184 凍える世界
「……こちらに来るなと言っている」
こちらの世界のノアは、クラウディアの手をぱしっと払いのけ、肩を弱く押す。
後ろに退がったクラウディアに向けて、静かな瞳でこう続けた。
「あと一歩でも近付いたら、お前を殺す」
「…………」
その言葉も、クラウディアが幼いノアに出会ったとき、苦しみながら向けられた警告と同じものだ。
(あの頃のノアと似たまなざし。他人を本気で拒絶して、ひとりで死ぬつもりでいる男の子……)
けれどここにいる『レオンハルト』は、ノアとは徹底的に違っていた。
(私を守るためではなく、心から不要だと一線を引いている。この世界のノア……レオンハルトの積み重ねてきた経験が、そうさせているのだわ)
クラウディアが微笑みを作れば、レオンハルトは怪訝そうに眉根を寄せる。
「あなたの言うことを聞いてあげる。レオンハルト」
「……気安く呼ぶなと言っている」
「あら。いい子にしていようと思ったのに、早速言い付けを破ってしまったわね」
クラウディアがくすくす笑うと、レオンハルトは目を眇めた後で立ち上がった。
「膨大な魔力を持っていようとも、魔法を使えないお前に逃げ場はない。死にたくなければ、大人しくしていることだ」
「そんなに怖い顔をしなくても、逃げないわ」
クラウディアはレオンハルトに向けて、とびきりやさしい声音で告げる。
「あなたが私に、ここに居てほしいと言うのであればね」
「…………」
レオンハルトは静かにこちらを睨んだあと、部屋を出ていった。
クラウディアはひらひらと振った手を下ろし、窓の方へと近付いてみる。魔法で施錠されているようだが、外から凍り付いていて、どのみち開けられそうもなかった。
(レオンハルトは私のことを、『魔力を持っていても魔法が使えない』と言ったわ)
いまのクラウディアが魔法を使えないことは、この世界では周知の事実らしい。いまの状態が異常なのではなく、平常だということになる。
(現実の私は六歳で覚醒し、前世の記憶を取り戻したけれど――この世界ではそれが起きていないと仮定しましょう)
その上で、レオンハルトの言葉を整理した。
(この世界において。私が生まれたときには既に、何者かによって『アーデルハイトの生まれ変わり』であることが知られていたとして……)
そのためにクラウディアは追放されず、魔法が使えなくとも王城で大事に育てられて、塔では暮らしていないということなのだろう。
(それと引き換えに、この世界の私は魔法が使えない。現実の私はおじさまに殺されかけた衝撃で、前世の記憶を取り戻すと共に、魔法が使えるようになったのよね)
現実世界のクラウディアも、記憶が戻る六歳までのあいだ、魔法を使っていなかった。あの頃は思考に霞が掛かっていたようで、どうして魔法を使わなかったのかは思い出せない。
(いまの私もそうだわ。特定の事柄を思い出そうとすると、ぼんやりしてしまう)
クラウディアは凍った窓に息を吐き掛け、外の景色を見ようとする。けれどもここから見えるのは、雪の積もった庭の木々だけだ。
クラウディアに与えられたこの部屋は、随分と寂しい場所にあるようだった。
(この世界のノア……レオンハルト)
可愛い従僕と同じ姿をした青年が、クラウディアにあんなにも冷たい目を向けている。
(あの子の従兄弟であるジークハルトや、あの子を虐げた叔父はどうしているのかしら。実の妹が生きていれば、レオンハルトがあんな目をする青年に育つはずはない気がするけれど)
いまのクラウディアが彼の敵であることは間違いないが、それが何故なのかまでは分からない。
(とうさまの所で守られていた私を、レオンハルトが武力で奪ったかのような口ぶりだった。魔法の使えない私を欲したのは、人質のため? あるいはアビアノイアから、私を隔離したかった可能性も……)
やはり理由ははっきりとせず、クラウディアは小さく息をつく。
(眠った私が作り出した『夢』の世界で、どれほど物事の整合性が取れているのかも分からない。少なくともこの仮死の世界から出るには、魔法が使えるようになる必要がありそうだわ)
手のひらに魔力を込めてみても、それが魔法に変換する兆しはない。
(早くこの世界から目覚めないと、ノアに心配を掛けちゃう)
クラウディアは冷たい窓の枠に、こつんと額を押し当てる。
「……私のノア」
ここでは会えない青年の名前を、小さな声で口にした。クラウディアの纏っているドレスでは、ちっとも暖かさを感じない。
クラウディアは自らの体をそっと抱き締めて、死の眠りにつく前のノアを思い浮かべる。
「……お前がぎゅうっとしてくれないと、寒くて凍えてしまいそう……」
寄る辺もなく、誰にも届かない独り言だ。
クラウディアはそれからしばらくの間、迎えの来ない窓の向こうを、ぼんやりと見つめていたのだった。
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