175 人としての願い(第4部最終章・完)
『愛おしくとも。ただの道具だなんて、思えなくなっていたとしても』
「……これは」
『憎悪と呪いで作り出した、私の息子。私が憎しみを忘れては、この子は生きていられなくなってしまうかもしれない……』
ゆっくりと体を起こそうとしたアシュバルを、ナイラが慌てて支える。今のアシュバルの体はすべてが人間で、異形への変貌は何処にもない。
『ごめんなさい、アシュバル』
月食が月を塗り潰し、月光など掻き消えた中でも、アシュバルは人のままだった。
『私は死んでも憎み続けると誓うわ。黄金の鷹を壊せと、そのために生んだのだと、お前の存在意義を唱え続けながら』
サミーラの声は泣いていた。それを察したであろうアシュバルが、何かを堪えるように強く瞑目する。
『私が死んでも、あなたが生きていられるように』
「……っ、母さん……」
『失敗』の理由は、簡単なことだったのだ。
(アシュバルが、黄金の鷹を上手く壊せなかったのは。『黄金の鷹を壊すために生まれた』という根本が、お母さまによって変わってしまったからなのね)
どれほど言葉で繰り返しても、本当の願いとは違っていた。
「お母さまの首飾りは綺麗だわ。アシュバル」
クラウディアはノアの方へと向き直り、アシュバルに告げた。
ノアは何も言わずに察し、クラウディアの頬に手を伸ばす。輪郭を伝う汗を指で掬ってもらいながら、クラウディアはアシュバルに説いた。
「人が死んだあとに残る願いは歪むと、あなたは言っていたけれど。死してもなお消えない、形を変えることのない、そんな強い願いは存在すると私は思うの。……もちろん、とっても難しいことだけれど」
女神像の着けている首飾りは、恐らくサミーラの輿入れ当夜のまま、歪むことなく輝いている。
「お母さまの呪いは、変貌していないわ」
「……いまも、ずっと……」
その『呪い』が黄金の鷹を壊すことではなく、彼女の真なる願いの方だということは、わざわざ口にするまでもないだろう。
今でも実感が湧かない様子で、アシュバルが自分自身の手のひらを見下ろす。握ったり開いたりをした上で、呆然と呟くのだ。
「……俺はまだ、人のふりをしたままでいられるのか?」
「っ、馬鹿!!」
アシュバルに抱き付いたナイラが、力一杯の声で叫ぶ。
「私にとって、お前はずっと人だった!!」
「!!」
それを聞いてクラウディアは微笑んだ。絶句しているアシュバルに対し、ほとんど泣き声のナイラが続ける。
「お前がそう思えなかったとしても、私が信じ続ける。願い続ける。私がお前を、人でいさせる!」
「……ナイラ」
「いつかお前が、それでも崩れそうになったら! そのときは私が何をしてでも、お前を消してやるから……!」
いよいよ涙に濡れた声が、最後に弱々しく紡ぐ。
「……その日が来るまで、お前は私の大切な『人』だ……」
「…………」
ナイラに縋られたアシュバルが、息を呑んだ。
けれどもやがて彼は笑い、少しだけ困ったような顔をする。ナイラの背中をぽんぽんと撫でて、こう伝えた。
「……お前が泣くところ、初めて見た」
「うるさい」
「可愛いな。……ちゃんと見たい」
「うるさい……!」
そうして今度はアシュバルの方が、ナイラに縋るように腕を回すのだ。
「……ありがとう」
クラウディアは息を吐き、ファラズの方を振り返る。
「これで一件落着ね。あとはお願いできるかしら? おじさま」
「……クラウディア殿。ノア殿」
こちらに歩み出たファラズが、クラウディアたちの前で跪いた。この国でも最上級の礼を表す、そんな姿勢だ。
「我が主君を、恩人の息子を、そしてこの国を救っていただいたことを御礼申し上げます。どのような言葉を尽くしてもお礼のしようがない恩義、まずは我が王に代わって謝意を表明したく……」
真摯に振る舞うファラズの様子は、これまでの掴み所がない様子とは打って変わっている。
こうしていると忠実で勤勉な臣下に見えないこともないと思いつつ、クラウディアはノアを見上げた。
「ですって、ノア。お前に任せるわ」
クラウディアはノアに手を伸ばす。ノアはすべてを察した様子で、クラウディアを抱き上げながら言った。
「こちらの要求を出せるのならば、このお方がお休みになれる部屋の用意を。……目覚めるまで、数日は掛かるかもしれません」
(さすがはよく分かっているわね。……私のいい子)
うとうとと微睡むクラウディアは、ノアに身を擦り寄せて目を瞑る。
先ほどまでの魔法の所為で、あちこちが限界を訴えているのだ。けれども頭だけは妙に冷静で、次にすべきことを巡らせていた。
(今回でよく分かったわ。この体、王女クラウディアという器のままでは、どうにもならないということを)
クラウディアはゆっくりと目を開けて、視界の向こうにぼやける女神像を見据える。それからすぐに、ノアのことを見上げた。
「……姫殿下?」
(そんなに心配した顔をしなくていいの)
クラウディアは手を伸ばし、よしよしとノアの頭を撫でる。
その上で、そうっと心の中だけで唱えるのだ。
(……この次で、きっともう、おしまいだから……)
「……?」
それを告げない代わりに、もうひとつの本心を微笑んで告げる。
「いつもありがとう、ノア。大好きよ」
「――――……は」
「ふふ」
驚いた顔がとても可愛い。けれど年下扱いをしすぎると、また不服そうな顔をするのに違いないのだ。
だからクラウディアは、ぎゅっとノアに抱き付くだけにする。
「おやすみ、なさい」
「……っ。あなたは、また……」
こうしてクラウディアは上機嫌のまま、安心できる腕の中で目を閉じたのだった。
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第4部エピローグへ続く




