182 姫君の目覚め
***
「――――……」
何かに呼び起こされるような感覚に、クラウディアはゆっくりと目を開いた。
辺りは甘い香りに満ちていて、見れば真っ白な百合の花だ。クラウディアがそっと体を起こしてみると、そこは透明な硝子で出来た棺の中だった。
随分と長い間、眠っていたような気がする。そこから掬い上げられた理由を辿り、クラウディアは自らのくちびるに触れた。
(……ノア?)
温かな魔力が触れたように思うのは、恐らくはここだ。けれども指でなぞってみても、その正体は分からなかった。
「…………」
棺が置かれているこの場所を、クラウディアはそっと眺めてみる。
ここは小さな聖堂らしく、静まり返っていて誰もいない。ステンドグラスからは鮮やかな光が降り注ぐものの、色がついているのはそれだけだ。
(知らない場所)
立ち上がろうとすると、少しだけ眩暈のような歪みを感じた。体が透明な膜に包まれている、そんな心地だ。
クラウディアは自ら選び、仮死の眠りについた。それは『アーデルハイト』の器として脆すぎるこの体の魔力強度を、眠っているあいだに作り直すためだ。
(『再構築』は終わったのかしら? 体は……)
鎖骨から胸元までを手でなぞり、その膨らみを確かめる。
真っ白なドレスに包まれた体は、仮の死を選んだときの華奢なものではない。身長は伸び、全体的に柔らかな曲線を描いていて、このくらいの体型には見覚えがあった。
(魔法で大人の姿に変身したときと同じ……十六歳くらいに成長しているわね。ひょっとすると、あれから三年ほど眠っていたのかもしれないわ)
だとしたら、きっとノアに心配を掛けている。
(いい子に待っていたことを、たくさん褒めてあげなくちゃ。いっぱい撫でて、ごめんねと告げて)
それから、クラウディアが眠りに就く前に口付けられたことについて、尋ねてみなくてはならない。
(ひとまずは、着替えましょう)
いま纏っている白いドレスは、可愛らしいが簡素でもある。
クラウディアはその裾を摘み、新しいドレスを生み出そうとして、目をすがめた。
「……魔法が、使えない?」
ドレスから手を離し、指先をステンドグラスの光に翳す。十六歳の女性に成長したクラウディアの指は、すんなりと細くて真っ白い。
(再構築に失敗したのかしら。死を免れたその代わりに、魔力を失った――……)
そのときだった。
「!」
聖堂の扉が開かれる。
中央に敷かれた黒色の絨毯の先には、ひとりの青年の姿があった。
クラウディアが知るよりも逞しくなった体格と、さらに背が伸びた長身。相変わらずの整った顔立ちに、黒曜石の瞳を持つ青年だ。
「ノア」
可愛い従僕の成長した姿に、クラウディアは嬉しくて微笑んだ。
クラウディアを見て、ノアは僅かに眉根を寄せる。その表情は変わっていないはずなのに、どこか知らない青年のようだ。
「会いたかったわ。私のノア!」
クラウディアはノアの傍に歩み寄る。
けれどもそこで、違和感を覚えた。それと同時に目の前のノアは、クラウディアが伸ばした手をぱしっと払う。
そうして冷たいまなざしが、クラウディアをはっきりと拒絶した。
「――近付くな」
「…………」
幼いノアと初めて出会ったとき、最初に向けられたのと同じ言葉だ。
無意識にもう一歩踏み出そうとしたクラウディアに、更なる警告が向けられる。
「こちらに来るなと言っている」
あのときのノアは呪いに殺されかけ、苦しみながら抗っていた。クラウディアを巻き込んで危険な目に遭わせまいと、必死に拒んでいたのだ。
「あと一歩でも近づいたら、お前も殺す」
けれどもいまのノアに向けられたのは、あの言葉とはまったく違う。
「……ノア」
「誰だ? その男は」
さして興味もなさそうな声音が、クラウディアにそう尋ねる。そしてノアは目を伏せると、クラウディアにとっての前世の名を呼んだ。
「『アーデルハイト』だな」
「…………」
こうして見つめても、この青年は間違いなく、クラウディアのよく知るノアと同じものだ。
「五百年前に生きた魔女。お前がその生まれ変わりか」
「…………」
クラウディアは微笑みを作る。彼が不快そうに眉根を寄せる表情は、クラウディアに向けられたことがないものだ。
「あなたの、名前は?」
クラウディアが微笑んだままでいることを、彼は怪訝に感じているのだろう。これが普通の十六歳の少女であれば、恐ろしくて泣き喚いてもおかしくはない。
けれどもクラウディアが見つめると、青年はどうでもよさそうにこう名乗る。
「――レオンハルト」
(……そう)
それは、『ノア』が最初に名付けられたはずの、本当の名前だ。
レオンハルトの名を持つ王族の少年を、クラウディアがノアと名付け、自らの従僕にした。そんな出来事が、存在していないことになっている。
(ここは、私の知る現実世界ではないのだわ。この子が私の与えた『ノア』ではなく、『レオンハルト』のまま大人になった世界――……)
黒曜石のような美しい瞳は、敵を見るまなざしでクラウディアを睨み付ける。
ノアの纏う軍服の胸元には、勲章が輝いていた。あれは、レミルシア国の王族のみが身に付けるはずものだ。
それを見付けて、クラウディアは目を細めた。
(六歳の私と、九歳のノアが出会っていない。その上で、ノアがレミルシア国の王族に戻った――……そんな運命の、果てにある場所ね)
改めて微笑んだクラウディアに、彼は僅かに目をみはる。
けれどもクラウディアは、はっきりと理解していた。
(ここでの私は、この子の敵となる存在)
***




