180 主君との約束
【第5部1章】
「――俺の振る舞いに何か問題が?」
アビアノイア国魔術騎士団長の執務室で、ノアは平然とそう告げた。
限られた立場の者だけが着用できるマントも、騎士としての功績を分かりやすく証明する無数の勲章も、すべてが重くて邪魔なだけだ。
それらはすべて、ノアが望んで得た訳ではない栄誉だった。それでも、この不本意な装飾を受け入れている。
責務とは、与えられた立場に応じて果たさなくてはならないものだと理解しているからだ。
しかし執務机のカールハインツは、呆れた様子で溜め息をついた。
「あるに決まっているだろう。馬鹿者」
アビアノイア国の魔術騎士団長であり、筆頭魔術師という立場でもあるカールハインツは、ノアにとって十年来の師だ。ノアが九歳の頃から剣術を教わって、主君を守る技を学んだ。
そしてつい二年前からは、上司と呼べる存在にもなっている。
「お前はもう、王立騎士団の一隊の長なんだぞ」
「――――……」
一介の従僕にしかすぎなかった身寄りのない少年が、いまや王室直属の騎士団で、騎士隊長という名誉ある立場についている。
ノアの立身出世にまつわる物語は、同じく孤児から筆頭魔術師に登り詰めたカールハインツに続き、国内外でも噂になっているのだそうだ。
けれどもノア自身からしてみれば、そんなものにまったく関心はない。
「ご命令は滞りなく果たしています」
「部下を心配させた時点で未熟だ。いつ見てもお前が働いていると、みな嘆いていた」
「俺が子供の頃、カールハインツさまにもまったく同じ感想を抱いていましたが?」
「姫殿下のご命令があったときにそう見えたのだろう。あのお方のお願いごとは、他の人間に任せる訳にはいかないからな」
カールハインツは背凭れに体を預けながら、ノアを見上げた。
「お前の焦りは理解している。……クラウディア姫殿下が眠りに就かれてから、三年が経つのだからな」
「…………」
ノアの主君であるクラウディアは三年前、自らの命と引き換えにする魔法によって、仮の死を迎えた。
クラウディアの魂は、五百年前に存在した伝説の魔女アーデルハイトのものだ。
そしてその膨大な魔力は、クラウディア・ナターリエ・ブライトクロイツという王女の体では、どうしても制御することが出来ないものだったらしい。
『私は、この体を一度構築し直さなくてはならないわ』
十三歳のクラウディアは、ノアにだけ事前に打ち明けた。
『でなければ――……』
この世界には、呪いと呼ばれる忌まわしき力がある。
五百年前に最強の魔女だった『アーデルハイト』が命を落としたのも、その呪いによって世界を侵略する勢力に、最大限の魔法で対抗するためだった。
そんな呪いの力を宿した魔法道具が、クラウディアが生まれ変わったこの時代に、各国の王族を中心にして再び広まっている。
そして恐らくそれに関わるのが、ノアの故国であるレミルシア国と、従兄弟であるジークハルトなのだった。
『ジークハルトは、幼いころに見た魔女である私に執着しているわ。いまは父親の国葬のために、国境を閉鎖して封印の中に閉じこもっている。……けれど三年後、大喪の儀が定められた通りに終わったときは、今度こそ全力で仕掛けてくるはずよ』
クラウディアはそう言って、ノアに向かって微笑んだのだ。
『私の体は、私が使う魔法に耐えきれない。これでは忌まわしき呪いを排除することも、いずれやってくるはずのジークハルトを退けることも出来ないわ』
『そのようなものは、すべて俺がこの身で果たします。姫殿下が動かれる必要はありません、ですからどうか……』
『ごめんね、ノア』
ノアが止めようとしても、クラウディアは頷いてくれなかった。
『他の誰にも頼めないの。……私のお願いを、聞いてくれるかしら』
『…………っ』
そんな風に告げられて、ノアが逆らえるはずもない。
『これは私の命を使う魔法。死と引き換えにした強大な力で、体を構築し直すの』
『…………』
『いわゆる仮死というものよ。一度は死んでしまうけれど、本当の死とは少しだけ違う――再構築が終わった暁に、私の亡骸は目を覚ますわ』
クラウディアが首を傾げると、ミルクティーの色をした髪がさらさらと流れた。
『それまで私を待っていて』
『――姫殿下』
『可愛いお前の元に帰るためなら、私は必ず目を覚ませると思うの』
それからクラウディアは『死』の直前、ノアにいくつかの願いを向けた。
クラウディアに何があっても、変わらずに真っ直ぐで有り続けること。
クラウディアの知るノアのままで居ること。
それは、五百年前に『アーデルハイト』として置いてきた弟子たちのことをずっと案じていたクラウディアの、心からの願いだったはずだ。
「――もう行っていいぞ。ノア」
溜め息をついたカールハインツに許されて、ノアは騎士としての一礼をした。
「失礼いたします。カールハインツさま」
そのまま団長室を出る。向かう先は転移魔法を禁じられた部屋のため、赤い絨毯の敷かれた廊下を黙って歩いた。
『私の可愛いノアで居て。やさしくて誠実で、誰よりも強い子』
王城の中央にあるこの小さな聖堂は、儀式や祭典に使うものとは違う、王族たち専用の場所だ。
ささやかな祈りのために使われる場だが、ノアは特別に立ち入りを許されている。赤い絨毯の先、数段高くなった場所の台座には、漆黒の棺が置かれていた。
中を埋め尽くす無数の百合は、まるで真っ白な雪のようだ。特別な魔法によって守られた体からは血の気が失せ、死化粧の紅が施されたくちびるだけが、林檎のような赤色に染められている。
ノアは棺の前に立つと、動かない主君のことを呼んだ。
「――……姫さま」
ノアの王女であるクラウディアは、死を迎えた日と変わらない、美しい姿のままだ。




