頭を下げながらこう告げた。
「……クラウディア姫殿下が、アーデルハイトとしての記憶を取り戻されたのも、間違いなく同じ頃合いであらせられるかと」
「――――……」
カールハインツは額を押さえ、ノアにとっては見慣れた渋面を作る。
「そのように重大な事実を、何故これまでに打ち明けなかった?」
「よい、カールハインツ。大方クラウディアが、誰にも言うなと命じたのだろう」
「しかし……」
「私の記憶において、クラウディアがアーデルハイトの生まれ変わりであるということは、今に至るまで封じられていた。少なくとも現状は、ドロテアの判断通りになったということだ」
フォルクハルトはそう言うものの、黙っていたことでどのような罰でも受ける覚悟はあった。ノアにとって重要なのは、クラウディアの命令に従うことだ。
しかし、フォルクハルトが記憶を取り戻したという状況を鑑みても、今は秘密を守るという段階ではない。
(陛下が今になって記憶を取り戻されたということは、何らかのきっかけが発生しているということになる)
そのきっかけが、クラウディアの危機に繋がるものである可能性も高いのだ。
「これより、私めが発言することをお許しください。陛下」
「言ってみろ」
聖堂に敷かれた赤い絨毯へ、ノアは静かに跪いた。
「姫殿下のお母君が仰るには、お二方の記憶が戻る鍵となるのは、追っ手なる者がこの国の結界に干渉すること。……追っ手の名は、レオンハルトと」
あの当時に起きた出来事は、それだけではない。
もうひとつ、ノアにとっては重大な出来事が、やはり同時期に発生しているのだ。
「――私が父より与えられた名も、レオンハルトです」
その瞬間、フォルクハルトが眉根を寄せた。
カールハインツが息を呑み、ノアのことを見下ろしている。そのことをはっきりと感じながらも、言葉を続けた。
「これまでの日々、私は姫殿下の寛容な御心に甘え、自らの出自を偽ったまま皆さまのお傍におりました」
無論、そんなことは最初から知っていて、それでもと見逃されたはずだ。
フォルクハルトもカールハインツも、そんな言葉を鵜呑みにするような人物ではない。それでも様々な思惑のもと、ノアがこの国にいることを許された。
(だが……)
ノアは頭を下げ、いつでも首を落とせる姿勢のままで口を開く。
「この国に敵対しようとするレミルシア国、現国王ジークハルト。……私はその従兄にあたる王族であり……」
十年前の出来事を、決して忘れていないつもりだった。
それでもこうして振り返れば、ノアの脳裏に刻まれた記憶にも、大きな穴が空いているのだ。
「レミルシア国から逃げ込んで、この国へと転移して参りました」
ノアはいまこの瞬間、心臓のある左胸に、強い力が脈打ち始めるのを感じていた。
「――恐らくは、姫殿下が前世の記憶を取り戻されたあの日、それと同じ瞬間に」
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